このところ、夜詩篇を嗜んだりすることも増えたのであるが、よくよく考えると「詩」というものは幼い頃から知らず知らず親しんでいるものではないかと思っている。


 「詩」というと、歌の歌詞なども含めて「詩」とまとめることも出来ると思うが、学校の国語の授業においても、「詩」の良さに触れる時間が往々にしてあったのである。


 私は小学生四年生の国語の教科書に載っていた、赤岡江里子さんという方の「リンゴとポンカン」という「詩」の授業を今でも憶えている。


 細かい詩の語句は憶えていないのであるが、自分のところに、田舎の親から林檎とポンカンの小包が届いたというような内容だったと思う。


 その授業の際先生は、この詩篇について感じるにおいは何かと、あえて作品の中で言語化されてない部分を質問された際、他と異なり「ふるさとのにおい」と発表した私は、もう一つ上の学年に行くようにと、先生にその場で腕を引かれた何かしら恥ずかしいような思い出がある。


 つまりこれには、他のクラスメイトからは出てこなかった、先生が期待していた以上の回答が得られたからではなかったかと思う。


 その時代の頃ぐらい研ぎ澄まされた感性で、詩を堪能したいものだと、子供っぽさが未だに抜けない大人になった私は思うのである。



 先生との思い出といえば、先般通読したヘッセの「世界文学をどう読むか」に併録されている「学校時代の思い出」という、ヘッセと学生時代の先生についての興味深いエピソードが書かれた短い私小説がある。



 ヘッセの学生時代の先生はというと、何かと手脚が飛んでくるのが日常的で、非常に気難しかったとのことで、中でも二人の変わり者の教師とのやり取りについて追想している。


 その中でも、普段の先生の姿を見たヘッセは、先生から自分だけに向けられた一種の特別感なども感じており、厳しかった中にも成人した今でも記憶に残る思い出としている。


 少し前に読んだ本は少しも憶えていないのに、自分の見聞きしたものはずっと記憶に残っているものがある。


 大作家ヘッセと自分を重ねるのは大変畏れ多いのであるが、人の記憶とはこの様なものなのかと思うのである。