昨夜放映された、私の師事する文学解説者のYouTubeライブ配信にて「書物」を中心にした興味深い話があった。


 それによると「書物」とは、何度でも読み返したくなるもの、積んでいてもそこから精神性を感じるもの、それが漫画でも小説でも自分がそう思えば「書物」であるということということで、「書物」という響きを得ることによって、私の棚に今も燦然と並んでいる古本、これから並ぶであろう古本の数々が、一層神々しく感じてくるのである。



 ところで私は、以前綴ったことのある本の家計簿的な、本の購入ノートの三代目から、初代ノートへの書き写し、いわゆる「書写」の端くれのようなことをしている。




 実際は単なる自己満足であり、時間の空費に他ならないのであるが、原点回帰や過去の回想という意味で、ある時期から記帳を止めていた古いノートへの書写しは、書写されたことによって、自分の中で爽快なものとなっている。
ということは、現状の記帳に満足してないということも潜在しているといえる。

 それらのノートが完成すれば、是非「台帳」と読んでみたい。
「台帳」というのも「書物」のような良い響きがある。

 ちなみに自分の書き癖の源流は?と想起してみると、今は昔のVHSの時代、複数のカセットテープに何を録画しているか迷わないため、母親がメモ用紙に番組名をこまめに書き取っていたことを思い出す。

 カセットテープの背に番号シールを貼ることで、「1」は○△□、観終われば横線で消し、また新たなものを追記するといったような、一度飛ばすと、現状が分からなく作業である。

 不思議にそんなことで一日を費やしても、ほとんど苦にならないのである。