更なる文学への傾倒と、読書の合間の気分転換も兼ねて時々、詩集の中の一篇を取りだし、読むことがある。
詩への誘いのきっかけは、ほとんど毎回欠かさず視聴しているある文学Youtuberの方の影響からであるが、お陰で古今東西様々な詩人の詩を味わう愉しみが増えてきた。
やはりT.Sエリオットの詩を理解するには、様々な詩を味わう修練がもう少し必要である。
エリオットの詩は、多分一回読んだだけではほとんど理解できない。
しかし、その詩にしては長く、小説のような流れを持つ一つ一つの文節に、類まれなるセンスを感じることは出来るだろう。
久しぶりに本棚から取り出した今回は、前述の文学Youtuberの方のお気に入りの一篇「婦人の肖像」を読んでみた。
強いて喩えると、村上春樹のような一見気取ったように思えるその文体は、実は至って自然体で自分がその気さえなれば、たちまち響きの心地よさに少し印象が変わってくる。
理解をより深めたく、何度でも読みたくなるのである。
エリオットの詩は、基本難しいのであるが「感じさせる」のである。
「婦人の肖像」は、ある男女の別離までのことを3章仕立てで綴っている。
女性が訥々と言葉を並べ立てながら別れを惜しみ、別れ遠くに離れてしまった男は、実は彼女にまだ心を奪われたままでいることに気づく。
とても雑駁に推察ではあるが、私の感じ方はこのようであった。
一篇の詩を理解する、あるいは理解した気になるには、何だか長編小説を一冊読んだぐらいの労力と達成を感じるものである。