邪馬台国論争がまだ続いています。

 

江戸時代前期の新井白石から始まったこの論争、いまだに決着がついていません。いろんな説が出ています。論争の中心は「邪馬台国は九州にあったか、それとも畿内にあったか」という問題です。

 

私がみたところ、九州説を主張する人は文献を研究している人が多いように思えます。また既内説を主張する人は考古学から研究をしている人が多いように思います。また東京大学には九州説が優勢であり、京都大学には畿内説が優勢であり、九州大学が東京大学を補助し、京都大学を東北大学が補助していると言われましたが、現在ではそういうことはないようです。

 

それで一つ、私は大きな勘違いをしていたことに気づき、また先入観にとらわれていたことに気がついたのです。

 

それは「魏に使者を送るような国は、当時の日本列島で最大の政治権力だった」という思い込みです。決して「その通りとは言えない」ということです。そう思い込んでいる人はかなり多いのではないでしょうか。

 

3世紀中頃で、日本列島で最大の政治権力だったのは間違いなく「纏向遺跡」を造った勢力だったのでしょう。

 

そして有名な箸墓古墳はおそらく後年「崇神」と諡(おくりな)されたオオキミの墓だと考えられます。彼の名は「みまきいりひこいにえのすめらみこと」という名の他に「はつくにしらすすめらみこと」という名もあるのです。これは後年「崇神」と諡されたオオキミの時代に、何か新しい統治が始まったことを示しているように思えます。あるいは「崇神」の次のオオキミである「垂仁」の墓である可能性もあります。

 

「邪馬台国は九州にあったが、それはいくつかのク二の連合体です。しかしこの連合体は当時の日本列島で愛大の政治権力ではなかった。最大の政治権力はヤマトの纏向遺跡を築いた政治権力だった」ということです。ただ、「三国志」を著した晋の陳寿が邪馬台国より大きいヤマトの都市について述べなかったのかは分かりません。

 

まだ纏向遺跡は全体の5%しか発掘・調査がされていません。私はこれは宮内庁の圧力があるのだと考えています。