余りある物や手段に充たされた今の私たちの在りようを、もう少し純粋に本来人間として感じ取るべき感情を呼び覚ますのには、旧き良き時代の文学に立ち還るのも一つの方法であると私は考える。


 確かに新しい時代の小説は、新しい時代の姿をキャッチーに捉えているかもしれないが、では百年後も人々に愛し読み継がれているかといえば、おそらくそうではないと思う。

何故ならそこには、いつの時代にも共通の人間の心情・行動といった普遍的要素が著しく少ないからであると考える。


 これらはあくまで持論であるから、必ずしもそうと言い切れない部分はあるのだが、やはり旧い時代の小説は人間誰しも持っている感情の深奥へ巧みに触れる部分が多いので好きなのである。


 シャーロック・ホームズとワトスンの冒険的な活躍を存分に味わった後の(正確にいえば「バスカヴィル家の犬」の終盤頃から)次の読書候補は、自然国内文学ならではの情緒ある趣を渇望していたので、その文の静謐さと内容に評価が高い島木健作の短編小説「赤蛙」を捲ってみた。



 先ず感銘を覚えるのは、全体通してシンプルで研ぎ澄まされ森閑とした文体である。

 この話の中核を成すのが、病気療養中の散歩中に浮洲で見た赤蛙のある行動なのだが、シチュエーションは何処か志賀直哉の「城の崎にて」を彷彿とさせる部分がある。

 例えば幼い時分、蟻ん子が地面に作った巣まで、懸命に食べ物を運ぶ姿をしゃがんで暫く観察し続けたことってないだろうか。

 そんな何気ない記憶の情景を思い浮かべながら読んでみると、普段あるようでなかなか遭遇し得ない、小生物の生死の一部始終を見つめる主人公の心境の変化を累々理解できやすくなるのではと思う。

 これを読むと「感銘」というのは、日常の些細な出来事からでも十分受取れるものではないかと思うのと、場合により生死についての倫理観まで変えてくれるきっかけにもなったりするとつくづく感じるのである。


 この作品は、作者の没後に世に出たもので遺作にあたるものとなっているが、作者は「転向文学」の第一人者のようで、「生活の探求」はその代表作の一つにもなっている。

勿論同作は例に漏れず私の本棚に並んでいる。