ハッピーエンド

ハッピーエンド

あの時の残骸。
細々とお話しを書いています。
余程無いとは思いますが、文章等の無断使用はおやめ下さい。
Twitterアカウント @chalarythem

Amebaでブログを始めよう!

 翌日の正午頃、僕は病院の待合室で子供向けアニメを眺めていた。犬猿の仲の二人が常に喧嘩をしているが、共通の敵役が現れたことでその二人は協力して立ち向かう。そして敵役を撃退した二人はハイタッチをする。しかし次の日になるとまたこれまでの様に喧嘩をしている。ただ、その二人の口角はいつもより上がっている。そんな話だった。子供向けのアニメというものは子供時代に見るよりもある程度年を取ってからの方が刺さる物があるから不思議だ。ならばこれらは大人向けのアニメと言えるのかと考えると、ある意味ではそう言えなくはないだろうが、子供の頃にそうしたアニメを見たという前提があって初めてそれは心に響くものになるのだろうからやっぱりそれは子供向けなんだろう。子供の頃に仕掛けておく大人の自分への時限爆弾のようなものだ。そんなくだらないことを考えながら時計に目をやると十二時半頃を指していた。そろそろ琴葉の定期検診も終わる頃だ。検診が始まってかれこれ三時間ほどになる。検診のメニューにはMRIとかCTとか見たことがある文字列が並んでいたが、それぞれの内容がどのような意味を持つかは僕にはいまいちわからなかった。結局それから三十分ほどして検診が終わり、僕らは琴葉のアパートに向かった。検診の種類が多く、それらの情報をそれぞれ照らし合わせて症状の検討をする必要があるらしく、正確な診断結果が出るのは一週間後らしい。

 琴葉は自身のアパートから来月末で退去することになった。本来なら今月末で退去してしまいたいところだったが、手続き上の関係で間に合わなかった。退去が来月末とは言え、一緒に住むことにしたので今日は引越しの為の琴葉の部屋の片付けをする事になった。荷物を大体まとめてしまって、重要なものから載せられるだけ車に積んで僕のアパートに移そうという計画だ。

「この辺のミニチュアはどの位の重要度なんだ?」

 僕は本棚の上に大量に鎮座した様々なミニチュアを指差して言った。

「うーん、すぐには必要ないかな」

「それじゃあ『いまいち』の箱に入れとく」

「大事なものだけどね。すごく大事なものだけどね」

 よほど大事なのだろう。二度言った。僕から見ると文字通りいまいちなのだが。 

 まぁ、人の趣味にとやかく言うものではないだろう。僕はそれらのミニチュアを「いまいち」と書かれたダンボール箱に入れ、「いまいち」の文字の下に「(すごく大事)」と小さく書き足した。琴葉こだわりのミニチュアはどれも精巧で、細かなパーツが多かった。

「折れたりするとあれだから新聞詰めてこの箱はミニチュアだけにしとくな」

 そう言って振り返ると琴葉はアルバムを開いていた。アルバムと言っても、学校を卒業する時に貰うような大仰なものではない。個人的に気に入った写真を収めておくための小さなアルバムだ。高校時代、琴葉は写真と言うものに興味を持っていた様だった。とは言え一眼レフカメラなどを使った本格的な趣味ではなく、使い捨てカメラでちょっと気に入ったものや風景を取るといった小規模な趣味だった。ある意味で備忘録のようなものだったのだろう。大抵の高校生はそういった行為を携帯電話で済ませてしまうところだろうが、琴葉は写真を現像して形にすることに価値を見出していたようだった。

「みてみて、懐かしいね」

 琴葉は僕の肩をつつき、それから一枚の写真を指差した。そこに写っていたのはなんだかよくわからない黒色と肌色だった。

「なんだこれ。酷くぶれてるな」

「覚えてないの?私が写真を撮ろうとするといっつもまともに写らない様にしたじゃないですか」

「あぁ、これ僕なのか。悪いけど写真は嫌いなんだよ」

「写真を撮ったって魂は抜かれないんですよ」

「気分の問題だよ」

 それからしばらく、アルバムに収められてる写真を一枚一枚見ていった。道端にいた猫。川に浮かぶ鴨。夕焼け。自販機。なんで撮ったのか本人も覚えていないような写真達。そんな写真達の中でも、美術部に関連した写真がやはり多かった。そして、僕が美術部に加入することになったきっかけ。徹夜で描き上げたあの絵の写真も、ここにあった。

「覚えてますか?この絵。アキ君が美術部として初めて描いた作品で、私を救った絵です」

「もちろん覚えてるよ。苦い思い出だ」

「そんなことないでしょ。この絵が危機を救ったんですから、良い思い出では?」

「過程が苦いんだよ。痛々しいとも言っていい。リアリスト気取りの中二病患者だ」

「まぁまぁ、そういうのも含めて美しい思い出なんですよ」

 

 徹夜で拙い油絵を描いた後の僕の行動は支離滅裂だった。涙を必死で堪えて僕を否定した篠宮の姿が離れず、それを振り払う為に絵を描くだけは描いた。しかしあれだけ琴葉を皮肉っておきながら、絵を描いてやったぜと簡単にあの美術室に戻るのは厳しい。結局こちらからは行動を取らないと決め込み普段通り過ごした。放課後、普段ならさっさと帰るところを少しだけ教室で待ってみることにした。結果から言って、すぐに篠宮は来た。ドアをに手をかけ肩で息をしながら、掠れた声で篠宮は言った。

「藤井先輩、今すぐ、私と一緒に、美術室へ、行きましょう」

「あ、あぁ、わかったよ」

 剣幕と必死さに押され、僕は言われるがままに美術室へ連行された。

 

 美術室に入るや否や、篠宮はドア付近に椅子や机、石膏像などを運んでドアを塞いでしまった。これで一安心と言った様子だった。それから椅子を一つ、教室の中央、僕の描いた油絵の落書きの前に置き、「では、座って下さい。今日は絶対に逃しません」と言った。まるで僕が被告人で篠宮が裁判官の様だった。篠宮の行動力や胆力、そして美術室の出入り口を塞ぐ本気度を考えると、僕がここから逃げ出ていく事は不可能だろう。厳密に言えば無理矢理に出ていくことは不可能では無いのだろうが、篠宮琴葉という存在から逃げおおせるのは無理だろう。予想出来た事態ではあるし、僕は諦めて椅子に腰掛けた。

「それで今日は美術部部長様が何のご用事でしょうか?」

「一応確認しておきます。この絵を書いたのは藤井秀明先輩、あなたですね?」

「その通りだ。また魔が差したんだ。申し訳無い事をした」

「怒ってるわけではありません。むしろ、感謝しています。これが先輩なりに考えた私に対する答えでしょう?」

「まぁどんな風に捉えてくれても構わないよ」

 僕は努めて興味無さげにそう答えた。

「では、こう捉えます。この絵は藤井先輩が我が美術部部員として初めて書き上げたこととなる作品です」

「それは少し飛躍し過ぎじゃないか?美術部に入ることとはまた別問題だろう」

「いいえ。この絵を見たときに決めてしまいました。あなたは恐らく私の最後の希望です。そして私の独断は先輩にとっても多少意味のあるものになると思いますよ」

「随分大きく出たな。どういう理屈で僕の為になると思っているのかは知らないけれど」

「ただの直感ですよ。先輩は絵を描く事が好きで、才能もある。けれど、何かの理由でそれらに蓋をしている。そんな気がしたんです。まぁ私が入ってほしいからと言うのが第一で、その為の後付けの理由です。いわばエゴですね」

 それは確かに間違っているとは言えない推察だった。だが僕は中途半端な才能なら努力をすべきではないという持論が間違っているとも思わなかった。これが篠宮の言う「蓋」で、僕にとっての「防衛線」だった。それを超えさえしなければ、大きな傷は負わずにすむ。僕はそれでいい。それさえ越えなければ、なんだっていい。

「全く考え無しって訳でもないんだな。その考えが合っているかどうかは別として。まぁ僕は大成しない努力ならしないほうがいいという考えを持ってる。あながち外れでもないだろうな」

