5.一人の朝
目が覚めたのは午後を過ぎてからだった。意識がはっきりしていくにしたがって、寒いという感覚が強くなっていった。昨日、と言っていいものか分からないが夢の中で最後に見たのは君の寝顔で、最後に感じたのは君の温もりだった。それが二つとも消えてしまっているという事実が、俺を心身の両面から凍えさせた。ストーブをつけようとすると灯油が空になっていると表示された。仕事に行って帰ってきて寝るだけの生活だったから、灯油の事など全く気にかけていなかった。
少し、部屋を確かめることにした。昨日の感覚があまりにもリアルで、とてもじゃないが夢とは思えなかったからだ。しかし現実というのはそう甘くはない。キッチンを使った形跡は無かったし、テレビは今日がクリスマスだと告げていた。ツリーの上には相変わらず指輪が鎮座していた。分かってるんだ。君と過ごした昨日は存在しない。君は死んだ。僕は独りだ。まずはあの薬が本物だった事を喜ぶべきだろう。望む夢が見られたのだ。なんだったら超能力者になって悪の組織と闘って世界を救うとか、普通では有り得ないほどの大金持ちになって豪遊したりとか、そんな子供の頃に夢見ていた事だって体験できるんだ。これは喜ばしい事だろう。その為にはもう一度あの露店に行かなくてはならない。残りの回数が決められていたら、思い切って使う事がはばかられてしまうから。
俺は車に灯油のタンクを投げ入れて、エンジンをかけた。車の中は煙草の臭いがした。大学時代に格好つけで煙草を吸いはじめたのだが、君に健康に悪いし煙たいからやめてと言われてあっさりやめた。大人になったんだという格好つけの為に始めたものだったのに、その格好つけたい相手に否定されたというのだから間抜けだなと思う。大体、煙草を吸っていても格好良くなんてなれはしない。君を失う事で半ば自暴自棄になって君に駄目だと言われた事をする俺は、酷く馬鹿で、酷く惨めで、救いようのないほど格好悪いものだった。
ガソリンスタンドで灯油を買い、その隣のコンビニでおにぎりとお茶を買った。自炊をせずに偏った食事をして、煙草を吹かしている俺は早死にするだろう。生きる意味を見失っている以上、健康に気を使う気も、その必要も無い。いつまで生きていられるかが数字で正確に見えていれば、少なくとも今よりは後悔しない生き方が出来ただろうに。
パーキングに車を停めて駅前についてみると露店は随分と減っていた。二時間ほど駅周辺を探してみたがあの老人の露店は見つからなかった。まるでその露店そのものが夢だった様に。駅員に尋ねたりもしたのだが管轄外だと突っぱねられてしまった。
馬鹿げた考えだが、あの老人はサンタクロースだったのだと思う事にした。サンタクロースが俺の様な夢の無い大人に夢をくれたのだと考えるとおかしくて仕方が無かった。だってそうだろう?それが本当なら『夢の種』は未来への目標とかそういったものを見つける為に使えという事なんだろう。それでも俺が望むのは過去へ戻る事だったんだから。残り四回しか残されていないのならば超能力者も大金持ちも輝かしい未来も要らない。ただ君と居られるなら他には何も必要ない。サンタには悪いが人選ミスだと諦めてもらおう。コンビニで買った弁当を夕食として、食後に薬を飲んだ。
君がいる家の景色を想像し、布団に潜り込んだ。
6.期限付きの夢
軽く頬を叩かれ、俺は目を覚ました。俺が抱きしめているせいで起きられなかったと君はむくれていた。
「おはよう。今日は一段と寒いな」そう言って、起き上がる。
「クリスマスだからね。ほら、息が白いよ」と君は呟いて、ストーブのスイッチを入れた。こちらのストーブは灯油切れを起こしていないようで、すんなりと点火の準備を始めている。いつも通りだった。文字通り、いつも通り『だった』光景だ。もう叶わぬ夢を見ているのだ。それを俺は忘れてはいけない。
