1582年(天正10年)6月13日夕刻の山崎合戦。「天下分け目の天王山の戦い」として知られた明智光秀と羽柴秀吉の決戦。

合戦の故地をうろうろしているといろいろ発見があります。

山崎合戦は通説としてはこちら・・・大山崎町観光協会のホームページです。
http://oyamazaki.info/archives/1430


合戦の故地の現地状況が説明できないとよくわからなくなってしまうのですが、それがなかなか難しく、画像や図、グーグルアースの航空写真等では十分に説明が困難。とりあえずテキストで表現してみようと思います。

1 明智光秀の防戦
 細川や筒井の援軍を得られず数で劣勢だった明智方は、何か作戦を考案しなかった筈がありません。合戦の結果を知っている私たちは明智が三日天下の夢破れて当然の如く思ってしまいますが、そんな事は無いはずです。
山崎の町の不入権公使で最も守りやすかったはずの都市戦闘は断念せざるを得なかった明智側。次善の策として、梅雨で増水した小泉川の渡川で羽柴側を一部だけ川のこちらに渡らせ、そこで各個撃破を狙ったのではないでしょうか。立命館中・高校地で見つかった濠は西国街道を側面から攻撃するための防衛線なのではないかと思います。

2 明智本陣
 長岡京市教育委員会が発掘の成果から主張している「明智本陣・恵解山古墳」説。大山崎町が主張する「境谷古墳」説。
 明智の目的は羽柴方の京への進入の阻止のはずですので、西国街道をブロックする司令部が恵解山古墳、久我畷道閉鎖を受け持つのが境谷古墳、という考え方ができるのでは無いかと思います。双方が連携し羽柴方の動きに適応して数に劣る兵力の柔軟運用を目論む布陣なのではないかと。
 
 なお、西国街道を都へと進むと小畑川を越える一文橋があり、その先は長岡宮のあった地勢の高くなる場所です。小泉川~恵解山古墳の防衛線を破られた場合はすぐ退いて一文橋を落とし、小畑川を防衛線とする第二戦線の構想ももっていたのではないかな・・・とも思います。

3 天王山の旗立て松は・・・
 羽柴方がここに軍旗を置いた?・・・実際にここからは見晴らしは良いのですが、距離は相当離れています。これだけ離れて山麓から見える旗ってどれだけ大きいねん?。また旗立て松から恵解山古墳・境谷古墳の明智方はよく見えますが、傾斜があまりに急でここから天王山の山麓は全然見えません。自軍の兵が見えたとはとても思えません。(実はその急傾斜面は現在名神高速天王山トンネルの入り口になっています。)この場所に羽柴方の司令部を置いたとしても、前線に情報や命令を伝えるにはかなり回り道をしないと下山できないのです。

4 羽柴方の布陣は・・・
 前日の摂津富田での軍義を経て6月13日に羽柴方が布陣しますが、軍勢の左翼は天王山の上から明智を攻めるような位置とする復元案がよく見られます。山頂や尾根上から軍勢が移動するようなルートはこの面の急傾斜からはとても考えられません。羽柴軍の左翼は山麓に沿って展開したものと考えるほか無いと思います。大山崎瓦窯遺跡から山崎聖天を経て山麓を北へ進むと、平安時代の貴族の別荘の伝承地や寺院があり、また桓武平氏の祖である葛原親王の邸宅伝承地があります。このように古くから人が往来した地域なので、羽柴方の軍勢が移動する道はあったはずです。さらに長岡京市との境界部にある小倉神社には山崎合戦に際して羽柴方の武将が戦勝祈願したという伝承が紹介されています。小倉神社の一の鳥居は西国街道に面し、その先が小泉川にかかる橋のあったはずの場所。ここが明智方の防衛線だ・・としたそのポイントです。

5 羽柴秀吉はいずこに・・・
 山崎合戦当日のおそらく日中に千利休が山崎に移動式の茶室を搬入して羽柴秀吉に茶を振る舞ったとの伝承があり、それは宝積寺の阿弥陀堂を臨時改装したものだったとの研究があります。このときに明智方の情報が秀吉にもたらされていない訳がない、と思います。
 一方、ここから後方数十㎞にあたる高槻市の上宮天満宮になんと山崎合戦の秀吉本陣がここだったとの伝承があり、境内のパネルに紹介されています。南方すぐが参陣した高山右近の根拠地ですし、阪急京都線で4駅も離れていますので、指揮や情報伝達からするとちょっと考えられない話だと思います。 

6 天候は・・・。
 梅雨時で、直前まで雨水を利用した備中高松城水攻めを行っていたことは事実。当時の貴族日記の記録を根拠に、6月13日は雨で、雨中の決戦だったと言われています。
 しかし、恵解山古墳からはこの合戦時の火縄銃の弾丸が出土しています。当時の火縄銃は雨が強いと火縄の火が維持できず使用不能となるので、戦闘のあった13日夕刻は少なくとも小降りか、あるいは雨が上がっていたと考えられます。

7 夏至前後の夕刻の日照
 これこそ現地に行かないとわからない事なのですが、恵解山古墳は夏至の夕刻に晴れると天王山側の西日が強烈で、まぶしくて視界が効かなくなる時間があります。明智方が総崩れとなった原因は、この強烈な西日が影響したとは考えられないでしょうか?。
 
8 推移の想像
 羽柴方の右翼・久我畷道部隊の池田・加藤・中川・高山の摂津勢がまず仕掛けて戦闘開始。その一方で天王山山麓の道を黒田孝高と羽柴秀長の軍勢が高見から敵情を把握しつつ静かに北へと廻り、小倉神社からさらに金ヶ原の集落を脱けて下海印寺まで前進し、そこで小泉川を渡り左岸へ。おりよく雨が上がり西日が強くなって目くらましとなる絶好のタイミングを利して、西国街道沿いの濠の無い所まで北上してから明智本陣の恵解山古墳を鉄炮隊が襲撃、明智方が大混乱に陥った・・・、という戦闘の推移だったのではないかと想像する次第です。