1965(昭和40)年秋には、「日韓条約反対闘争」が闘われました。有名な写真があります。1965年秋の全学連主流派による「日韓条約反対デモ」の写真の中にに髙い位置から撮影された写真(注1)の中に、デモ中の学生を機動隊がサンドイッチ規制をしている写真があります。5列になったデモ隊を両側から規制している写真ですが、警察隊はジュラルミンの盾は持たず、学生たちもヘルメットをかぶらず、顔も隠さずにデモをしています。この当時のデモの空気がよく出ています。またこの年には、プロ野球パ・リーグで野村克也が長期シーズン(注2)では初の三冠王を撮りました。

 

1966(昭和41)年にはマルクス主義学生同盟多数派、社会主義学生同盟(社学同)、社会主義青年同盟解放派(反帝学評)による「三派系全学連」が結成されました。この組織が後の全共闘運動や反安保j条約に伴う街頭闘争を担いました。

 

革マル派も全学連を持っていました。元の全学連の流れから言うと、この革マル系全学連が「正統」となります。1966(昭和41)年時点では、全学連は三派(社学同、中核、反帝学評)系全学連、共産党系(民青同)の全学連、革マル派系全学連の3つが名乗っていました。

 

1967(昭和42)年10月8日には、「佐藤訪ベトナム阻止闘争」が羽田で闘われます。この闘争では今までは内ゲバの時の武器であった角材とヘルメットが権力との戦いに初めて使用された闘いでした。この闘争には共産党から分かれた「構造改革派」や「革マル派」も参加していました。更に学生たちの闘争は全共闘運動として「学費値上げ反対」、そして自己変革をめざした闘いが全国の大学で闘われました。その象徴的な闘いが東大全共闘による「安田行動籠城戦」でした。

 

1970(昭和45)年3月15日に開催された大阪万博の興奮が収まらぬに3月31日には、共産主義者同盟赤軍派による日本で初めての「ハイジャック」が引き起こされました。彼らは「チョソンで軍事訓練を受けて日本に帰る」ことを考えていました。彼らは機長にチョソンに行くように指示し、無事にピョンヤンのミリム(美林)空港に到着しました(注3)。彼らについては、高沢皓司氏による「宿命」の中で詳細に書かれています。同じ頃、赤軍派の重信房子もアラブへと国外脱出しました。目的は「国際根拠地作りのため」でした。

 

これらの70年闘争を闘ったのは、いわゆる「団塊の世代」でした。しかしこの運動は、団塊世代から経験が続く世代に全くと言っていいほど伝えられていません。

 

1971(昭和46)年には日米安保条約の改定に対する反対闘争、三里塚闘争=成田空港反対闘争も闘われました。三里塚闘争では、機動隊員が中核派全学連により3名が殺害されました。これ以降の三里塚闘争は分裂していくようになります。

 

しかしこのような街頭闘争に限界を感じた部分は、銃と爆弾による「武装蜂起」まで考えるようになりました。そして結成されたのは、共産主義者同盟赤軍派と爆弾闘争を闘っていた京浜安保共闘は合流して結成された「連合赤軍」です。彼ら連合赤軍は、関東の山中で軍事訓練を行い、その時に山岳ベースでの生活を行っている時に、1971(昭和46)年12月から翌年1月にかけて「総括」という名のリンチを行い、12人を殺害しました。さらにそのうちの5人は「あさま山荘」に人質をおって立てこもり、日本の左翼運動では初の銃撃戦をおこないました。

 

しかし、この総括ー粛清は、後に続く世代が学生運動に携わることをしなくなったことでは、非常に憂うべき事件であったといえます。

 

1972年には、札幌市で初の冬季五輪が開催されました。ジャンプで日本選手が金銀銅のメダルを独占したことが印象に残っています。当時はジャンプは男子だけの競技でした。

 

テレビ番組では土曜の夜に「木枯らし紋次郎」と「必殺仕掛人」が視聴率を競っていました。私は「必殺仕掛人」を勉強もせずにみていました。「木枯らし紋次郎」ま一度も観たことがありません。

 

 

今日はここまでにしておきます。

 

 

(注1)毎日新聞社の写真です。

 

(注2)戦前の短期シーズン制の時代(1938年秋期)に、中島治康が3完納になっていましたが、当時は気がつかなかったようです。

 

(注3)「よど号」の機長は戦前、ピョンヤンで航空隊の教官をしていました。このことが役にたったと思われます。