炬燵で読書している時はいつでも寝られて、いざ布団に移動するとなかなか寝付けない日もある。


 昨晩はそのような日であったが、今読みかけの島崎藤村の「夜明け前」、小林多喜二の「蟹工船」を一旦置いて、尾崎士郎の短編集から「蜜柑の皮」という20頁余りの小説を読んだ。



 事の発端はこうである。
家の手用事の間、効率的⁉にYoutubeのサムネイルからの自動再生を流したりするのだが、最近時々観る短時ドキュメンタリーに死刑に関わる追想めいたものがあった。

 その中で死刑執行に関わった人(役割は忘れたが)が、受刑者の最後を見送る際、その履物が鮮明に記憶に刻み込まれ、三日三晩夢に出てくるほどであったという話があり、やはり幾ら罪の清算といえど、人と人が関わること、執行側も人間なので精神負担の大きさの程が窺い知れるものがあった。

 それもあって、朗読チャンネルで知りつつ今暫く読むのを控えていた「蜜柑の皮」をあらためて引き出したのである。

 「蜜柑の皮」という題名だけではどんな話か想像付き難いと思うが、簡単にいうと教誨師の独白調で、死刑執行を目前に控えた受刑者たちの最後の様子に焦点を当て語ったものである。

 時はちょうど今頃1月18日、1日に11人もの死刑囚を見送った教誨師は、これを境に職を辞し当時の鮮烈な記憶を滔々と語るのであるが、ここで受刑間近に迫った死刑囚たちの様子と並んで出てくるのが、その受刑者に配られた蜜柑の存在である。

 ある者は食し、ある者は拒否し、刑場に向う受刑者がさっきまで居た部屋に残ったのは、蜜柑であり、食べ終わった蜜柑の皮なのである。
ここが前述の履物の鮮烈な記憶に類似している。

 つまり私が思うところ、檻の外からしか接することがなかった教誨師の目線からの受刑者が生きた証跡は、それぞれの蜜柑の皮の様子しかないのである。

 順番に死刑囚を見送りながら、人間的な情緒が麻痺してきた教誨師は印象深いことを語っている。
あの人たち(受刑者)が何故こんな運命になったかというより、何故人間にこんな運命があるのかということを。

 更に拍車をかけるのが、教誨師の懊悩と正反対の典獄の態度である。
典獄は既にもう時間内に事を片付ける事しか執着しておらず、人間的な酌量が著しく欠けている(敢えてそうしているのか)点である。

 読むと暫く重苦しくなるのであるが、人の生死の軽重を考える上で、読んでみる価値のあるものではないかとも思うのである。