 篠宮は少し驚いた様子だった。僕が自分のことに触れた話に乗ってくるとは思わなかったのだろう。僕自身、自分の事だろうと言われればそれまでだが、少し意外だった。

「考えが合っているかと言う点においては全く自身がありません。ただ、やる気はありますよ。私が出来うる範囲で先輩がこの部に入って良かったと思わせられるような努力をしますし、先輩の持つ能力が役に立つということも証明出来る様に頑張ります」

「僕の事は僕の話だろう。君が頑張る話ではないと思うよ」

 篠宮は少しの間教室の隅へと目を逸らし、「自分語りになっちゃうんですけど」と前置きして話し始めた。

「私はあんまり成功したことってないんですよね。難関を自力で乗り越えた事がないっていうか。何とかなっては居るんですよ。でも、納得できるような乗り越え方ではないんです。立ちはだかってる複数の壁達の合間をなんとかすり抜けるみたいな。だからもうこの際、自分以外の誰かの力を主としてでも正面からそれを越えたいんですよ。そうすれば私の勝ちなんです。馬鹿みたいですけど」

「君は一体誰と戦っているんだ?」

「なんでしょう?自分自身とか、社会とか?まぁなんだっていいんです。一度でいいから自信満々に「勝った!」って言ってみたいんです」

「いや、だから誰に?」

「その答えはまだ出ません」

 正直な話その返答を聞いたとき「あぁ、こいつは馬鹿なんだな」と思った。篠宮は自身の成功体験が無いと言っていた。もちろん細かなものを数えればあるだろうが、決定的なものが無いのだと。今直面している廃部の問題に関しても篠宮一人では無理だから僕を頼ると。否定的な目を向ければそれはそもそも逃げに分類される行為だ。 

 そんな逃げであるのにも関わらず、僕はそれを屈託なく言い切った篠宮を、格好良く感じたのだ。そして興味を持ってしまった。未だ出ないという答えの内容に。

「分かったよ。そこまでしんどい作業でもなさそうだしな。だが、僕はしんどくなったら迷わず逃げる」

 僕はあくまで仕方なくという体を崩さず、そう言った。篠宮は小さく吹き出して、待ってましたとでも言うように満面の笑みで言った。「美術部へようこそ」と。

7.

 それから数日間、僕の生活はこれまで通りだった。いつも通り会社に向かい、いつも通り疲れ、眠る前にいつも通り琴葉と連絡を取る。僕の会社は基本的に土日が休みとなる会社で、ノルマをこなしていれば土日は休むことができる。もちろんそう簡単にノルマはこなせない為残業もしなければならないが、世の中そんなものだろう。僕も琴葉も、何もかもがいつも通りだった。少なくとも、表面上は。今日もいつも通り残業を終えて、駅へ向かって歩いた。駅に着くといつもより多くの人がホームに溜まっていて、信号機の異常によって電車に遅れが発生したと電光掲示板が告げていた。次の電車まで一時間近く空いてしまうようで、僕は駅の近くの大型雑貨店に入った。その雑貨店の一角には早すぎるハロウィングッズが所狭しと並べられていた。まだ十月にも入っていないというのにこうしてハロウィングッズが置かれるのはある種の商戦なのだろうが、実際に売上は伸びるのだろうか。とは言えハロウィングッズの大部分はコスプレ用のグッズであり、こうした商品が売れている所に遭遇した経験のない僕からすると、いつ売っても売上にはさして変化が無いような気がした。勿論それは勘違いで、僕が知らないところで幾らでも売れているだろうけれど。この辺は琴葉に似合うかもしれないななんて考えながら商品を見ていると、商品棚の一番奥に季節外れの品を見つけた。季節を先取りしたハロウィングッズとは逆に、季節において行かれた商品がそこにあった。他の商品と違い、半ば詰め込まれるような形で花火が置かれていた。花火は湿気ると使えなくなるからだろうが、価格も安く設定されて投げ売りされていた。発注ミスかなにかだろうか、売れ残りにしては結構な量の花火が残っていた。中でもナイアガラと書かれた花火が多かった。ナイアガラ花火の説明を見ると一本の紐に一般的な手持ち花火が多く繋げられた花火で、棒などを立てて紐の両端を結んで張った状態で導火線に火をつけるとさながらナイアガラの滝のように見えると書かれていた。季節外れの花火も悪くないかもしれない。僕はその場の花火すべてを買い物かごに入れ、会計に向かった。それらの合計金額は辛じて一万円を切っていた。

 

 何とか仕事をこなして土日の休みを獲得し、予定通り琴葉と会うことになった。今日は土曜だが琴葉は大学関連の手続きがあるので夕方頃からこちらに来るらしい。僕としても花火をする予定くらいしか考えていなかったので特に問題はなかった。琴葉が来る前にアパートの近所にあるホームセンターに行って、棒状の木材を4本買った。そのままスーパーに向かって、食材やお菓子を買った。恥ずかしい話、僕は自炊をほとんどしない。しないというよりは出来ないと言った方が正しい。僕には料理に関するセンスと言うものが無いのだ。何度か自炊に挑戦したことはある。比較的かんたんに作れると言われて炒飯に挑戦したときは、米の水分が抜けきった上に塩味が強すぎて岩塩のようなものになった。これを期に僕は料理というものをやめた。そうした理由で僕の部屋の冷蔵庫にはほとんど物が入っていない。飲み物やドレッシング程度の物だけだ。冷凍庫には冷凍食品がそこそこに詰まってはいるが。僕が出来合いのものではなく食材を買っているのは琴葉が来るからだ。琴葉はそれなりに料理ができる。僕がそれなりになんて評価を下せば琴葉は怒るだろうけれど。買い物を終えて自室に戻ってからは何もしなかった。休日は休むから休日なのであって疲れては意味がないと僕は考えている。それではつまらないと琴葉はごねるだろうから、琴葉が来るまでは存分に休むことにした。軽く昼飯を済ませてベッドに横になった。スマートフォンを弄っているうちに瞼が重くなっていき、意識は微睡みの中に溶けていった。

 

 何処かでドアが開いて、荷物を下ろす音がした。何処かと言ってもここは僕の部屋だ。琴葉が来たのだろう。口を開けて寝てしまっていたようで、酷く喉が乾いていた。

「寝ていたんですか。おはようございます」

「ああ。せっかくの休みだから休んでおかないとな」

「しっかり休めましたか?それではさっさと起きて遊びましょう」

「わかったわかった。ちょっと待ってくれ」

 顔を洗って目を覚まして、水を飲んで喉を潤した。

「まぁ準備完了だな。琴葉も準備してくれ」

 琴葉はこちらの言っていることが分からないという様子できょとんとしていた。

「準備ですか?なんの?」

「今からちょっと川まで歩く。ほら、ここから十分くらい歩いた所のさ」

「今来たところなんで準備は万端ですけど、何をするんです」

「行ってみてのお楽しみだ」

 僕は事前に花火を入れておいた鞄と木材を持って外に出た。それを見た琴葉はわけがわからないという表情でこちらを見ていた。僕は手招きをして、早く来るように促した。琴葉は観念したようで、僕の後ろをついて来た。外はもう暗くなり始めていて、月が爛々と輝いていた。確か、そろそろ満月だったと思う。川までの道はほぼ一本道で、ここ一週間でお互いにあったことを話しながらゆっくりと歩いた。川は水面で月明かりを反射して輝いていた。太陽の光を反射して光を放つ月の光を更に反射して輝く水面は随分と神秘的だった。河原に降りるための階段を下っていると後ろから小さな短い悲鳴が聞こえた。振り返るのと同時に衝撃があって、僕も一段踏み外したが何とか踏みとどまって転落は避けた。

「ごめんなさい。転んでしまいました」

「なんとか受け止めたし僕は大丈夫だけど、気を付けて」

 そう言って琴葉の足元に目をやると膝小僧にかさぶたが出来ていた。両膝にあるその傷跡は今しがたできた様なものではなく、今のような事がそう珍しく無くなったということを示していた。

