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再び考えてみた。オカルトに関する肯定派・否定派というのはどちらかが正しく、どちらかが間違っていると思われがちで、本人たちもそう考えており、そして誰もが当然自分の側が正しいと思っているものだが、もしかすると必ずしもどちらかが正しく、どちらかが間違っているというわけではない場合もあり、視点、考え方、捉え方が異なる、「タイプ」の違いという問題があるのではないかと考えたりもする。

 

あるいは、「言葉の定義」が異なっているのだ。

 

◆言葉の定義:

例えば、UFOは実在しないと思っている人は、UFOの定義を誤解している。

未確認飛行物体=UFOである。

つまり実際のところバルーンであろうが、ドローンであろうが、飛行機であろうが、ステルス機であろうが、人工衛星であろうが、正体が確認されるまではUFOとも言える。正体がなんだか分からない飛んでいるものがUFOなので、UFOは確かにあると言える。

 

UFOは実在しないと思っている人は、例えばUFOとは、宇宙から飛来した人型宇宙人の乗り物である、と個人的に定義しているのかもしれない。最初からありえないようなものとして定義して、無いと言っているにすぎないという場合もある。

 

宇宙人の定義を、宇宙の中に住む人型の存在とすると、宇宙人は実在することになる。この定義では我々こそが宇宙人だからだ。

 

同じように幽霊に関して、正体が分からないがいずれ痕跡を残さず消えてしまう人の姿をしたものを見る現象(もっと上手い定義付けが出来るかもしれない)を幽霊現象と定義付けすると、幽霊現象は確かにある、ということになる。

 

別の定義として、幽霊とは死んだ人間の魂が肉体を抜けて出てきたものであり、死後もなお生前と同じ意識や意思を持ち、生きている人間に干渉し、物理的影響を与えたり出来る存在、とするとどうだろう。この定義の幽霊の存在を認める人は少ないのではないだろうか。

 

また別に、幽霊とは脳への何らかの刺激が元になり見る幻覚である、と定義するとどうだろう。幻覚としての幽霊ならば、確かに見られることがあるものであるということに、同意出来る人は多いのではないだろうか。

 

このように、言葉を定義することなしに、誰もがあると思うようなものと定義して、それをあると言う、または誰もが無いと思うようなものと定義して、それを無いと言うように、定義がバラバラのまま、いる・いないを論じたところで話が食い違うだけである。

 

◆もう一つ。それ以前の問題として「いる」「ある」や「存在する」、「実在する」をどう定義するかによっても答えは違ってくる。

 

哲学者のマルクス・ガブリエルは「意味の場」に於いてあらゆるものは存在するとしている。

神話の意味の場の中で神は存在するし、物語の意味の場の中で一角獣は存在するというわけある。

「場は客観的構造を提供し、その内部に現れる対象と相互作用する。場は既にそこにあり、対象はそこを通過してその特性を変化させる。場は地平でも視界でもない。場は、いかにして我々が事物を知るのかを説明するために導入されるような認識論的な存在者でも対象でもない。場がなければ何も存在しない限りで、場はある。」とガブリエルは言う。

 

彼は虚構であれリアルに存在するとしているわけではない。

物語の中に存在する一角獣が、地球上に存在しているわけではない。

空虚でないあらゆる対象領域に関して、我々は真か偽である信念を持つことが出来るとしている。しかしこの辺りの彼の議論は説明不足で曖昧であるようにも思う。

 

存在論的多元主義の立場として、究極的に還元不可能な多数の対象領域が存在するとしている。

例えば心はそのまま物の領域には還元出来ない。

同様に自然科学の対象領域内に霊は実在しないのだろう。

自然科学では対象を観察し、実験や検証を重ね、一般法則を導き出し記述、説明する。心の領域にあるものはその方法では記述し得ないからだ。

 

そして何をあるとし、何を無いとするか、持っている傾向によって、人の性質をタイプ分け出来るようにも思う。

しかしこの話はまた今度。