昨日、日中の痛烈な風邪引き症状も落着き、家の大掃除をしようと各棚類を拭いていると、やはりまだ本調子ではないので、少しだけ本棚の整理をしてみた。
ということで、今年の蒐集傾向と耽読傾向を私の読書記録ノートから連連と振り返ってみたいと思う。
先ずは昨年末。どうも師事する文学ユーチューバーの影響を受けてか、カール・セーガン、ブラッドベリ、モリエールなどSFや戯曲に糸目をつけず蒐集している。
そして昨年末を締め括った読書は、結城昌治の「公園には誰もいない」であった。
今でも通勤途中の公園にこのタイトルを起草する。
残念ながら、まだ“ショージアン”には至っていない。
そして2023年最初の古本蒐集は、諸井誠の「ロベルトの日曜日」という小説である。
読書は志賀直哉を皮切りにクリスティ、チェーホフ、ヘミングウェイ、三島由紀夫、国木田独歩、井伏鱒二、プーシキン等など、国内海外に拠らず思いついたまま読んでいるようだ。
そして、一月末に上述のユーチューバーさんの影響により、「ランボー詩集」から一編を読んでいる。
ここからが暫くの詩集集めの転機となったようである。
ボードレール、堀口大學、室生犀星、中原中也、ホイットマン、ゲーテ、バイロン、ヴェルレーヌなど古今東西の詩を肌で感じようと試みた時期であった。
この辺りで満を持して、清岡卓行の隨筆「手の変幻」からミロのヴィーナスについて考察した「失われた両腕」を読んでいる。
2月頃からふとにシャーロック・ホームズシリーズが読みたくなり、烈火の如く文庫本を蒐集している。
読んでいるものは初のジッド、コナン・ドイル、モーム、シェイクスピア、バルザック等など海外の名作家が多めである。
4〜5月は読書量より蒐集量が勝っているようである。
まだここも蒐集傾向は雑多で、ツルーゲーネフ、クライスト、ジョルジュ・サンドにバーネット、国内文学では朗読チャンネルがきっかけの小山清、村上龍、大江健三郎、岡本綺堂などこれも多種多様である。
そして、ノヴァーリスの「サイスの弟子たち」から、自然と人間の調和について学び、持論を展開している。
そして6月、ここでは4〜5年振りにSF小説やボルヘスなど一風変わったジャンルの蒐集が再燃している。
志賀直哉の長編「暗夜行路」を時間をかけて考察し、小山清の「メフィスト」を堪能したのが昨日のようである。
ハーラン・エリスンやデーモン・ナイトに羨望の眼差しを向けたのもまだ新しい。
8月からSF、日本文学など偏りを付けずあらゆる作品を堪能しているようである。
この頃、上林暁という新たな小説の拠り所を見つけているようだ。
そして9月から今まで日本文学の読書と蒐集に耽っている。
三島由紀夫の「憂国」、横溝正史の「真珠郎」、森鴎外の「魚玄機」、漱石の「文鳥」等など、振り返ればもう読んで3ヶ月も経っている。
10月は小山清の慈しみ溢れる「落穂拾い」、嘉村礒多の現実的な魂の困窮を感じる数作、菊池寛の「屋上の狂人」、正宗白鳥の印象深い短編「玉突屋」、二葉亭四迷が案外馴染み易い作風と知った「平凡」等など、バラエティ豊かな近代文学に傾倒していた。
11月からこれまでは、小松左京の「復活の日」、森村誠一の「人間の証明」、安部公房の「燃えつきた地図」などの長編に挑みつつも、広津柳浪の短編「変目伝」を読み、桂米朝の落語「無精の代参」の怠け者振りに大いに笑った。
久しぶりの上林暁に「天草土産」を読んで心温かくなったのも早や一月以上前である。
そして今、新たな年に淡い期待を籠め、島崎藤村の時代長編「夜明け前」を読んでいる。
この作品は実に平坦なので、読むのに時間を費やしているが、一節毎を締め括る文体が実に情緒と風情を感じるもので、小説の面白さを感じるというより、激動の時代に生きる人間の荘厳な魂を感じるものである。
そして蒐集の締め括りは以外にも文学小説ではなく、数学者岡潔の「春宵十話」になりそうである。
小学生以来、私の最も苦手な教科である数学に魂を費やした人の言葉「数学は情緒である」という言葉を拝読したいがためである。
さて来年の読書はどうなるであろう。
もう本棚は既に満席に近い状態である。
もっと深い読書をしなければと思いつつ、大好きなBOOWYの伝説のGIG映像を堪能し、心を青春の日に還している今日此の頃である。