「ほら、手貸して。ゆっくり降りよう」

「ありがとうございます」

 琴葉は照れくさそうに手を握って、僕らは一段一段ゆっくりと階段を下った。

「さぁ、川についたわけだけど、少し目を瞑っててくれ。準備をしなきゃならないんでね」

「その角材を使ってですか?」

「あぁ。こいつの出番だ。もうちょっとこっちに来て目を瞑っててくれ。すぐ終わるから」

「わかりました。じゃあこの辺りでいいですか?」

「あぁ、ばっちりだよ。そこでいいって言うまで目を閉じててくれよ」

 僕は琴葉が目を閉じたのを確認して、作業に取り掛かった。琴葉を中心にして、彼女から2メートルは間隔を空けて、丁度4メートル四方の中心に琴葉の位置来る様に角材を杭として地面に突き立てた。それからそれらの角材を頂点して、ナイアガラ花火を結んだ。これで琴葉はナイアガラ花火に囲まれる形になった。傍から見たら怪しい儀式だ。ナイアガラ花火の導火線に火をつけて、僕もその四角の中に入った。

「よし、もう目を開いていいぞ」

 琴葉が目を開いたとき、その眼前にはどんな景色が映ったのだろうか。ただ一つだけ言えるのは、光に溢れた光景だっただろうということ。琴葉は言葉にならない声をあげながら、その場でゆっくりと回りながら花火を見ていた。この光景を一生忘れない様に、目に焼き付けている様だった。花火はそう長くは持たず、存外あっさりと消えてしまった。角材と花火を片付けて、僕らは川岸に座った。手持ち花火はまだ幾つか残っていたが、少し話がしたかった。

「季節外れに花火が売ってて、安かったから全部買ったんだ」

「この時期に花火なんて予想してなかったから驚いちゃった。凄く綺麗でしたね。どっちを見てもきらきら光って、まるで光の中心に居るみたいでした。私の眼の事もあると思うですけど、経験の中の花火とはまた違う感じで。なんていうか、幻想的で。ぼんやりと輪郭が揺らいでる淡い光みたいな」

 琴葉は本当に嬉しそうだった。この雰囲気に陰を落とす様な話は正直なところしたくなかったが、僕は聞かないわけには行かなかった。

「……今、どのぐらい見えているんだ?膝の怪我を見るに、前より悪化しているんだろう?」

 琴葉少し悲しそうな顔をして、それでいて何でもないような顔を作って、口を開いた。

「何もない所でよく転ぶようになりました。普段教室の真ん中辺りの席で講義を受けていましたが、日に日に前へとずれていきました。今では一番前の席でも黒板が霞んでよく見えません。バイトは検査入院明けの次の日に、半ばクビになる形で辞めました。今日は大学に退学届けを取りに行ったんです。休学を勧められましたが、失われた感覚が戻った症例は無いのでお断りしました。そんな感じです。そんなもんです」

 僕はどのくらい黙っていただろうか。長く感じただけで本当は短い時間だったと思う。生活が変わらなかったわけがないのだ。琴葉はそれを極力、僕に悟らせないようにしていたのだろう。

 

「一緒に住もうか」

 

 その一言は自分でも驚くくらいに自然に出た。

 少し間をおいて「分かった」と返事が返ってきた。

 その時の琴葉の声は、震えていた。その震えが一緒に住むことの嬉しさによるものなのか、もう一人では生活できないほどに病が進んでしまった事実の悲しさによるものなのか、もしくはその両方か。それがわからなくて僕の方が泣きそうになってしまった。 支えなければならない立場の僕の方が泣いているという事実を隠すために、手持ち花火を取り出した。それからお互い一本ずつ、火をつけた。少し肌寒さを感じた僕らは肩を寄せ合った。一本ずつ一本ずつ、残った花火を消化していった。まるで何かのカウントダウンでもするように。

 

 涙で滲んだ視界に映る花火は確かに幻想的で、綺麗だった。

.一人の朝

 

 目が覚めたのは午後を過ぎてからだった。意識がはっきりしていくにしたがって、寒いという感覚が強くなっていった。昨日、と言っていいものか分からないが夢の中で最後に見たのは君の寝顔で、最後に感じたのは君の温もりだった。それが二つとも消えてしまっているという事実が、俺を心身の両面から凍えさせた。ストーブをつけようとすると灯油が空になっていると表示された。仕事に行って帰ってきて寝るだけの生活だったから、灯油の事など全く気にかけていなかった。

 少し、部屋を確かめることにした。昨日の感覚があまりにもリアルで、とてもじゃないが夢とは思えなかったからだ。しかし現実というのはそう甘くはない。キッチンを使った形跡は無かったし、テレビは今日がクリスマスだと告げていた。ツリーの上には相変わらず指輪が鎮座していた。分かってるんだ。君と過ごした昨日は存在しない。君は死んだ。僕は独りだ。まずはあの薬が本物だった事を喜ぶべきだろう。望む夢が見られたのだ。なんだったら超能力者になって悪の組織と闘って世界を救うとか、普通では有り得ないほどの大金持ちになって豪遊したりとか、そんな子供の頃に夢見ていた事だって体験できるんだ。これは喜ばしい事だろう。その為にはもう一度あの露店に行かなくてはならない。残りの回数が決められていたら、思い切って使う事がはばかられてしまうから。

 俺は車に灯油のタンクを投げ入れて、エンジンをかけた。車の中は煙草の臭いがした。大学時代に格好つけで煙草を吸いはじめたのだが、君に健康に悪いし煙たいからやめてと言われてあっさりやめた。大人になったんだという格好つけの為に始めたものだったのに、その格好つけたい相手に否定されたというのだから間抜けだなと思う。大体、煙草を吸っていても格好良くなんてなれはしない。君を失う事で半ば自暴自棄になって君に駄目だと言われた事をする俺は、酷く馬鹿で、酷く惨めで、救いようのないほど格好悪いものだった。

 ガソリンスタンドで灯油を買い、その隣のコンビニでおにぎりとお茶を買った。自炊をせずに偏った食事をして、煙草を吹かしている俺は早死にするだろう。生きる意味を見失っている以上、健康に気を使う気も、その必要も無い。いつまで生きていられるかが数字で正確に見えていれば、少なくとも今よりは後悔しない生き方が出来ただろうに。

 パーキングに車を停めて駅前についてみると露店は随分と減っていた。二時間ほど駅周辺を探してみたがあの老人の露店は見つからなかった。まるでその露店そのものが夢だった様に。駅員に尋ねたりもしたのだが管轄外だと突っぱねられてしまった。

 

 馬鹿げた考えだが、あの老人はサンタクロースだったのだと思う事にした。サンタクロースが俺の様な夢の無い大人に夢をくれたのだと考えるとおかしくて仕方が無かった。だってそうだろう?それが本当なら『夢の種』は未来への目標とかそういったものを見つける為に使えという事なんだろう。それでも俺が望むのは過去へ戻る事だったんだから。残り四回しか残されていないのならば超能力者も大金持ちも輝かしい未来も要らない。ただ君と居られるなら他には何も必要ない。サンタには悪いが人選ミスだと諦めてもらおう。コンビニで買った弁当を夕食として、食後に薬を飲んだ。

 

 君がいる家の景色を想像し、布団に潜り込んだ。

 

.期限付きの夢

 

 軽く頬を叩かれ、俺は目を覚ました。俺が抱きしめているせいで起きられなかったと君はむくれていた。

「おはよう。今日は一段と寒いな」そう言って、起き上がる。

「クリスマスだからね。ほら、息が白いよ」と君は呟いて、ストーブのスイッチを入れた。こちらのストーブは灯油切れを起こしていないようで、すんなりと点火の準備を始めている。いつも通りだった。文字通り、いつも通り『だった』光景だ。もう叶わぬ夢を見ているのだ。それを俺は忘れてはいけない。