さて、今日は何をしようか。どんな事をして過ごすのかは考えていなかったから、君が朝食を作っている音を聞きながらどうしようか考えていた。クリスマスだし何処かへ出掛けた方がいいだろう。では、何処へ?予約が必要な所へは行く事はできないだろう。そうなってくると豪華なクリスマスには出来そうもない。誰かと出掛けるのが久し振りだから中々難しい。君が居なくなった影響がこんな所にまで出ているとは思わなかった。その事実に軽く落ち込んでいると、君の良く通る声が朝食が出来たと教えてくれた。テーブルにはトーストにスクランブルエッグ、サラダ、コーヒーが置かれていた。まともな朝食はいつ振りだろうか?初めのうちは自炊を試みた事もあるけれど、壊滅的に料理が下手だとわかりすぐに諦めた。もう一ヶ月以上振りに食べるまともな朝食はとても美味しかった。
「美味いよ。やっぱり料理上手だな」俺は素直な感想を述べた。
「ちょっと焼いたり、切ったりするだけじゃない」そう言って君は笑った。
残念ながら俺にはそれが出来なくて、コンビニ弁当ばかり食べてるんだぜ。現実では、君が居ないから。
「さて、どこか行きたいところは無いか?」と俺は聞いた。しばらくの間、君は考え込んでいた。
「イルミネーションを見に行きたいかな」と呟いた。何故だかわからないが、その横顔は何だか寂しそうに見えた。
「じゃあ、そうしようか。準備をしてくれ」そう言ってから一つ問題に気付いた。車だ。車自体は問題なく動くだろうが、問題なのは車内の臭いだ。俺の記憶から作られた夢だから基本的に周囲は最新の状態になっている。とすると、車内からは煙草の臭いがするだろう。それはちょっとまずい。君の準備が終わるまでに何とかしなくては。消臭スプレーを持って、ドアに手を掛ける。そこで、新たな問題が発生した。ドアが開かない。ドアノブが回らないのだ。何度試しても、どれだけ力を込めても、ドアノブはピクリとも動かない。何かが外に置かれているのかと覗き窓から外を見て、原因を理解した。外と内を繋ぐ境界をドアと定義するなら俺の目の前にある物はドアと呼べるものでは無かった。
覗き窓から見える景色には『何も無かった』から。
景色と言っていいのかすら分からない。無いのかどうかも分からない。只々白い空間が拡がっていた。恐らく、これが夢だからだろう。俺は眠る前に君のいる景色を強く願ったけれど、その時に想像したのは家の中だ。家の外は想像していない。だから、外そのものが存在すらしていないのだ。車も、イルミネーションも存在していない世界。信じられない話ではあるが、夢の中ならなんだってありだろう。確かめる為に急いで窓を見た。外には雪が降っている。明るいという事を除けばこれは眠る前に見た景色だ。震える手で窓を開けようとした。やはり窓は鍵もかかっていないのに、全く動く気配が無かった。
準備を終えた君が不審そうに俺を見て、「何してるの?」と聞いた。そう聞くのも無理はないだろう。消臭スプレーを片手にあらゆる窓を開けようと必死になっている恋人がいたら、俺だってそう尋ねる。
「なんでもないよ。ただ、掃除をしようと思ってさ」……我ながら苦しい言い訳を口にする。
「でもそれ、消臭スプレーだよ?それになんで今から出かけようって時に掃除を始めるの?」
当たり前ではあるが、君は疑っているようだった。というか、怒っているようだった。
「いや、車がエンストしちゃってさ……」もちろんエンストなんてしていない。そもそも車そのものがない。
「それでご機嫌取りのために形だけでも掃除してる風にしてるんだ?消臭スプレーなんて持って。頑張ってね、掃除」
誤解もいいところだったが、君は寝室に閉じこもってしまった。閉じこもっているといっても鍵は掛かっていない。掛かってはいないが、経験上こういった時にはそっとしておくのが一番だ。少し時間を置いて、謝りに行かなくてはならない。完全に否は俺にある。それにこういう事があった時は大体いつも俺が悪かった。普段ならここまで怒らないだろうが、今日はクリスマスだ。どこに行きたいか聞いた時も考え込んでいたし、服もお気に入りだと言っていたものだった。楽しみにしていたんだろう。
時間に限りがあるっていうのに俺は何をやっているんだろう。自分にうんざりしながら、本当に掃除を始めた。
適当なところで掃除を切り上げて、寝室に向かった。君はベッドで布団にくるまって寝てしまっていた。君の頬と枕が濡れていて、驚いた。こういった事があると怒る事はあっても、泣く事はなかったから。やっぱりそれだけ楽しみにしていたんだろうと思うと胸が痛かった。起こしてしまわないように気を付けながら頭を撫でた。そうしているうちに俺にも睡魔が襲ってきて、俺も眠りに落ちて行った。
