沖縄県の玉城デニー知事は28日、就任後初めて来県した林芳正官房長官(基地負担軽減担当相兼務)と県庁で会談し、名護市辺野古の米軍新基地建設の断念をはじめとする基地問題の解決や、沖縄振興予算の確保などを要望しました。

 

公開された冒頭発言でデニー知事は、過去3回の知事選や新基地建設の是非を問う県民投票で明確に新基地ノーの民意が示されたことに触れ、「政府にはしっかりと受け止めていただきたい」と強調。米軍普天間基地(宜野湾市)の一日も早い「危険性除去」「早期返還」を迫るとともに、新基地建設に伴う埋め立て工事を中断した上で、問題解決に向けた剣との対話に応じるよう求めました。

 

林官房長官は、普天間基地をはじめ「嘉手納以南」の基地を嘉手納基地よりも北などに「移設」する統合計画について「着実に実施する」と強弁。引き続き辺野古新基地建設の工事を強行する考えを示しました。

 

他方、辺野古新基地建設を切り離した形で普天間基地の危険性除去に向け国、県、宜野湾市が協議する「普天間飛行場負担軽減推進会議」をめぐっては、デニー知事らの要望を受け、作業部会を開く方向で調整したいと述べました。

 

会談後、記者団の取材に応じたデニー知事は、嘉手納以南の基地の返還が実現できたとしても、全国の米軍基地面積の70・3%が沖縄に集中する現状は69・3%に微減するだけで、「圏内移設は負担軽減につながらないと指摘。「当面、50%以下をめざすという県が求めている方向性でぜひ(米軍と)協議していただき、その際は県も協議に加えていただきたいと申し上げた」と語りました。

 

 

2024年1月29日付「しんぶん赤旗」より

 

 

全国の米軍基地の7割が沖縄に集中しているのは、明らかに異常な事態です。1945年4月にアジア・太平洋戦争の末期に、沖縄が日本本土への米軍上陸から避けるためにいわば「沈め石」の役割を果たしたことに対する、皮相な「代償」なのです。

 

1853年のペリー率いる艦隊が浦賀に来港した時、日本側は時間稼ぎのために来年の再来港を求めた時に、幕府内では沖縄(当時は「琉球」です)を対米艦隊のための前線基地にする計画がありました。薩摩藩などはおそらくこうした幕府側の計画を知っていたと思われます。

 

沖縄本島のすぐ近くまでが、現在の鹿児島県の行政区に入っているのは、当時の琉球と薩摩藩との「表面化」してはまずい関係があったせいだと思います。奄美大島などは本土よりも沖縄との文化的な関係が深いように思われます。