 さて、今日は何をしようか。どんな事をして過ごすのかは考えていなかったから、君が朝食を作っている音を聞きながらどうしようか考えていた。クリスマスだし何処かへ出掛けた方がいいだろう。では、何処へ?予約が必要な所へは行く事はできないだろう。そうなってくると豪華なクリスマスには出来そうもない。誰かと出掛けるのが久し振りだから中々難しい。君が居なくなった影響がこんな所にまで出ているとは思わなかった。その事実に軽く落ち込んでいると、君の良く通る声が朝食が出来たと教えてくれた。テーブルにはトーストにスクランブルエッグ、サラダ、コーヒーが置かれていた。まともな朝食はいつ振りだろうか?初めのうちは自炊を試みた事もあるけれど、壊滅的に料理が下手だとわかりすぐに諦めた。もう一ヶ月以上振りに食べるまともな朝食はとても美味しかった。

「美味いよ。やっぱり料理上手だな」俺は素直な感想を述べた。

「ちょっと焼いたり、切ったりするだけじゃない」そう言って君は笑った。

 残念ながら俺にはそれが出来なくて、コンビニ弁当ばかり食べてるんだぜ。現実では、君が居ないから。

 

「さて、どこか行きたいところは無いか?」と俺は聞いた。しばらくの間、君は考え込んでいた。

「イルミネーションを見に行きたいかな」と呟いた。何故だかわからないが、その横顔は何だか寂しそうに見えた。

「じゃあ、そうしようか。準備をしてくれ」そう言ってから一つ問題に気付いた。車だ。車自体は問題なく動くだろうが、問題なのは車内の臭いだ。俺の記憶から作られた夢だから基本的に周囲は最新の状態になっている。とすると、車内からは煙草の臭いがするだろう。それはちょっとまずい。君の準備が終わるまでに何とかしなくては。消臭スプレーを持って、ドアに手を掛ける。そこで、新たな問題が発生した。ドアが開かない。ドアノブが回らないのだ。何度試しても、どれだけ力を込めても、ドアノブはピクリとも動かない。何かが外に置かれているのかと覗き窓から外を見て、原因を理解した。外と内を繋ぐ境界をドアと定義するなら俺の目の前にある物はドアと呼べるものでは無かった。

 

 覗き窓から見える景色には『何も無かった』から。

 

 景色と言っていいのかすら分からない。無いのかどうかも分からない。只々白い空間が拡がっていた。恐らく、これが夢だからだろう。俺は眠る前に君のいる景色を強く願ったけれど、その時に想像したのは家の中だ。家の外は想像していない。だから、外そのものが存在すらしていないのだ。車も、イルミネーションも存在していない世界。信じられない話ではあるが、夢の中ならなんだってありだろう。確かめる為に急いで窓を見た。外には雪が降っている。明るいという事を除けばこれは眠る前に見た景色だ。震える手で窓を開けようとした。やはり窓は鍵もかかっていないのに、全く動く気配が無かった。

 準備を終えた君が不審そうに俺を見て、「何してるの?」と聞いた。そう聞くのも無理はないだろう。消臭スプレーを片手にあらゆる窓を開けようと必死になっている恋人がいたら、俺だってそう尋ねる。

「なんでもないよ。ただ、掃除をしようと思ってさ」……我ながら苦しい言い訳を口にする。

「でもそれ、消臭スプレーだよ?それになんで今から出かけようって時に掃除を始めるの?」

 当たり前ではあるが、君は疑っているようだった。というか、怒っているようだった。

「いや、車がエンストしちゃってさ……」もちろんエンストなんてしていない。そもそも車そのものがない。

「それでご機嫌取りのために形だけでも掃除してる風にしてるんだ?消臭スプレーなんて持って。頑張ってね、掃除」

 誤解もいいところだったが、君は寝室に閉じこもってしまった。閉じこもっているといっても鍵は掛かっていない。掛かってはいないが、経験上こういった時にはそっとしておくのが一番だ。少し時間を置いて、謝りに行かなくてはならない。完全に否は俺にある。それにこういう事があった時は大体いつも俺が悪かった。普段ならここまで怒らないだろうが、今日はクリスマスだ。どこに行きたいか聞いた時も考え込んでいたし、服もお気に入りだと言っていたものだった。楽しみにしていたんだろう。 

 時間に限りがあるっていうのに俺は何をやっているんだろう。自分にうんざりしながら、本当に掃除を始めた。

 

 適当なところで掃除を切り上げて、寝室に向かった。君はベッドで布団にくるまって寝てしまっていた。君の頬と枕が濡れていて、驚いた。こういった事があると怒る事はあっても、泣く事はなかったから。やっぱりそれだけ楽しみにしていたんだろうと思うと胸が痛かった。起こしてしまわないように気を付けながら頭を撫でた。そうしているうちに俺にも睡魔が襲ってきて、俺も眠りに落ちて行った。

 

 起きた時、外は真っ暗だった。時計の針は午前五時を指していた。頭を撫でていた相手が居ないのでこちらは現実だと気付く。大切な一回を喧嘩するだけで終えてしまったという事実に深く後悔した。

 ただ、いくつか分かった事がある。夢の中はクリスマスだった。目覚めた時、俺は君を抱きしめていたし、窓のツリーには指輪が無かった。つまり夢の中の世界は夢の中の世界として、独立している。これは恐らく俺の認識によるものだろう。夢の中の世界を俺は無意識的に独立した空間だと考えているのだと思う。寝る前にもう一度別の要素を含んだ空間を意識すれば、恐らく夢の中の世界は上書きされる。自分が眠る際に想定した範囲の外の世界は、存在しない事になる。夢と現実が入れ替わる『きっかけ』は、眠る事。これらが分かったのは大きな一歩だ。極論を言ってしまえば、眠らなければ何時までも君と一緒にいられるということだから。

 

 風呂に入って温まりながら今後の予定を立てる事にした。残り三回しかない機会を、今回のように終わらせる訳には行かない。こうして考えるとゲームのセーブデータみたいだが、次に夢の世界に行けば君と喧嘩をしたところから始まるはずだ。だからまずは君と仲直りをして、喜ばせてあげられるようにしたい。そのために必要な事が、いくつかあった。

 風呂から出て朝食をとる。夢の中のような立派な料理は作れないので冷凍食品だ。 

 五時に起きてしまったからこうして朝食をとれているが、普段は食べない事の方が多い気がする。会社に行かなくてはならないのだから自分でまともな料理を作って食べるなんて不可能に近い。それこそ五時ごろに起きるのを習慣にしなければならないだろう。そんなのごめんだ。俺は出来る限り寝ていたい。出来る限り夢を見ていたい。それでも働かなくては生きていけないから今日も会社へ向かった。

 

 仕事から帰ってきて初めにしたことは自分の家から出来るだけ近いイルミネーションスポットを探す事だった。幸いクリスマスシーズンという事もありそれはすぐに見つかった。しかし大変なのはここからだった。デジカメと地図を片手に車を走らせ、イルミネーションスポットまでの道を数回往復した。毎回道筋を変えて景色をデジカメで撮影した。イルミネーションスポットの周囲も何があるのかくまなく調べ、写真に収めた。

「恐ろしく入念なデートの下調べだよな」デジカメに収められた何十枚の写真を見ながらそう呟いて、俺は笑った。こうやって君と出掛ける為の準備をするのが懐かしかった。

 大きめの地図をテーブルに広げて場所ごとに写真を置いて必死に記憶していると学生時代をふと思い出した。あの頃も暗記系の科目をテストの前日に必死に憶えようとしていた。大体の場合結果は酷いもので何時も再試験をさせられた。思えば俺の生き方が変わったのは君と出会ってからだったんだろう。君と同じ大学に行くために受験勉強をして、君と一緒に生活するために就職した。これからだったんだよ。本当にこれからってところだったのに。僕はどう生きていけばいいんだろう。支えを失ったままで、俺は歩いていけるだろうか。

 

 ……ダメだな。これからデートだってのにこんな事を考えても仕方ない。たとえ未来がどれだけ暗く凄惨なものであったとしても、今の俺には関係ない。未来の俺には精々頑張ってもらうとしよう。

