独り読書会というのも悪くない。

単なる読書であれば、読後に面白かった・そうでなかった、後味の良し悪しなどのぼんやりした雑感で終わってしまうところであるが、気の持ち方を「読書会」ということにすれば、そこにちょっとした調査や自分なりの考察に頭を働かせる時間を作ろうと務めるので、ゆっくり深く読めた気になる。


 勿論、長編ではなかなか手間をかけることになるのと、途中から意識が分散し作品との根比べによる忍耐強さが要求されるので、私としてはコクの効いた短篇(短い程いい)が、考察に向いているのではないかと思っている。


 読書の合間の嗜みとして、近頃関心を寄せているプロレタリア文学に類する作品から、葉山嘉樹の作品集「淫売婦・移動する村落」の所収である「セメント樽の中の手紙」を選りだしてみた。



 この作品の筋を申し上げると、あるセメント工が樽詰めのセメントの中から拾い上げた木箱に収められた女工の手紙に、驚愕の出来事が綴られていたというものになるのであるが、ここで紐解いてみたいのが、セメントと時代背景である。


 日本がセメント製造が始まったのが、明治8年でおよそ1世紀半の昔である。

それから大正13年に紙袋詰めに統一されるまでは、木樽にセメント詰めする製法が取られていることから、作品の時代は明治〜大正後期ではないかと推測される。


 一見すると、驚愕たる女工の手紙の内容が主のように思えるのだが、実はそれを拾ったセメント工の働き方や賃金、彼の収入から見た家庭環境に着目したいところである。


 11時間労働に休憩は昼食と午後の2回きりで、防護対策も何もなく、1日中セメントが尽きるまで作業に追われ稼いだ日銭の半分が妊婦の妻の食費に消える上に子沢山。

そして彼はこんな風にボヤくのである。

──かかあめ、子供ばかり作って飯ばかり食いやがる


 責任の一端は彼自身にもありそうだが、兎に角仕事を選ばず働かないと、今日明日すらままならない状況であることが、彼にとって目下の厄介事であることが想像される。


 そして彼はふとした偶然で木箱の手紙を読んでしまったことから、更に厄介事に直面する羽目になる。


 その手紙の要約はこうである。

─私の恋人がセメント破砕機に落ち込んで、砕石とともにセメントになってしまった。

恋人の骨肉から作られたセメントが、今どこでどのように使われているか教えて欲しい─


 これは、今日の生活にも喘がんばかりの状況にある人にとってもそうでなくても、とても抱えきれる話ではない。真実であれば──


 ここで真実であればと述べたのは、手紙が率直で悲壮感漂う書きぶりである反面、骨肉の表現がどこか耽美で詩作めいたものがあるので、実は女工さん若しくは女工さんを騙った人物の悪戯ではないのかという疑念が否めない点である。


 悪戯の手紙と仮定した場合、セメント工夫と同様の長時間労働に低賃金という環境で、趣味や娯楽に耽る時間も金もないという抑圧された生活の鬱憤を文字に綴って晴らす閃きの一つだったのではないかと想像に絶えない。


 その手紙を開けてしまったセメント工が、酒を一気に呷り呷り、妻の膨らんだお腹を見るというラストの場面がある。

これは、目下頭をもたげ目を背けていた生活苦の現実に、目を向けた彼なりの意思の現れ、つまり現実へ現実逃避したという行為ではないかと私は考える。


 抱えきれない壮絶な死(手紙によると)より、苦しい現実ではあるが新しい生が誕生する事のほうが、余程喜ばしい事ではないかと、彼はそう思ったのかもしれない。


 この後手紙がどうなったのか読者は知る由もないが、また間が空いたらもう一度頁を捲って、この話を反芻するであろう。