住み慣れた故郷の景色と,多くの尊い命を,一夜にして波の彼方に連れ去った未曾有の東日本大震災から三年。
変わり果てた東北の景色に言葉を失い,絶望すら感じた「あの日」の朝。
明日が見えなくて,茫然と立ち尽くす瞬間だった。
棲む家を失くし,家族の安否が分からないまま,恐ろしいほどにゆっくりと時間だけが流れる感覚。
目の前に映し出される光景に,頭で考えるよりも先に,自然と身体と心が被災地へ向かっていた。
いつもは煩(うるさ)いぐらいに飛び交う情報も,正否の判断を下せるだけの価値を見出だすことが難しく,手探りで始めた支援活動。
緊急車両でさえ,二次被害の危険を懸念する行政からの許認可が下らず,動けないもどかしさへの苛立ちと焦りだけが募る日々。
交通網を断たれ,物理的な支援を一時的に諦めざるを得ない現実に突き当たった私たちは,次の可能性を探り始めた。
「行政に身を置く者として,私に今,出来る最善策は何か。」
来るべき復旧の円滑な第二フェーズに向けて,被災者(特に生徒・児童)の受入体制の整備,奨学金の拡充,行政サービスの無償化・・・。
被災地から遠く離れた鹿児島での支援活動は,最初,組織間の温度差に戸惑いながらStartしたが,それでも対話を重ねて,少しずつ輪郭を描ける手応えを感じるようになっていった。
勿論,実現したものもあれば,廃案になったものもある。
あの日を振り返る時,奮闘した日々のすべてが正解で,選択した結果が「Best of Best」だったのかは,正直,今も自信がない。
三年の時を経た現在(いま)。
震災は,決して過去の出来事ではない。
震災以降,被災地で出逢った家族一人一人に想いを馳せる時,あの日,日本全土を覆った大きな喪失感と絶望感は,私のすぐ隣(そば)で,未だ燻っているのを肌で感じる。
「傷が癒える」のを待つのではなく,絆で繋がれた想いを胸に,痛みに寄り添いながら共に年月を歩んでゆく・・・それが,今,私に出来ること。
『私は,あの日を忘れない。』
追記
大々的に「支援活動やってます!!」と宣うのは,どうにも性にあわない(^-^;
身の丈を超えた活動も,無理すれば続かない。
これから先も,自分のフィールドで,スキルと経験を最大限に活かした活動を続けていけたらいいな・・・と想います。
自分の進むべき道に不安を覚えていたあの日。
GACKTさんからのメールに綴られた「出来ることは必ずある。共に頑張ろう。」の文字が,今も私の勇気です。
変わり果てた東北の景色に言葉を失い,絶望すら感じた「あの日」の朝。
明日が見えなくて,茫然と立ち尽くす瞬間だった。
棲む家を失くし,家族の安否が分からないまま,恐ろしいほどにゆっくりと時間だけが流れる感覚。
目の前に映し出される光景に,頭で考えるよりも先に,自然と身体と心が被災地へ向かっていた。
いつもは煩(うるさ)いぐらいに飛び交う情報も,正否の判断を下せるだけの価値を見出だすことが難しく,手探りで始めた支援活動。
緊急車両でさえ,二次被害の危険を懸念する行政からの許認可が下らず,動けないもどかしさへの苛立ちと焦りだけが募る日々。
交通網を断たれ,物理的な支援を一時的に諦めざるを得ない現実に突き当たった私たちは,次の可能性を探り始めた。
「行政に身を置く者として,私に今,出来る最善策は何か。」
来るべき復旧の円滑な第二フェーズに向けて,被災者(特に生徒・児童)の受入体制の整備,奨学金の拡充,行政サービスの無償化・・・。
被災地から遠く離れた鹿児島での支援活動は,最初,組織間の温度差に戸惑いながらStartしたが,それでも対話を重ねて,少しずつ輪郭を描ける手応えを感じるようになっていった。
勿論,実現したものもあれば,廃案になったものもある。
あの日を振り返る時,奮闘した日々のすべてが正解で,選択した結果が「Best of Best」だったのかは,正直,今も自信がない。
三年の時を経た現在(いま)。
震災は,決して過去の出来事ではない。
震災以降,被災地で出逢った家族一人一人に想いを馳せる時,あの日,日本全土を覆った大きな喪失感と絶望感は,私のすぐ隣(そば)で,未だ燻っているのを肌で感じる。
「傷が癒える」のを待つのではなく,絆で繋がれた想いを胸に,痛みに寄り添いながら共に年月を歩んでゆく・・・それが,今,私に出来ること。
『私は,あの日を忘れない。』
追記
大々的に「支援活動やってます!!」と宣うのは,どうにも性にあわない(^-^;
身の丈を超えた活動も,無理すれば続かない。
これから先も,自分のフィールドで,スキルと経験を最大限に活かした活動を続けていけたらいいな・・・と想います。
自分の進むべき道に不安を覚えていたあの日。
GACKTさんからのメールに綴られた「出来ることは必ずある。共に頑張ろう。」の文字が,今も私の勇気です。