 未来と向き合う事を放棄して、俺は君の元へ逃げた。

 

 目を覚ます。君はまだ眠っていた。眠ってすぐに起きるという本来なら異常な感覚ももう慣れてしまった。さて、君が起きる前に答え合わせをしなくてはならない。玄関のドアに手をかけ、深呼吸をした。俺の仮説が正しければドアの向こうには昨日頭に叩き込んだ景色が広がっているはずだ。腕に力を込めるとドアは前と打って変わってすんなりと開き、見慣れた景色が広がっていた。仮説は正しかった。本当に夢の中ならなんでも出来るらしい。車の煙草の臭いは綺麗に消えていた。これで君に怒られずに済みそうだ。

 準備が整ったは良いが、どう起こそうか。眠った時から四時間程経っているようで、時刻は三時を回っていた。起きるまで待っていたら出掛けるには遅い時間になってしまうだろう。できるだけ優しく、君を揺り起こした。

「……掃除は終わったの?」不機嫌そうに君は言った。

「車を直してたんだよ」もちろん嘘だ。車を作っていたというほうがまだ正しいと思う。

「それとも、もう出掛けたくない?」

「…………行くけど」

 

 久しぶりのドライブだ。助手席には君が座っている。…まだちょっと不機嫌そうだけど。

「なぁ」

「……なに?」

「イルミネーションを見に行く他にはしたい事って無いのか?」

「……二人で居られればそれでいいけど」

 ……そういうのは何と言うか、狡いと思う。

 

 車を走らせてイルミネーションスポットについたのは四時頃だった。近くのレストランで遅めの昼食にした。君も機嫌を治してくれたようで楽しく食事をした。食べ終わる頃には外は大分暗くなっていて、公園のイルミネーションが煌めいていた。クリスマスらしいサンタクロースやトナカイ、雪だるまなどが色とりどりの電飾で描かれていた。その中でも一際目を引いたのは中央の大きなツリーだった。本物の大きな木に電飾や飾りが施されて、天辺には星形の電飾が輝いていた。一通り見て回った後、「この後はどうしたい?」と君に尋ねた。

 君は振り返って言った。

「もう十分だよ。こんな夢みたいな景色をありがとう」

 その時の笑顔はイルミネーションよりも、美しかった。

 

.消極的な自殺

 

 三度目の夢は特別な事をして過ごしたけれど、残りの二回については特に語る必要が無いほどいつも通りの日々を過ごした。豪華な日々が欲しかったわけではないし、君も俺と居られたらそれでいいと言っていたから。

 ただ、俺はその二回のうちに何とかこの夢の日々を引き延ばそうと画策していた。寝なければ終わらないという考えはどうも正しいようだったが、夢の中でも腹は減るし眠気もある。そういった感覚を無くせばいいとも考えたが、その感覚が無いという事を想像して夢の中で実現するのは不可能だった。俺に想像できる範囲でなければ実現出来ないらしい。夢の中なのに実現というのもなんともおかしな話ではあるが。俺はお金持ちにはなれても、超能力者にはなれないという事なんだろう。

 ただ、眠らないのは不可能だったが、夢を延長することに関しては成功した。

 

 その方法は謂わば、消極的な自殺とも言える行為だった。

 

 夢と現実が切り替わるときには特定のきっかけがある。そのきっかけは眠る事。夢から現実へ、現実から夢へ。そのどちらの場合も眠ることに変わりはないが、決定的に違う部分があった。それは薬を飲んで眠るか否か。『夢の種』を服用して眠れば望む夢をみられるという事。これは経験した事実だから想像することは難しくない。だから俺は夢の中で『夢の種』を飲んで眠る事にした。体験した事実ならそのまま再現できる。それを利用して、俺は夢の中で夢を見た。そしてそれは成功したのだ。最後の一回の夢の中で俺は夢の種を服用し、君の隣で眠った。正直うまく行くとは思っていなかったが目を覚ました時に君はちゃんと隣にいた。

 

 夢の中で夢を見続けるという事は現実の俺は目を覚まさないという事になる。夢の中で過ごしている間も時間は経過している。飲まず食わずで眠り続ける人間がどうなっていくのかは想像に難くない。じきに現実の俺は衰弱して死ぬ。それでも構わないと思った。

 これ以上、君が居なくなった世界で生きる事に耐えられそうになかったから。

 もう一人になんてさせない。ずっと一緒だ。

 

 

 

 いつもの様に時間は過ぎて、もう眠る時間になっていた。

 昨日のように薬を飲もうとする手を、君が止めた。

 そして、意を決した様な表情でこちらを見た。

 

 君は震える声で言った。

 

「もう、夢は終わりにしよう?」

 

.夢の終わり

 

 君が何を言っているのか理解出来なかった。

 これが夢だと気付いているのか?何故終わりにしようなんて言うんだ?君は自分に起こった事を知っているのか?聞きたい事は次から次へと湧いてくるのにどれも声にならなかった。

 

「もう十分満足したよ。十分過ぎるくらい、幸せだったよ」

「……何を言ってるんだよ。これからじゃないか」

 やめろ。やめてくれ。やっと君と離れずにいられる方法を見つけたんだ。

「私はあなたの知っている私をもとに作られたんです。だからあなたの恋人の『私』じゃない。言うなれば、模造品なんです。あなたがこのまま私と居る為に死んでしまったら、本当の私に悪いですから」

 そう、君は言った。

「待ってくれよ。君は君だろう?それ以外の何者でもないはずだ。俺はそう望んだんだから!」

「私であって、私ではないんです。どれだけあなたとの思い出を持っていても、本当の私は十月の終わりの日付が変わる頃に、死んでいるんですから」

 何も、言い返せなかった。そうだ。あの時確かに君は死んだ。今この瞬間に目の前に居る君は、俺の妄想だ。君のいない生活に耐え切れなかった俺が生み出した、君の残像。

 

「あなたと再開できて、本当に嬉しかったです。イルミネーションを見に行く前、 怒っちゃってごめんなさい。あなたと見たイルミネーションはとても綺麗でした。あなたと過ごした一日一日が本当に幸せでした。あなたの事が大好きです。だから、生きてください。死のうとなんて、しないでください……」

 そう懇願する君は、泣いていた。

 

 俺はなんて馬鹿なんだろう。自分のことばかり考えて、孤独に耐えられないからと夢に逃げて、君を泣かせて。俺は決断しなくちゃならないんだろう。君との、二度目の別れを。

 

「……君は君だよ。正確には違っているとしても俺のこの数日間を支えてくれたのは 確かに君だ。だからその堅苦しい敬語、やめてくれよ」

「ごめんなさい。何だか馴れ馴れしくしたら本当の私に怒られちゃう気がして」 

「自分がその立場だったら怒る?」

「まさか、怒れないよ。そんなの」

「それなら大丈夫だよ。君と同じなんだから」

「そうなのかな」と、君は笑った。

 

 最期に渡したいものがあるから待っていて欲しいと言って、寝室を出た。

 君はこの数日間、どんな思いで俺に笑いかけてくれていたのだろう。自分がもういない存在であることを知っていて、自分が誰かの残像だということを理解していて、それでいて俺にそれを悟られないように。本当は泣き出したかった筈なんだ。自分がもう既に死んでいるなんて知ったら平気でいられる訳がないんだ。それなのに君は俺の為に平気なふりを、知らないふりをしてくれていた。できる限り、その想いに応えてあげたい。これまでの辛さを払拭するような、幸せを与えてあげたい。

 

 だから俺は、あの時出来なかったサプライズをする事にした。

 