起きた時、外は真っ暗だった。時計の針は午前五時を指していた。頭を撫でていた相手が居ないのでこちらは現実だと気付く。大切な一回を喧嘩するだけで終えてしまったという事実に深く後悔した。
ただ、いくつか分かった事がある。夢の中はクリスマスだった。目覚めた時、俺は君を抱きしめていたし、窓のツリーには指輪が無かった。つまり夢の中の世界は夢の中の世界として、独立している。これは恐らく俺の認識によるものだろう。夢の中の世界を俺は無意識的に独立した空間だと考えているのだと思う。寝る前にもう一度別の要素を含んだ空間を意識すれば、恐らく夢の中の世界は上書きされる。自分が眠る際に想定した範囲の外の世界は、存在しない事になる。夢と現実が入れ替わる『きっかけ』は、眠る事。これらが分かったのは大きな一歩だ。極論を言ってしまえば、眠らなければ何時までも君と一緒にいられるということだから。
風呂に入って温まりながら今後の予定を立てる事にした。残り三回しかない機会を、今回のように終わらせる訳には行かない。こうして考えるとゲームのセーブデータみたいだが、次に夢の世界に行けば君と喧嘩をしたところから始まるはずだ。だからまずは君と仲直りをして、喜ばせてあげられるようにしたい。そのために必要な事が、いくつかあった。
風呂から出て朝食をとる。夢の中のような立派な料理は作れないので冷凍食品だ。
五時に起きてしまったからこうして朝食をとれているが、普段は食べない事の方が多い気がする。会社に行かなくてはならないのだから自分でまともな料理を作って食べるなんて不可能に近い。それこそ五時ごろに起きるのを習慣にしなければならないだろう。そんなのごめんだ。俺は出来る限り寝ていたい。出来る限り夢を見ていたい。それでも働かなくては生きていけないから今日も会社へ向かった。
仕事から帰ってきて初めにしたことは自分の家から出来るだけ近いイルミネーションスポットを探す事だった。幸いクリスマスシーズンという事もありそれはすぐに見つかった。しかし大変なのはここからだった。デジカメと地図を片手に車を走らせ、イルミネーションスポットまでの道を数回往復した。毎回道筋を変えて景色をデジカメで撮影した。イルミネーションスポットの周囲も何があるのかくまなく調べ、写真に収めた。
「恐ろしく入念なデートの下調べだよな」デジカメに収められた何十枚の写真を見ながらそう呟いて、俺は笑った。こうやって君と出掛ける為の準備をするのが懐かしかった。
大きめの地図をテーブルに広げて場所ごとに写真を置いて必死に記憶していると学生時代をふと思い出した。あの頃も暗記系の科目をテストの前日に必死に憶えようとしていた。大体の場合結果は酷いもので何時も再試験をさせられた。思えば俺の生き方が変わったのは君と出会ってからだったんだろう。君と同じ大学に行くために受験勉強をして、君と一緒に生活するために就職した。これからだったんだよ。本当にこれからってところだったのに。僕はどう生きていけばいいんだろう。支えを失ったままで、俺は歩いていけるだろうか。
……ダメだな。これからデートだってのにこんな事を考えても仕方ない。たとえ未来がどれだけ暗く凄惨なものであったとしても、今の俺には関係ない。未来の俺には精々頑張ってもらうとしよう。
未来と向き合う事を放棄して、俺は君の元へ逃げた。
目を覚ます。君はまだ眠っていた。眠ってすぐに起きるという本来なら異常な感覚ももう慣れてしまった。さて、君が起きる前に答え合わせをしなくてはならない。玄関のドアに手をかけ、深呼吸をした。俺の仮説が正しければドアの向こうには昨日頭に叩き込んだ景色が広がっているはずだ。腕に力を込めるとドアは前と打って変わってすんなりと開き、見慣れた景色が広がっていた。仮説は正しかった。本当に夢の中ならなんでも出来るらしい。車の煙草の臭いは綺麗に消えていた。これで君に怒られずに済みそうだ。
準備が整ったは良いが、どう起こそうか。眠った時から四時間程経っているようで、時刻は三時を回っていた。起きるまで待っていたら出掛けるには遅い時間になってしまうだろう。できるだけ優しく、君を揺り起こした。
