メガロポリス東京 と 欲望 | 高等遊民のブログ

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ワタシ・・・いったいなんなんだろう?

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9月15日から17日にかけて東京へ行ってきた。
15日は午前の仕事を終え、12時28分の新幹線に飛び乗り、もちろん喫煙席。
5時30分開始の会に出席。
立食懇親会の後、T国ホテルに宿泊。
個人でなら普通のビジネスだが少し今日はリッチに^^
宿泊料金はネットで調べると一泊スタンダードで@37,800だそうです。

写真はT国ホテルの24階から有楽町、東京駅方面を見た夜景です。
右中央に見える駅が有楽町。

田舎から見ると東京は煌びやかで希望欲望が街を覆っています。
もちろん挫折失望も・・・

さてこの『欲望』だがいったいなんなんだろう・・・と考える。
もちろん哲学的、思弁的に考えてもあまり意味はないというかまた新たな言葉をひねくりだしてますますわからなくなる。
そこでここはやはり科学的に・・・ということで以前ワタシのblogをTBしてくれた方のblogを紹介しておきます。

哲学の科学
http://musai.blog.ocn.ne.jp/kagakusuru/x_1/index.html

著者は元筑波宇宙センター所長の岩田勉さん。一部抜粋してみます。

人間は、ある感覚を受けると、自分の身体が動いていって、ある運動をしてしまうことを感じて「自分はその感覚を感じて、そうしたいという衝動を感じた」と思い込み、その感覚と運動の衝動を組にして記憶する仕組みを持っている。
中略
人間の言葉では、「A君はレストランに行く」という形のセンテンスで、人の行動を言い表す。自分の行動を言い表すときにも、「私はレストランに行く」と言う。「A君」が「私」に置き換わっただけで(動詞が人称変化する言語もあるが)構造は同じ形式です。人間の言葉は基本的に、「XがYをする」という形です。Xは主語といわれますが、要するに「行為をするもの」です。Y(Yをする)は動詞といわれ行為することです。どこの国の言葉でも,動詞があって、それが言語表現の中心になっています。自然言語がこういう構造をしているということは、人間の脳が世界をこういうふうに捉えるようにできている、ということでしょう。
私たちが言葉を話す場合、まず話題になるものXに注目して、Xは「何かをする」と考え、「XはYをする」という形で言う。つまり、主語になるようなものXは、「Yをしたくて、Yをする」とみなすのです。XはYをしたいという欲望あるいは意思を持ってYをする。人間は世界の中にあるすべてのものたち、認識対象、をこう捉えているわけです。
人間やそれ以外のもろもろのものが欲望や意思によって行動する、という考え方は、(拙稿の見解では)こういう自然言語の形に引っ張られて作られています。そもそも、行動とか、行為とかいう語は、ある主体があって、それが欲望や意思をもって身体を動かす、という図式を前提にして使われる言葉です。それが学問として、哲学で理論化され、「行為」と「行為者」などと呼ばれ、法律、文学、心理学にも使われ、ふつうの人々の常識になっている。人間が仲間の人間の行動を解釈するときに使うと便利な重要な錯覚のひとつです。


これはあくまで脳神経学的に見た『欲望』であってこうではないヒトもおられるでしょう。
ワタシは大まかには一緒です。
以前ワタシのblogにも『或る暑い日の情景』という題で意識、言葉、心についての記事を書いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/d_morris_jr/41938037.html

この東京の『欲望』の世界はもうワタシにはあまり興味がなくなっている。
スロー・スモール・シンプルな生活が欲望でしょうか?^^
かといって時には訪れてみたい気もあります。
ただこの欲望の渦巻く世界に対して『あの頃(昔のスロー・スモール・シンプルな生活)は良かった』という思考の怠惰、停止だけはしないようにしないと・・・
ではどうすればいいのか?
これを解決はできなくともより良い方向にもっていけるのはヒトの知性と思っています。
決してアベちゃんの『美しい国』ではありません。最もサッサと降りられたけど^^;

高校の友人3人と飲んで再び日常の世界へ戻ってきました^^