古墳時代の鹿角製刀装具の出土事例のなかでも最古の事例のひとつ大伏南山古墳。
その発見は明治34年(1904年)5月8日だったと記録されています。
今年は出土120周年に当たります。

黒田庄町史(昭和47年刊行)の記述

巻頭に掲載された「鹿角装剣」



↓現在の西脇市黒田庄大伏


↓畿内との位置関係。山陰へ抜けるルート上と言えそうです。





大伏は加古川の西岸ですが、東には特徴的な小山(黒田庄町史に出てくる「前山」がこの小山のかも知れません)があり、
この風景は国土地理院が公表している古い航空写真にも見られます。

↓国土地理院「地理院地図」1961年~1969年撮影の航空写真。
今からだいたい60年前なので、大伏南山古墳が見つかって60年後ぐらいの写真です。


昨年西脇市郷土資料館を訪問しましたが、大伏南山古墳の位置については下調べ不足でよく分かりませんでした。
たまたま特徴的な風景だったのでこの山を車窓からワンカットだけ撮影しました。この反対側が古墳の位置だったとは。

 


黒田庄町史によると「西から東へ延びた尾根上 標高約180m付近にあり・・」とあります。
↓この図の中央(十字印)の尾根なのでしょうか?。




続いて「石棺は尾根に直角の方向」「棺の内法は長さ1・95m、幅は北端で約50㎝、南端で約45㎝」とあります。
この石棺は現存している様で、西脇市郷土資料館の展示パネルに写真がありました。


黒田庄町史の記述では「内部には頭を北に向けて一体の人骨が横たわり、人骨の東側長さ80センチの鉄刀1がおかれ、西側には長さ43センチの鉄剣1がおかれ、さらにその西側に長さ45センチの鉄鉾1がおかれていた」「棺内から鉄鏃若干、刀子1なども発見されている」とあります。

想像図にしてみました。


この箱式石棺は尾根上に直接埋設されていたのでしょうか?。古墳として墳丘があったのか無かったのかなど、よく分からない点も多く残されています。また被葬者は鉄製武器類だけを副葬されていた記録しか無いのですが、勾玉や管玉といった装身具や土器類の副葬は全く無かったのでしょうか。

120年も昔のことなので、よく分からないことだらけです。

この古墳が発見されたときは日露戦争の開戦直後で、武器を纏った古代人の遺体は「軍神さん」として武運の神として祀られ、多くの参詣者が訪れたとの事。
日露戦争の宣戦布告は同年2月10日。旅順閉塞作戦で広瀬武夫少佐の戦死が3月27日だったそうですので、リアルタイムでの日本国内の動揺と興奮は大きなものだった時期なのでしょう。

古代の遺跡や古墳に人々の注目が集まることは近代史の上でもたびたびあり、この30年後の昭和9年(1934年)4月に大阪府高槻市で発見された阿武山古墳「金糸を纏う貴人の墓」も多くの人を沸かせたそうですし、高松塚古墳・藤ノ木古墳などでもそうでした。今年の富雄丸山古墳の蛇行剣の公開もまた同様。120年前と異なり、いま日本は対外戦争の渦中に無いことは幸いですが、でも世界は120年後もさほど変わってはいない様です。