「……掃除は終わったの?」不機嫌そうに君は言った。
「車を直してたんだよ」もちろん嘘だ。車を作っていたというほうがまだ正しいと思う。
「それとも、もう出掛けたくない?」
「…………行くけど」
久しぶりのドライブだ。助手席には君が座っている。…まだちょっと不機嫌そうだけど。
「なぁ」
「……なに?」
「イルミネーションを見に行く他にはしたい事って無いのか?」
「……二人で居られればそれでいいけど」
……そういうのは何と言うか、狡いと思う。
車を走らせてイルミネーションスポットについたのは四時頃だった。近くのレストランで遅めの昼食にした。君も機嫌を治してくれたようで楽しく食事をした。食べ終わる頃には外は大分暗くなっていて、公園のイルミネーションが煌めいていた。クリスマスらしいサンタクロースやトナカイ、雪だるまなどが色とりどりの電飾で描かれていた。その中でも一際目を引いたのは中央の大きなツリーだった。本物の大きな木に電飾や飾りが施されて、天辺には星形の電飾が輝いていた。一通り見て回った後、「この後はどうしたい?」と君に尋ねた。
君は振り返って言った。
「もう十分だよ。こんな夢みたいな景色をありがとう」
その時の笑顔はイルミネーションよりも、美しかった。
7.消極的な自殺
三度目の夢は特別な事をして過ごしたけれど、残りの二回については特に語る必要が無いほどいつも通りの日々を過ごした。豪華な日々が欲しかったわけではないし、君も俺と居られたらそれでいいと言っていたから。
ただ、俺はその二回のうちに何とかこの夢の日々を引き延ばそうと画策していた。寝なければ終わらないという考えはどうも正しいようだったが、夢の中でも腹は減るし眠気もある。そういった感覚を無くせばいいとも考えたが、その感覚が無いという事を想像して夢の中で実現するのは不可能だった。俺に想像できる範囲でなければ実現出来ないらしい。夢の中なのに実現というのもなんともおかしな話ではあるが。俺はお金持ちにはなれても、超能力者にはなれないという事なんだろう。
ただ、眠らないのは不可能だったが、夢を延長することに関しては成功した。
その方法は謂わば、消極的な自殺とも言える行為だった。
夢と現実が切り替わるときには特定のきっかけがある。そのきっかけは眠る事。夢から現実へ、現実から夢へ。そのどちらの場合も眠ることに変わりはないが、決定的に違う部分があった。それは薬を飲んで眠るか否か。『夢の種』を服用して眠れば望む夢をみられるという事。これは経験した事実だから想像することは難しくない。だから俺は夢の中で『夢の種』を飲んで眠る事にした。体験した事実ならそのまま再現できる。それを利用して、俺は夢の中で夢を見た。そしてそれは成功したのだ。最後の一回の夢の中で俺は夢の種を服用し、君の隣で眠った。正直うまく行くとは思っていなかったが目を覚ました時に君はちゃんと隣にいた。
夢の中で夢を見続けるという事は現実の俺は目を覚まさないという事になる。夢の中で過ごしている間も時間は経過している。飲まず食わずで眠り続ける人間がどうなっていくのかは想像に難くない。じきに現実の俺は衰弱して死ぬ。それでも構わないと思った。
これ以上、君が居なくなった世界で生きる事に耐えられそうになかったから。
もう一人になんてさせない。ずっと一緒だ。
いつもの様に時間は過ぎて、もう眠る時間になっていた。
昨日のように薬を飲もうとする手を、君が止めた。
そして、意を決した様な表情でこちらを見た。
君は震える声で言った。
「もう、夢は終わりにしよう?」
8.夢の終わり
君が何を言っているのか理解出来なかった。
これが夢だと気付いているのか?何故終わりにしようなんて言うんだ?君は自分に起こった事を知っているのか?聞きたい事は次から次へと湧いてくるのにどれも声にならなかった。
「もう十分満足したよ。十分過ぎるくらい、幸せだったよ」
「……何を言ってるんだよ。これからじゃないか」
やめろ。やめてくれ。やっと君と離れずにいられる方法を見つけたんだ。