 寝室に戻り、君の手をとった。君はなんだか分からないといった表情で俺を見ていた。俺は君の左手の薬指に指輪をはめた。

「本当は君の誕生日に渡す予定だったんだ。プロポーズするつもりだった。結局こんなタイミングになっちゃったけど、受け取ってもらえないかな?」

 君は驚き、悩んでいるようだった。自分は本当は結婚を考えられていた相手では無い。だからこの指輪を受け取っていいかわからない。そう悩んでいるんだろう。

「君に受け取って欲しいんだ。その為の物だった」

 言ってしまった後で、後悔した。俺が出来ない筈の再開を望んだから君は生まれた。もし不幸な事故が起こらなければ君は存在しない。ならばこれは君にとって、その為の物なんかじゃない。本当ならこんなことを言ってはいけない。無責任だと嫌われて、恨まれて然るべきな言葉を俺は言ってしまった。

 それなのに、君は嗚咽を堪えながら「ありがとう。ずっと、大事にするね」と言った。

 

 ずっと大事にする事なんて不可能だと、俺も君も分かっていた。俺がこの夢から覚めてしまったら、君は消えてしまう。君という存在を確かめるように、心と体に君を刻み込むように、強く抱きしめた。

 

「夢は覚めるから夢なんだよ。だから、おかしな話だけど、もう寝よう?」君は泣きながら、そう言った。

 君との再開を果たした最初の日の夜のように君を抱きしめて眠った。あの夜と違って、君も抱きしめ返してくれていた。天国にいる君と腕の中にいる君は違う人なのかもしれないけれど、浮気だとは言わないで欲しい。

 

 いつだって俺は『君』一筋だから。

 

 

 目を覚ますと君は居なかった。コーヒーの香りもしなかった。それでも俺は腕の中に微かな温もりを感じていた。もうじき今年が終わり、来年が来る。来年からは煙草を止めて、料理の練習をしようと思う。

 

 三度目の再開を果たせた時に、君に怒られないように。

 

〈おしまい〉

 一度失ったものをもう一度失うというのは耐え難い。失うことで初めて気付く大切さを知ってしまうから。だからもう一度失うことを恐怖してしまう。そうは言っても、実際には二度失うことなんてありえないのかも知れない。 それが本当にかけがえのない程大切なものだったのなら、代用品なんて存在しないだろうから。

 

『夢のまた夢』

 

.過去から今

 

 十月の終わりと十一月の始まり。その境界線で君は死んだ。君が死ぬほんの一瞬前まで俺達は手をつないで歩いていたね。その日、街はハロウィン一色で中には仮装をしている人達もいた。「トリック・オア・トリート」なんて言われたけれど、 生憎お菓子なんて持っていなかったから何もあげることは出来なかったな。

 

 日付が変わる頃だった。一通り遊んで家に帰ろうと歩いていた時にそれは起きた。

カーブを曲がりきれなかった車が歩道の内側を抉るようにして突っ込んできた。その車は俺の真横を通り過ぎ、君を巻き込んでそのままの勢いで建物に激突した。 飲酒運転だったらしい。ハロウィンだから浮かれていたんだろうか。轢いた側も轢かれた側も、即死だった。

 こうして彼等は俺の最愛の人もろとも生き物から只の物になった。一瞬の内に空を掴む事となった俺の手には、君の温もりだけが残っていた。

 不幸な事故を運命の悪戯なんて言うことがあるけれど、俺はどうすれば良かったんだろう?運命にお菓子でもあげれば良かったんだろうか?そんな方法、何処にもありはしないっていうのに。

 

 君が居なくなって、俺の生活は激変した。それも当然だろう。君がこれまでしてくれていた事を自分でしなければならなくなったから。洗濯をして、掃除をして、飯を作って、風呂を沸かして。君は楽しそうに家事をこなしていたけれど、いざ自分でやってみるとなるとかなりの重労働だったな。この労働に見合う程のものを君に与える事が出来ていただろうかと考えると、涙が溢れた。あの夜、もうとっくに枯れてしまったと思っていた涙が。

 時間の流れっていうものはなかなか恐ろしくて、一ヶ月程経つうちに俺は君のいない生活に慣れ始めていた。そういっても、慣れていたのは家事などの生活の部分だけで精神的にはまだ心に穴が開いたような虚しさがある。あの時の事故は君と一緒に俺の心も半分くらい削り取っていったのかもしれないな、なんて考えるくらいには。

 俺は前を向きながら後ろへ歩いていた。君を忘れてしまったら、俺はもう俺ではなくなってしまうと思ったから。

 

.幸せな街

 

 あの日から何も変わらない日々を過ごしている。今日は世間でいうところのクリスマスイブだったけれど、もう俺にとってはなんの意味も無い。それでもいつもの様に仕事を終えて帰るだけというのはなんだか寂しかったから、その辺をふらついている。夕方あたりから雪が舞い始めて、明日まで振り続けるらしい。ホワイトクリスマスになるだろうと電気屋のテレビが告げていた。それにしても、電気屋に並ぶ商品はあまりクリスマスとは関係ないと思うんだけど、時期だからといって全力でそれに乗っかろうとするのは滑稽に見えるな。隣の雑貨屋ではこれでもかってくらいにクリスマス関連のものが売ってるっていうのに。その滑稽さがなんだか羨ましかった。ジングルベルやらサンタ、トナカイのぬいぐるみやらツリーやらがところ狭しと並べられている。その中でも一番推されていた小さなツリーに目が行った。20センチくらいの高さのツリーで、その隣にこれまた小さな飾りが置かれていた。なんでも、大きなツリーを飾る場所が無くても大丈夫だし、なにより小型で可愛いからという理由で売れているらしい。手が出しやすい値段だったから、ツリーと飾りを適当に見繕って買った。他にもなにか買おうかとも思ったけれど雑貨屋の商品というのは大体高い。 

 値札に書かれている額が想定より一桁多いなんてことはざらにある。多分、生産量が少なかったりするんだろう。俺はこれといって熱心な趣味がある訳でも無いからそこそこの貯金はあるつもりだけれど、年に一度のイベントの為に大金を払う気にもなれなかった。ツリーと飾りの他には何も買わずに店を出た。

 そろそろ腹が減って来たし、時間も時間だから家に帰ることにした。いくらあの寂しい部屋に帰りたくないと言っても、いつまでもふらふら歩き回っているわけにもいかない。スーパーでクリスマスらしい惣菜を買って、駅へと向かう。駅前にはいくつか露店が出ていて、そこそこ賑わっているようだった。駅前なら人通りが多いからそこで集客しようという事なんだろう。こういったことは許可は要らないんだろうか?

 そんな露店の中に面白い謳い文句を掲げている店があった。『あなたの望む夢を売ります』簡素な看板には確かにそう書かれていた。到底信じられない内容だ。明らかに胡散臭い人が売っていたのならくだらないと一蹴する所だが、そこに居たのは優しげな表情をした初老の老人だった。表情が優しかろうと信じられるものでもないけれど、話くらいは聞いてみようと思えた。なにより夢を売るというのがどういう意味なのかが気になった。どう話を切り出そうかと立ち止まっていると老人がこちらを向き、目が合った。俺はその場を動けなかった。仕事の事務的な会話以外には、人と会話をすること自体が無くなっていたから。

 老人は先と変わらない優しげな表情を浮かべ、俺に話しかけた。

 

「夢、いかがですか?」と。

 

.一人の夜

 

 家に着いたのは時計の針が十時を回る頃だった。コーヒーを淹れて一息つく。買ってきた惣菜を皿に盛りつけ、テーブルに並べると中々それらしい形になった。足りないものといえばこれまでは向かいに座って微笑んでいた人だろうか。そういえばケーキも買ってきていないな。一人きりでクリスマスのご馳走やケーキを食べて聖夜を祝うなんてあまりに孤独だから、この位で丁度良かったのかもしれない。一人で食べる惣菜はしっかりとレンジで温めたはずなのに、中は少し冷たかった。空腹を満たしながら買ってきた物を横目に見る。雑貨屋で買った小さなツリーのセットと、露店の老人から買った薬。なんでも、明晰夢を作り出す薬だという。明晰夢というのは夢であることを自覚した上である程度自分の自由に出来る夢の事を指す。脳の一部が半覚醒である状態で眠ると明晰夢を見られると言われている……らしい。老人は丁寧に説明してくれたが専門的な部分はよく分からなかった。医師の処方箋が必要ないので薬というよりは一種のサプリメントにあたり、服用による副作用は無いらしい。薬の影響に個人差があるので必ず明晰夢が見られるわけではない。いわばこれは夢の種だ。と老人は語った。そして俺はそれを買い、薬とそれに関する説明書きを受け取った。

