1960(昭和35)年の日米安保条約改定後、岸内閣は1960年7月に総辞職し、代って池田勇人が同日、首相に就任しました。(注1)池田内閣は「所得倍増計画」を唱え、幾分かは市民の生活も上昇しました。いわゆる「高度成長期」です。この「昭和元禄」とも呼ばれた日本の経済成長は動きはオイルショックのあった1973年くらいまで続きました。

 

1964(昭和39)年には欧米以外で最初のオリンピックが東京で開催されました。思い切り国民の愛国心と「一流国」入りを目指そうとする政府・国民の意欲をかきたてました。テレビはほとんどの家庭に普及し、さらに自動車やクーラーなどが普及していきました。翌年の1965年には、懸案だった日韓国交回復がなり、日韓基本条約が締結されました。これを契機に日本の大機魚が韓国へと経済的侵略を始めます(注2)。また、この日韓基本条約は、当時の日本と韓国の経済力の差が極めてはっきりした形で締結されました。このことは韓国の経済的成長に伴い、韓国側から日韓基本条約締結時点では表面化しなかった問題について、韓国側から「異議申し立て」のような主張が出てくることになります。それは戦前・戦中の「従軍慰安婦問題や「徴用工問題」として噴出することになります。

 

 

天皇家の出来事は、1960年後半にアキヒト皇太子(当時)とミチコ妃は1960年9月から10月にかけて訪米しました(注3)。おそらくは安保条約締結に対する謝礼の意味合いがあったものと想像されます。また1965(昭和40)年11月10日には2人の間には男児が誕生しました。秋篠宮フミヒト親王です。

 

(注1)池田内閣は1964年11月19日に池田首相が喉頭ガンのために死去し終止符を打ちました。続いて首相となったのは、佐藤栄作でした。在職中に病没したのは、後の大平正芳とこの池田勇人であり、ともに宏池会に属していました。

 

(注2)この1965年時点では、大韓民国よりもチョソン民主主義人民共和国の方が、国内総生産高や経済の成長率などは、韓国を岩回っていました。チョソンの経済が悪化し始めるのは、キム・ジョンイルがチョソン労働党内で台頭し始めてからです。

 

(注3)この時、ミチコ妃は第2子を妊娠中でした。帰国後流産しました。2番目の子であるフミヒト親王の出産まで5年以上経過していたのは、こういう事情があったからだと考えられます。

 

 

今日はここまでにしておきます。