「私はあなたの知っている私をもとに作られたんです。だからあなたの恋人の『私』じゃない。言うなれば、模造品なんです。あなたがこのまま私と居る為に死んでしまったら、本当の私に悪いですから」
そう、君は言った。
「待ってくれよ。君は君だろう?それ以外の何者でもないはずだ。俺はそう望んだんだから!」
「私であって、私ではないんです。どれだけあなたとの思い出を持っていても、本当の私は十月の終わりの日付が変わる頃に、死んでいるんですから」
何も、言い返せなかった。そうだ。あの時確かに君は死んだ。今この瞬間に目の前に居る君は、俺の妄想だ。君のいない生活に耐え切れなかった俺が生み出した、君の残像。
「あなたと再開できて、本当に嬉しかったです。イルミネーションを見に行く前、 怒っちゃってごめんなさい。あなたと見たイルミネーションはとても綺麗でした。あなたと過ごした一日一日が本当に幸せでした。あなたの事が大好きです。だから、生きてください。死のうとなんて、しないでください……」
そう懇願する君は、泣いていた。
俺はなんて馬鹿なんだろう。自分のことばかり考えて、孤独に耐えられないからと夢に逃げて、君を泣かせて。俺は決断しなくちゃならないんだろう。君との、二度目の別れを。
「……君は君だよ。正確には違っているとしても俺のこの数日間を支えてくれたのは 確かに君だ。だからその堅苦しい敬語、やめてくれよ」
「ごめんなさい。何だか馴れ馴れしくしたら本当の私に怒られちゃう気がして」
「自分がその立場だったら怒る?」
「まさか、怒れないよ。そんなの」
「それなら大丈夫だよ。君と同じなんだから」
「そうなのかな」と、君は笑った。
最期に渡したいものがあるから待っていて欲しいと言って、寝室を出た。
君はこの数日間、どんな思いで俺に笑いかけてくれていたのだろう。自分がもういない存在であることを知っていて、自分が誰かの残像だということを理解していて、それでいて俺にそれを悟られないように。本当は泣き出したかった筈なんだ。自分がもう既に死んでいるなんて知ったら平気でいられる訳がないんだ。それなのに君は俺の為に平気なふりを、知らないふりをしてくれていた。できる限り、その想いに応えてあげたい。これまでの辛さを払拭するような、幸せを与えてあげたい。
だから俺は、あの時出来なかったサプライズをする事にした。
寝室に戻り、君の手をとった。君はなんだか分からないといった表情で俺を見ていた。俺は君の左手の薬指に指輪をはめた。
「本当は君の誕生日に渡す予定だったんだ。プロポーズするつもりだった。結局こんなタイミングになっちゃったけど、受け取ってもらえないかな?」
君は驚き、悩んでいるようだった。自分は本当は結婚を考えられていた相手では無い。だからこの指輪を受け取っていいかわからない。そう悩んでいるんだろう。
「君に受け取って欲しいんだ。その為の物だった」
言ってしまった後で、後悔した。俺が出来ない筈の再開を望んだから君は生まれた。もし不幸な事故が起こらなければ君は存在しない。ならばこれは君にとって、その為の物なんかじゃない。本当ならこんなことを言ってはいけない。無責任だと嫌われて、恨まれて然るべきな言葉を俺は言ってしまった。
それなのに、君は嗚咽を堪えながら「ありがとう。ずっと、大事にするね」と言った。
ずっと大事にする事なんて不可能だと、俺も君も分かっていた。俺がこの夢から覚めてしまったら、君は消えてしまう。君という存在を確かめるように、心と体に君を刻み込むように、強く抱きしめた。
「夢は覚めるから夢なんだよ。だから、おかしな話だけど、もう寝よう?」君は泣きながら、そう言った。
君との再開を果たした最初の日の夜のように君を抱きしめて眠った。あの夜と違って、君も抱きしめ返してくれていた。天国にいる君と腕の中にいる君は違う人なのかもしれないけれど、浮気だとは言わないで欲しい。
いつだって俺は『君』一筋だから。
目を覚ますと君は居なかった。コーヒーの香りもしなかった。それでも俺は腕の中に微かな温もりを感じていた。もうじき今年が終わり、来年が来る。来年からは煙草を止めて、料理の練習をしようと思う。
三度目の再開を果たせた時に、君に怒られないように。
〈おしまい〉