 老人の話を鵜呑みにした訳ではない。まず間違いなく詐欺まがいの品物だろうと思う。気休め程度にはなるだろうと考えて買っただけだ。因みにお値段は五錠で千円。

 一度の服用数は一錠、つまり五回分。本当に望む夢が見られるのならば一回二百円というのは安い気がするし、たかだか一度好きな夢を見れる程度のことで二百円も払わねばならないのは高い気もする。ただ、たとえ一万円でも、本当に望む夢が見られるというなら俺は迷う事なく買っただろう。そこまでしてでも見たい夢が俺にはある。そうまでしてでももう一度逢いたい人が、俺にはいる。

 この薬は眠る前に服用するものらしいので、取り敢えずツリーを飾ることにした。 

 雑貨屋で買ったツリーのセットを机に広げて最初に思ったことは、どう飾りつけようかでも、どこに置こうかでも無く、やってしまったという事だった。何をやってしまったのかは机に広げられた飾りを見れば一目瞭然だった。天辺に飾るはずの星が無い。適当に飾りを見繕って買ってみたは良いがその中に星は無かった様だ。クリスマスツリーにおいて星は必要不可欠なものであるとは思うけれど、今更買いに行く気にはなれなかった。かと言って明日買うのでは意味がない。こういうのは雰囲気を彩るものであって、過ぎてしまった後に飾る物じゃないだろう。もっとも、そもそもの話をしてしまうのなら、この部屋の雰囲気をどれだけ彩ろうと反比例して俺の気分は沈んでゆくのだろうが。何はともあれせっかく買ったのに飾らないのは勿体ないということで、星の飾りの代わりになりそうな物を探すことにした。星の形のストラップ、星形に折った折り紙、豆電球。上手く飾れなかったり、輝きが無かったり、光り過ぎていたりと、どれもなんだかしっくり来ない。ツリーの先に飾りやすく、程良く輝くものがなかったかと思考を巡らせる。暫く考えて思いついたものは、より一層俺を悲しませるものだった。資料などを整理するのに使っていた机の引き出しの一番奥からそれを取り出す。それは黒色の小さな箱で、その中には渡すことの叶わなかった指輪が、買った時のそのままで入っていた。指輪は給料三ヶ月分だなんてよく聞くけれど、不況の影響か、もしくは少し豪華なものだったのか、俺の買った指輪は大体給料四ヶ月分の値段だった。本当は君の誕生日に渡すつもりだった。君の誕生日は十一月十一日で、知り合いからはポッキーの日だからとポッキーばかり渡されて困るとよく言っていたのを覚えている。君に悟られないようにひと月以上前に用意をして、机の奥にしまっておいた。なんて言って渡そうかとか、何処で渡そうかと考えていた事は今となっては無意味になってしまった。誕生日の十日ほど前に、君は突然この世を去ってしまったから。

 価値を失った俺の四ヶ月分をツリーの天辺に飾り、他の飾りも飾り付けるとそれはとても綺麗だった。窓際にそれを置き、しばらくの間眺めていた。外には雪が積もり始めていた。

 

 眠る前に『夢の種』に添えられていた説明書きに目を通す。色々と書かれていたが、改めて要約するとそれは大体こういう事だった。

 

・一度の服用量は一錠。

・必ず明晰夢を見られるとは限らない。

・夢と現実の区別は付けられるようにしておくこと。

・大抵の場合、夢から覚めるのには特有のきっかけがある。

 

 夢と現実の区別はつくだろう。俺の望む世界と俺の生きている世界では、決定的な違いがあるから。服用量も間違えることはない。『きっかけ』についてはよくわからないが、そもそも自分でどうこうできるものでは無さそうだ。コーヒーを淹れながら、ひとつひとつ確認をしていく。それから薬をコーヒーと共に胃へと流し込み、寝室へ向かった。期待しないように気を付けても自由にコントロール出来るものでは無い。サンタを待つ子供の様な気分を押し殺しながら、布団に入って目を閉じた。

 

 

 目を覚ましてすぐにした事は周囲を確認することだった。俺の視界には昨日となんら変わらない部屋が映っていた。当たり前だろう。そんな夢みたいな話があるはずないじゃないか。ただのビタミン剤か何かを高額で売りつけられたのだ。この年になってあんなくだらない詐欺に引っかかったと言うのだから笑えてくる。

 ……聖夜の日くらい夢を見させてくれたっていいじゃないか。「ちくしょう」そう呟いて布団から抜け出そうとした時、異変に気付いた。その異変はとても小さなものだった、ただの気のせいだろうとも思った。でも確かにコーヒーの香りがした。昨日と変わらず少しだけ開いたドアからリビングを覗きこむ。テーブルの向こう側、最近ではめっきり使われなくなったキッチンに人が立っていた。かつて見た景色と、それは一致する。

 

 確かに、あの時のまま、君が居た。

 

.二人の夢

 

 君と初めて出会ったのは大学のオープンキャンパスの日だったね。俺が入学しようとした大学は駅から離れたところにあって、大学の案内のパンフレットを持っていたのにも関わらず、俺は迷ってしまったんだよ。同じ様に迷って、駅の地図看板の前で唸っていた女の子。それが君だった。君の鞄から俺の持っているものと同じパンフレットがはみ出していたから、俺と君の境遇が同じだという事はすぐにわかった。あの時俺はパンフレットを落としてしまって、それがきっかけで君が話しかけてきたわけだけど、実はあれはわざとだったんだよ。一人でたどり着ける気がしなかったんだ。こちらから話し掛けるとナンパとかキャッチセールスだと思われるかもしれないなんて思って、自分の荷物をぶちまけることにしたんだ。君はすぐに振り返って荷物を拾ってくれた。それで少し安心して君に大学の場所について切り出すことが出来たんだよ。自分でも笑っちゃうくらい怯えてた。ほら、知らない場所に行くと不安になったりするだろう?ああいう感覚だよ。

 特に連絡先を交換するみたいな『次』を想定するやりとりはしなかった。あれは多分、両方とも受かってもう一度会おうという暗黙の了解ってやつだったのかな。結果として、俺達は大学生としてもう一度出会うことになった。それからはまぁ、色々あった。そしてあの日を境に、俺達は離れ離れになった。

 

 君が目の前に居る。そんな当たり前で、でも今となってはありえないはずの状況に、俺は置かれている。色々と話したい事はあるはずだった。例えば、君が居なくなってからの生活とか、これまでの思い出とか。君に出来なかったサプライズの話とか。それなのに、頭は嬉しさと混乱でまともに働かなかった。言葉を紡ごうとしても、声にならなかった。君はおかしな物を見るような顔で「どうしたの?」と聞いた。聞き覚えのある、繊細でそれでいて良く通る声だった。

「なんでもないよ。ただ、とても良い夢を見たんだ」と半泣きで返した。

 君との挨拶を交わしてから始めにした事は指輪の回収だった。幸い寝る前にカーテンを閉めたので君はツリーの事を気付いていないようだった。指輪をこっそりと机の奥にしまい、君にツリーを見せた。案の定、星が無いことを追求されてしまったので、買い忘れたのだと正直に言うと「しっかりしてるようで抜けてるよね」と笑われた。それから思い出話をたくさんした。どうやら夢の中の君は『生きていた時の君』のようで、当然ながら自分が死んだ人間だなんてこれっぽっちも思っていないようだった。この夢は俺が作り出したものだから、俺の中にいる君は生きている時のものだからなのだろう。突然思い出話をし始めるものだから、君は初めのうちは戸惑っているようだった。じきにそんな事は気にならなくなったようで、思い出話はとても盛り上がった。もう年末も近いという事で二人で少しずつこの一年を振り返っていった。無計画に突然花見に行ったこと。夏だからという理由だけで週末の度にあてもなく色々な海を巡ったこと。月見をした時の満月がとても美しかったこと。どれも他愛も無い話ばかりだったけど、俺にとっては特別な意味があった。他にも両の指では数え切れない程の話をしたけれど、ハロウィンの話については触れなかった。その話をすればこの夢は終わってしまう様な気がして。

