毎年8月15日は「終戦の日」とされていて、東京武道館は毎年この日にナルヒト天皇、マサコ皇后が出席して「戦没者慰霊式」が行われています。正午に1分間の黙とうが行われます。甲子園球場でも試合途中であっても1分間の黙とうが行われると思います。

 

しかしこの日が本当に「終戦の日」と呼んでふさわしい日なのでしょうか。当時の実態から述べるとこの日は「日本軍が組織だった戦闘行為を止めた日」なのです。もちろんこの日以降に戦闘行為があったことは事実です。それは相手方が攻撃してきたことに対する反撃というのが実態でした。最近よく言われているのは、千島列島やサハリンでソ連軍との戦闘があったことです。たぶん反ソ・反露キャンペーンの一環だと思います。

 

ではアジア・太平洋戦争も含めた「第2次世界大戦が終わった日」はいつになるのでしょうか。その日は世界的には1945年9月2日とされています。この日は東京湾上に停泊していた米国の戦艦ミズーリの甲板上で、日本側代表が降伏文書に署名した日、この日こそ本当の「終戦の日」と言えるのです。

 

そうすれば「日本=大日本帝国」が戦争を起こした日についても考えてみなければなりません。日本では1941年12月8日の「パールハーバー奇襲攻撃」とほとんど同時に行われた米英に対する宣戦布告(攻撃開始より30分ほど遅れた)で戦争に突入したとされています。

 

しかしアジアに目を向けてみると、日本は1937年7月7日から中国に対して本格的に戦争に突入しました。「アジア戦争(大東亜戦争)」という視点からみると、1937年7月7日こそ日本が戦争状態に入った日であると言えます。

 

これは私の個人的な見解ですが、日本の軍部はマンチュリアの北に位置するソ連からのマンチュリア侵攻はないものとして戦争状態に入ったと思われます。というのも、この直前にソ連ではスターリンによる赤軍への「大テロル」が始まり、1937年6月12日にトハチェフスキー元帥を始めとする赤軍高級将校に対しての処刑が行われました。そのことにより赤軍は組織的に行動できず、中国との戦争になってもソ連はマンチュリアに対する侵攻はないと判断したのではないかと思います。赤軍への「大テロル」による影響は1940年のフィンランドとの「冬戦争」と1941年6月22日の「独ソ戦」の開戦直後の赤軍の混乱ぶりで明らかになります。

 

なお講座派に属する歴史学者の信夫清三郎氏は「大東亜戦争という呼び方の方が、あの戦争の実態にふさわしい」と述べています。日中戦争を視野に置いた考え方です。