さっき広州アジア大会の柔道の試合を見ていたら、日本人選手と北朝鮮の選手が試合をしていた。

残念ながら日本人の選手は負けてしまったが、この試合はちょっと興味深い点があった。

北朝鮮の選手が指導(サッカーで言うイエローカードの4分の1くらいの警告のこと。アバウトですんません。。)を審判に出されたとき、審判に対して一礼した。

今や日本人選手ですら審判の注意にたいして礼をする人は少ない時代に北朝鮮の選手がそれをするというのはちょっと感動した。

単に審判に好印象を与えようとしただけなんじゃないかと思う人もいるかも知れないが、試合後に勝った勝ったと飛びはねたりせずに最後までちゃんと礼をして退場する姿を見ているとそういうことではないと思われる。

柔道は世界規模になって勝ち負けばかりを争うようになっているが、嘉納治五郎が掲げた理念は本来武道による人間教育である。

それは対戦相手であっても礼を尽くす必要があるし、間違いを正されたら礼をするのが当然ということなんじゃないだろうか。

そこが一番重要なところな"はず"だと思うんだが、昨今の柔道界を見てるとそういうところはどんどん薄れていっている気が個人的にはするわけです。

もちろん武道である以上は強くなることが必須だが、「ただ勝てば良い」を目指していては武による道ではなくただの暴力やゲームと変わらなくなってしまう。

日本の武術の理想とするところは「相手を葬り去る技術」ではなくてその一歩上の「敵でさえも傷つけずに和睦する」というところ。殺人剣ではなく活人剣。そこが日本武術の素晴らしいところ。

幕末に無刀流の山岡鉄舟は剣の達人と言われていながら生涯一度も人を切ることなく、官軍に単身で乗り込み話し合い一つで江戸城を開城している。有名な江戸城無血開城である。

ちなみに山岡鉄舟は木村のあんぱんが好物だったらしい。実に可愛らしい。

まあそれはいいとして、確か中学校で武道が必修になったとかいう話があったような気がするが、指導者はこういうことを教えないと意味が無く、単純に柔道や剣道の技術を教えるだけならはっきりいってやらない方が良い。

護身にもなると同時に精神性次第ではただの暴力にもなるからだ。

それにしても、昔から犬猿の中である北朝鮮の選手が審判や日本の選手に礼を尽くしている姿を見たら嘉納先生も喜ぶんじゃないかな。