 悲しいことに楽しい時間というのは加速度的に過ぎ去ってしまう。一年を振り返り終える頃にはもう夜中になっていた。ベッドに自分以外の温もりを感じるのは久々で、その感覚が懐かしかった。その感覚を確かめるように君を抱きしめて眠った。

「動けないから離して欲しいな」と少し照れた顔で君は言ったけれど、その要望を聞き入れる余裕は俺には無かった。

 

 本当に幸せだった。本当に幸せな、夢だった。

 

 

「ねぇ、ちょっと、聞いてます?」

 

 突然、後ろから声が響いた。正確には突然では無いのだろうけれど。

 

「あ、あぁ、悪い。ちょっと考え事をしてた」

 

「運転しながら考え事はやめてくださいよ。危ないんだから」

 

「返す言葉も無い。悪かった。気を付ける。それで、なんの話だったか……」

 

「お腹が減りませんかって話ですよ」

 

 腕時計に目をやると針は二時に差し掛かっていた。確かにそう言われると空腹を自覚してくる。

 

「琴葉は何か食べたいものはあるか?」

 

「うーん、お腹は空いてますけど今これが食べたいって言う様なものはないですね。この道沿いにハンバーガーのお店ありませんでしたっけ。アキくんが良ければですけど」

 

「そうだな。そこにしよう。安いし」

 

 暫く車を走らせてハンバーガーショップに入った。お手頃な値段で食べられる事で長らく人気なチェーン店だ。レジ上に期間限定のものを中心にしたメニューが掲示されていた。ちなみに僕は大体の場合てりやきバーガーを注文する。食べ辛いけど。

 

「琴葉は何にする?」

 

「あー、うーん……」

 

「迷ってるなら期間限定とかどうだ?」

 

「迷うっていうか……」

 

「どうしたんだ?」

 

「……見えない」

 

 その返答を聞いて、僕は自分の行動の浅さを悔いた。あまりに琴葉が普段通りだったからというのは言い訳だろう。僕は琴葉の優しさに甘えてしまったのだ。

 

「ごめんな。今メニューを取ってくる」

 

 早口でそう伝えると、琴葉はどこか気恥ずかしそうに「ありがとう」と返した。

 

 食事の合間、僕らはほとんど言葉を交わさなかった。元々食事の最中はお互いあまり喋らない方で、これまでその沈黙が苦に感じられるような事は無かった。しかし、今回に限っては何かを話そうにも話せなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

 

「この後はそっちの実家の方に顔を出すんだよな」

 

「そうだね。検査入院が終わったら報告しなきゃ」

 

 琴葉は今現在、大学に通う為に実家を出て一人暮らしをしている。実家との距離はそこまで離れているわけではないが、それでも電車で一時間程はかかるらしい。僕の住んでいるアパートから琴葉の住んでいるアパートへは電車で大体三十分程であるため、実家に戻るよりも僕のところに来る方が楽らしい。そのため何かあると琴葉は僕のところに来るか僕を呼ぶことが多く、あまり実家には顔を出していないようだ。特別親子仲が悪いなどということではないだろうと思う。

 

「手土産とかは持っていったほうがいいと思うか?」

 

「別に要らないんじゃないかな」

 

「んー、僕はちょっと顔を出すくらいだし、琴葉がそう言うならいいのかな」

 

「いいのです。そろそろ行こうか」

 

 そう言うと琴葉は自分の食べた分の料金を僕に手渡して立ち上がった。律儀なやつだと思う。琴葉は現在大学生で僕は社会人である以上、食事くらい僕が全額払っても全く問題ないと思うのだが。就職してすぐ、そのことを伝えたが拒否されてしまった。

 

「別にこのくらいなら払うけどな」

 

 そう呟きながら会計を済ませて、先に車まで戻った琴葉の後を追った。

 

 琴葉を彼女の実家に送って行くまで、他愛のない話を絞り出しながら、限りある時間の中で琴葉にどんなものを見せてやれるだろうかと考えていた。単純な考えで言えば、とにかく綺麗な景色などが妥当だろう。綺麗と一言で言っても、それは自然の雄大さであったり、イルミネーションの輝きであったり、特定の思い出の場所であったりする。残されている時間が正確にわからない以上、思い付いたところを手当たり次第にというのは得策では無い気がする。ある程度吟味した上で行動を起こした方が良さそうだ。

 

 

 

 暫くして琴葉の実家に着いた。琴葉はそこまで頻繁には実家の方に戻ってはいない。積もる話もあるだろうと思い、家族水入らずで話してもらう事にした。勿論病気のこともある。「近場の喫茶店で時間を潰すから三時間ほどしたら戻る」とだけ伝えて琴葉を送り出し、両親には軽い挨拶をして琴葉の実家を後にした。十分ほど歩いた所にある喫茶店に入り、ブレンドコーヒーを注文した。初めて入る喫茶店では取り敢えずブレンドコーヒーを注文するといいといつかのテレビ番組で言っていた。その店の味の個性が最も出るのがブレンドコーヒーだからだそうだ。店側が厳選したコーヒー豆を混ぜ合わせて抽出したコーヒーをブレンドコーヒーと呼称しているのであればなるほどその通りではあるだろう。しかし生憎僕は自分の口に合うコーヒーか否かを選別できるほどその道に通じてはいなかった。少しして僕の手元に届けられたコーヒーはやはりいつも通り苦味の強い飲み物だった。

 

 それから数時間、スマートフォンで綺麗な景色や風景を検索したりして時間を潰した。実家の方に戻ると、丁度玄関口で琴葉が靴を履いているところだった。どうやら話は終わったようだ。靴を履き終えた琴葉がこちらに手を降りながら「今度は私を家まで送って下さい」と言った。

 

「いや、今日は泊まって行ったほうがいいんじゃないのか?久しぶりの実家なんだろう?」

 

「明日も普通に大学があって、課題の提出日なんだよ。たとえ私に何が起こっても課題の締切は変わらないの」

 

 いや、そうは言っても事の顛末を聞いた両親としては気が気でないだろう。そう思って琴葉の母親に目をやると「ちょっと良いかしら」と僕のことを呼んだ。琴葉は「私は先に車で待っているから」と言って、鍵を持っていってしまった。琴葉なりに気を利かせたのだろう。

 

「帰らせてしまって大丈夫なんですか?親としては少しでも側にいてほしいのではないかと思うんですが」

 

「あの子はこれまで通りの生活をしたいらしいの。当然そのうちそんな事は言っていられなくなるでしょうけど、その限界が来るまでは今まで通りがいいと言われたわ」

 

「……確かに急激に生活の何もかもが変わるのは怖いでしょうね」

 

「あの子は強い子なの。何でも諦めずに頑張ろうとする。これまでずっとそうやってあの子は壁を乗り越えてきたわ。だから私は琴葉のやりたい様にやらせてあげるべきなんだと思うの。親としてはそばにいてほしいのは当然だけどね」

 

 琴葉のお母さんは一呼吸置いて、もういちど「だけどね」と言って、言葉を続けた。

 

「あの子の強さが怖くなるの。あの子は強くても普通の人間よ。治療法もわからない未知の病気に罹って、それを普通の強い人間がどうこう出来るはずがないでしょう?あの子は全部を抱え込んで、それでも普通に笑っている。だからこそ私達もある程度普段道理に振る舞えるけれど、それがとても怖くもあるの。あの子が限界を迎える前に、吐き出させてあげてちょうだい。それは多分、あの時あの子の弱さを一身に受けた、貴方にしか出来ないことだから。私もあの子自身も、あの子の強さに慣れすぎているのよ」

 

 そう言って、琴葉のお母さんは悲しそうに笑った。