北九州でお茶を教えて30年。とうりん茶道教室です。

 

戦国時代のさなか、武士は皆、茶の湯に親しんでいたことをお話ししました。

また、道具を手に入れるために苦労していました。

 

好みのものがないと、韓国や中国の窯元に注文を出して作らせたりしました。

そのような品々が、現代まで名物品として残されているものもあります。

茶会というものは、当時は道具の自慢をしたり(=これはその人自身の価値を

高めることになるからです)、あらたな道具を手に入れるための交渉に使ったり、

山海珍味やお酒でもてなしたりしていました。

これは、現代の茶事においても、茶懐石という形で残っています。

そのため、準備に時間をかけ、万端の用意をしますので、もてなす側の亭主は

当日までその場所を動くことができません。

また、もてなされる客の方も、それだけももてなしを受けるのですから、

何があっても欠席することはできません。

親兄弟の死に目にも会えないとまで言われています。

 

最後を迎えた本能寺においても、当時、茶会の前日でした。

当時、所持していた名物の道具をありったけ持参していたのです。

そして、新たな道具を手に入れるため、商人も呼び寄せていました。

 

そのとき、何かと信長にパワハラを受けていた明智光秀は、

天下や領民のためにも、信長を討つため、本能寺に向かいます。

茶会のため、信長がそこから動けないことを知っていたからです。

 

お茶を愛し、お茶を利用し、そしてお茶のために散っていった信長の

生涯は、きっと幸せだったことでしょう。

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