この遺跡は奈良県桜井市にある、弥生時代後期から古墳時代前期に至る遺跡です。

 

面積は東西2㌔㍍、南北約1・5㌔㍍あり、その大部分が未調査・未発掘になっており、全体のわずか5%しか発掘・調査されていません。(注1)

 

遺跡の真ん中には、水路が開かれており、小さい船なら通ることが可能であったと思われます。またこの水路は遺跡の中に「人」型に作られていました。この水路は遠く大和川を通って大阪湾まで続いていました。これに関しては、当時、奈良盆地にあった「奈良湖」を通っていた可能性があります。

 

この遺跡は、おそらく日本列島で最初に都市計画を行って設けられた都市であったと思われます。不思議なことにこの遺跡がらは、農具などは全く発掘されていません。また、全国各地で製造されたと思われる土器が発掘されています。だからこの遺跡は、かつては倭国の「流通センター」のような役割を果たしていたものと想像されます。これだけの規模の都市とすれば、支配は日本列島の九州北部から東北南部に至る地域を支配できていたものと思われます。

 

遺跡の中には大きな神殿のような建物跡が見つかっておろ、ここが政治の中心ではなかったかと考えられています。おそらく大和王権がこの地から、全国を治めていたのだと思われます。

 

また近い場所には「唐子・鍵遺跡」という弥生時代の集落遺跡がありますが、この遺跡は纏向遺跡が建設されてからは衰退が始まったとされています。

 

また、有名な「箸墓古墳」は纏向遺跡の中に含まれています。この古墳は、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと言われていますが、「魏史・倭人伝」にみられる円墳の携帯とは異なり前方後円墳ですが、おそらく「前方」の部分は後から工事をして、付け足したものではないかとも言われています。「円墳」の部分については、「魏史・倭人伝」の記述と同じ規模の古墳となります。また遺跡内には5つの古墳があります。

 

言われて居るように、仮に卑弥呼の墓だとすれば、100人の奴隷が埋められていることとなり、発掘ができればすぐに分かると思われます。

 

(注1)私は発掘が進んでいない理由として、宮内庁が圧力をかけているものと思っています。天皇家にとって都合の悪いものが発掘されることを恐れているのだと考えています。