奈良時代の初めから平安時代中期に至るまで、日本海の向こう側にあった渤海国から日本に向けて「渤海使」が渡来してきたことは、よく知られています。

 

最初の渤海使は西暦727年に出羽国の秋田にやってきましたが、地元の蝦夷人により多数殺害され、生き残った人たちが平城京へ入っています。来港の目的は、当時、渤海が対立していた新羅、唐をけん制するために、日本と軍事同盟を結ぶことにあったようです。

 

軍事同盟こそ成らなかったものの、渤海滅亡の直前の西暦922年まで、計35回も渤海使は訪れています。そのたびに日本側は、鴻臚館で宴会などを催して丁重にもてなし、また9世紀中期以降は、日本の文人との漢詩の交換などを行っています。渤海側でも、当時の渤海国の優れた文人を渤海使に任命していたようです。日本側でも菅原道真や紀長谷雄といった当時の一流の文人が漢詩の交換会に参加しています。渤海側からは熊や虎、豹、黒貂(くろてん)の毛皮や朝鮮人参などがもたらされ、日本側からは絹、金、水銀などを送りました。平安時代前期の日本の貴族にとって、渤海使がもたらした毛皮は一種のステータスシンボルだったようです。

 

さて、奈良時代の渤海使は日本海側のあちこちの広範囲にわたって到着していますが、平安時代に入っては大体西日本の九州、山陰あたりに到着しています。船出はどうやら現在のチョソンのハムキョン南道あたりだったようです。北からの季節風を利用して、真冬の日本海を航海してやってきたようです。9世紀に入って渤海では航海術や船の性能が向上したことが考えられます。

 

驚いたのは日本からの帰路です。日本海を横断して渤海国に帰るのではなくて、まず日本海流から分かれた対馬海流に乗って北海道・サハリン沖、タタール海峡の入り口付近まで北上し、そこで航路を南に変えて、極東ロシア・プリモーリエ州沖を流れるリマン海流に乗って再度、チョソンのハムキョン北道か同南道に帰っていたようです。最新の研究ではこのような帰路であったと考えられているようです。確かにこの航路なら、無理をせず海流にのって帰ることが可能です。

 

そうだとすれば、渤海の船員は日本海の海流について熟知していたことになります。北海道かサハリンに立ち寄って船の手入れをしたことがあったかもしれません。それならばこの地域に住むアイヌとの接触があったかも知れません。

 

中国の旧唐書などによると、西暦926年に渤海国は契丹により滅亡させられたのですが、わずか3日で滅亡したと言うのです。それまで国内では争いが絶えなかったのかも知れません。なお、渤海の滅亡をペクト山の噴火によるものとした説があるようですが、ペクト山が噴火したのは渤海が滅んだ後なのです。従ってこの説は誤りです。

 

【追加分】なおこの「渤海」について、中国側の歴史学者と、韓国、チョソンの歴史学者の間で、渤海国の帰属についで論争が起こっているようです。中国側の歴史学者は「渤海は中国の周辺民族である靺鞨族による国であり、中国の政権である」と述べ、チョソンと韓国の歴史学者は「渤海は滅亡した高句麗の遺臣により建国されか国であり、確かに庶民はツングース計の靺鞨族であったかも知れないが、支配層は高句麗の流れをくむ人たちであり、チョソン側に帰属する」と見解が異なっていて,現在も論争が続いています。

 

しかし中国側の歴史学者の説を拡大解釈すると、琉球や日本も、さらにベトナムも「中国の周辺の政権」となってしまいます。私はチョソン、韓国側の歴史学者の説に組みします。