幽霊の正体に関する仮説―その2

(長文なので幽霊に興味のある方向けです。)

(ここでは、現れて消える人型の幽霊に絞って考えております。)

前回よりもう少し具体的に考えてみたい。

 

 

幽霊を見る、所謂霊感を、共感覚に似たようなものだと考えると、

共感覚では例えば色のついていない「1」に赤色を見ることがあり、霊感では、その赤色の代わりに幽霊を見ることがある。

しかし共感覚の例で言うところの、(肝心の幽霊の正体である)「1」に該当するものが分からない、という話を前にも書いた。

共感覚をヒントに読み解く幽霊の正体に関する仮説と疑問点

 

 

◆この「1」に当たるものに関する仮説

 

・共感覚を持つ人は、人に対しても、色や音楽や匂いや形などを感じることがあるようだ。意識的な想像とは異なり、自動的・不随意的に見えるものであるという。

 

・霊感覚を持つ人はその逆に、何らかの「悪い雰囲気」や「病気や風邪の前兆」、「風邪菌やウィルス」、「体調不良の前触れ」、人の「不安感」や「恐怖心」、「執着心」、「嫌悪感」、「絶望」、「無念」、「後悔の念」、「憎悪の念」のようなものを「人の形=幽霊の姿」として見ることが出来るのではないだろうか。それは、霊を見る人の心・思い・記憶・イメージ(しかし自動的・不随意的に現れるもの)という場合もあるし、霊を見る人ではない他者の心という場合もあるように思うし、外的な何か切っ掛けによって、見る者が存在させるものでもあるとも言えるように思う。

 

霊感を持つ人が言うには、幽霊は人に憑りつくものであるという。そして憑依された人は、実際に現実で目に見える症状として体調を崩したり、調子が悪くなったりするらしいのである。

 

そして私はたまに、夢の中で幽霊を見ることがあるのだが、何度も見ているうちに分かってきたパターンとして、幽霊の夢を見た後は高確率で風邪を引きやすい・体調を崩しやすいということが挙げられるのである。なので私にとっては「幽霊の夢」は「現実での風邪」と関連付けられるということになる。それは私にとって意味のあることである。夢はどこから来るのかというと、単純に言うと無意識からということになる。例えば無意識が体内の異変を、それが症状として現れる前に察知して幽霊の夢を見せるのだ、ということも言えるかもしれない。幽霊も、そういった夢に似ているように思う。

 

幽霊がどちらかというと負の感情に結びつくのは、進化論的に考えて、楽しいこと、幸せなことを察知出来るよりも、恐怖や身の危険を感じさせる、避けるべきものを予め察知出来たほうが生物として生き残りに有利であると言えるからではないかと考えられる。

 

あるいは楽しい・幸せといった感情よりも、負の感情のほうが具体的な形になりやすいのではないだろうか。幸せはふわっとして柔らかく拡散するようなイメージで、憎悪はドロドロと一箇所に凝集するようなイメージがある。

ブーバ・キキ効果など、人間に共通する、人間が抱いている形のイメージというものもあり、そういったものが共感覚に関わっているのではないかということも考えられる。

 

そして実在ということでいうと、私は幽霊を、共感覚者が例えば「1」という数字に見る「赤色」に喩えられる「色」のように考えている。なので、物理的実体として実在するわけではないと思う。

しかし現実と関係のあるものなのだ。例えば、共感覚者の本で、女性の生理周期が見えると書かれていたのを以前読んだ。これは、遠くても見えるらしいので特有の匂い等を察知しているわけではなさそうなのである。何故見えるのか、何が見えているのか全くわからないが、そういうこともあるらしいということだけは分かる。

幽霊も、見える人が例えば幽霊が憑りつくのを見た時に、憑りつかれた人の体調が実際に悪いほうに変化するような状況になることがあるらしいので、現実と関係していると言えそうだ。

 

幽霊が実在するかどうかを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは捉え方によるとも言えそうである。

物理学的には「色」を光と視覚と脳により認識される「錯覚」である、ということを受け入れる人は「色は錯覚」だと言うだろうし、いや、色は確かに見えているし、あるのだとする人は、「色は存在する」と言うだろう。私は、物を買う時に色を重視するので「色はある派」である。

女性と男性の色の見え方も異なっていると言われている。タイプ分けすると、「共感覚者」も「幽霊肯定派」も「色はある派」も女性に多いのではないだろうか。そして芸術家タイプ。色は錯覚だということを受け入れられる人は物事を客観的に考える科学者タイプと言えそうである。

 

描写される幽霊が矛盾だらけで一貫せず、個々の霊感を持つ人の話が一致しないのは、幽霊は無意識的な、外部(?)からやってくる情報と、自己の内面的な内部からの情報とが入り混じったものだからなのではないだろうか。

 

これは幽霊に限らず現実に於いても言えることである。例えばカマキリを認識する時、私にとってはカッコいい、美しい、愛しい、接近したい存在だが、Aさんにとっては怖い、挟まれると痛い、嫌い、回避したい存在かもしれない。客観的に見える形、大きさは誰が見ても同じものでも、見る人にとっての意味は本当に人それぞれである。

 

あるいはユングの言うように無意識は奥底で集合的無意識として繋がっており、そもそも内・外という区別も意味のないものなのかもしれない。

無意識とは何なのか、という問題でもある。私の無意識は私のものなのか?私であると言えるのか?それとも外部から与えられるものなのか?無意識が私たちを規定するのか?これは人間の「自由」、自由意思の問題にも繋がってくる。

霊を見る人にとっては霊は意味のある確かな存在であるし、霊に縁のない人にとっては意味のない、実在しないに等しいものなのかもしれない。

 

 

…書くのが疲れたので続きはまた今度♡(´`*)