田山花袋は、暫く以前からその名前を識っていたものの、余りにその存在が有名で自分の中で文学的スタンダードのきらいがあり、今まで読んでこなかったのであるが、その一流の文体を味わうと、私の凝り固まった意識は読み遅れの単なる文学的劣等感に他ならないことが、火を見るよりも明らかであった。
では何が文学的劣等感を起こさせているかというのを一口には言い表し難いが、過去を遡り良い時代の良い文学を読んできた人や、遺されてきた数々の文学作品への羨望がそんな意識を起こさせているかもしれない。
文学とその媒体である「本」への羨望と、元来の収集癖がうまく(ここは⁉であるが)ブレンドしたのが今の私の状態であると客観的に思っている。
満を持して読み終えたはじめての田山花袋の小説はこの「蒲団」である。
本そのものが古く薄汚れているのだが、その古さは「本を読むに支障ないもの」として、近年はどちらかというと寧ろその古さを歓迎している。
この「蒲団」は、美しい自分の門弟に横恋慕した身勝手な男の話であるが、このどうしようもない男の遣る瀬なさを、丁寧且つ滑稽な意識の潮流に乗せ最後まで綴り上げるので、却ってそれが美しくも感じたりするのである。
男はあくまで監督者として弟子の女性の行動を指導するため、決して自分の恋心をおくびにもださないのであるが、間接的に女性の恋路を引裂く操作を施したり、家族への当りが悪くなったりと意識の面において、もし立場がそうなればわからずでもないという態度に表している。
小説を読む場合、勿論架空の話にもかかわらず、特定の登場人物に肩入し、つい感情論を展開しがちである。
「蒲団」は最後の場面が最も際立つので、もし読めば「この男、女々しくて気持ち悪い」との印象を抱く人も少なからず出てくるかもしれないが、一歩引いてその前段の集大成と考えると少し印象が異なっていくように思う。
それには特定の人物の心情だけに加担せず、この作品で言うところの主人公の男、その妻、門弟の女性と恋人、女性の父親と、それぞれの人物の視点で話を追ってゆくと、何とも遣り切れない切ない話ではないかと私は感じるのである。
なぜこの旧い作品が版を刷新しながら今も読み継がれるというのは、読めば解る人間の普遍的精神が遺憾なく籠められているからではないだろうか。