これはそう遠くない君のとなりの人の過去の話。
私は小学校高学年まで、祖父母に目に入れても痛くないよ、と甘やかされながら育てられた。当時の私からしたらそれはとても怖い言い回しで、そんなことを言う祖父母よりも母親の元へ行きたいと毎晩泣いてよく二人を困らせたものだった。念願叶って中学手前で母親の元へ戻ったものの、いるはずのない先住男性がそこにはいた。驚きと不安が隠せないまま、その居候との三人暮らしが幕を開けた。とは言っても、母親と居候とは朝食のときだけ顔を合わせ、その日の私の食費を手渡すと素知らぬ顔で寝室へ戻っていった。その人は私の知っている母親とは全くの別人だった。夕方、学校から帰ると家にはだれもいなくなっていて、一人で買ってきたお弁当を食べる日々。母親は仕事だと言った。居候もなぜか一緒にいなかった。もう何も不思議には思わなかった。 歯車が狂い始めていた。
そうして、私が高校一年になると母親は良性腫瘍除去手術と術後の安静のため一ヶ月ほど入院した。それから、二人は夜も家にいるようになった。望んでいたことであるだろうに、当たり前の家庭に近づいたはずなのに、当時のわたしは強く違和感を抱いたのを覚えている。精神不安定な母親と無職の居候がぶつかることは一度や二度ではなく、刃物を取り出すほど怒鳴り合いは日常茶飯事、隣近所から心配されるのもしばしばだった。このとき私はおいしくもないタバコを吸っては吐いて、吸っては吐いてを繰り返し、ふかすことを覚えていた。
高校二年、三年と私はクラスの女の子に恋をして、失恋をした。あのとき見ていた世界の振れ幅は振り切っていて、三次関数の先ははどこかへ飛んでいってしまっていた。信じていたはずの友人から裏切られたのは形は違えど、お互い様だろう。母親には同性愛は気持ちが悪いと言われた。一気に病みは加速する。狭い視野で生きていた私は広義では死んでいたんだと思う。毎日、ありえないほど雨が降っていて、本当に降っていたかどうかは定かではないが、ずぶ濡れになりながら空を眺めていた気がする。リストカットをしたり、母親の精神安定剤をこっそり飲んだり、線路の上を歩いてみたり、屋上の手すりを飛び越えてみたり、断食をしてみたりした。なんでもよくて死んでしまいたくて、とうとうわたしは母親に言った。
死にたい。
死ねばいい。
と返ってきた。死のうともがくもあと一歩の勇気が出なくて、中途半端な血がじんわりと滲む。死にたくても死ねないそんな自分に呆れ返って、弱さだけが急速に空回り。あのときの私に勉強という逃げ道がなかったら、きっと死ぬことに精を出していたかもしれない。それはそれで今思えば一興だったろう。
驚くことにそんな私を救ったのには彼女だった。なんであんたは泣かないんだと泣きながら怒られた。いつも雨が降るから涙がいらなかった私は、太陽のように涙を流す彼女を見つめた。
私が裏切った彼女が、私のために泣いた日から私は強くなった。この人を泣かせることなんて、あってはいけないんだ。そう誓って私は諦めることを諦めた。井の頭線の吉祥寺駅のプラットフォームでの発進音がけたたましく鳴るなかで、カチリと歯車がはまった音がした。