1972年7月5日に高知県香美郡土佐山田町(現・香美市土佐山田町)の国鉄(現・JR四国)繁藤駅で発生した土石流で、死者60をを出した災害です。

 

1972年7月5日午前6時までの繁藤付近の降水量は1時間で95・5ミリに及び、さらにそれまで24時間の降水量は742ミリに達しており、地盤が緩んでいたと思われます。

 

この災害は2回に渡って発生しており、1回目は7月5日午前6時45分頃、土嚢(どのう)を準備していた消防団員1名が山からの土砂崩れに巻き込まれ行方不明になりました。

 

更に同日10時50分頃、繁藤駅近くで大規模な土石流が発生し、おりから繁藤駅で止まっていた高知発高松行のディーゼル機関車と牽引された客車4両が巻き込まれ、列車の乗客、町職員、消防団員、近所の住民ら合計59人が巻き込まれました。4時間前の小規模な土砂崩れで行方不明になった1名を加えると60名が災害に遭ったことになります。どうやら最終的には行方不明者は出なかったことになります。

 

列車は機関車と客車の1・2両目が土石流に巻き込まれ、3・4両は無事でした。

 

遺族が起こした裁判では、1審の高知地裁では、行政側(当時の土佐山田町)が「行政側の怠慢による事故」とされましたが、2審の高松高裁では「予測不可能な天災」とされました。最終的には1991年に最高裁で若いが成立しました。

 

現在、かつての災害現場は整地され、慰霊碑が建っています。

 

私の父は国鉄に勤務していましたが、この事故後3日くらい帰宅しなかったことを覚えています。勤務先は土讃本線(現。土讃線)阿波池田駅でしたので、忙殺されていたのでしょう。