・肘鉄を次々に喰らわす次郎(てんまくん)が面白すぎた!
・肘鉄を喰らい続け土下座までしちゃう
唐土の邯鄲の里の妖精さんたちが不憫で面白すぎた!
邯鄲ブランドを壊させまいと奮闘する老国司さんが最後の最後まで肘鉄を次郎から喰らい続けているのが素敵?!だった!
肘鉄喰らわして意固地なまでに『yes』と返事しない次郎と
土下座までしちゃう邯鄲の里の妖精たち。
コメディ風な作風になっていて大変に面白かったです。
____以下、ネタバレ感想含む、徒然感想です。_______
文庫本で邯鄲を読み、でも、ラストが解釈できない。
そんな状態での観劇でした。
んーーーーーー。
先代から使えている次郎の秘書さんの
佇まいの騒々しさが『近代的』な社会の様子だとすると
近代の喧騒に耳を塞ぎ肘鉄喰らわしたり
眠り続けたりする次郎さんは『前時代的』よりな傾向を
好むのだろうと思ってて、
でもそれだと庭の花々が生き返るラストに繋がらない。
邯鄲の、ラストの解釈がわからない。
主人公の次郎が前時代的なわけが無いのです。
前時代的な生き方を認めているなら
夢のなかで枕の妖精が礼節だったり
会話の流れで担わせてくる
役割(ロール)を無下に流したりはしない。
新婚旅行の喩えの場面とか、
生まれてきた赤ん坊が
自分に似てるという会話で気持ちが沈むとか、
会話が一筋縄でいかなすぎるんだよー次郎ー!!!
(そこがつぼ(笑))
兎に角、文庫本でラストの解釈にたどり着けなかった。
しかし昨日、生の舞台にふれ
ちょっと今までの活字では思いよらなかった感じ方で
ラストを見ることになりました。
近代能楽集の
邯鄲は
狭義の定義が広義になってゆく過程で
それにより幸せに生きてゆけるようになる物語では!
近代がもたらした自由思想で『生きている』ことをどう定義できるのか、の、チャレンジ物語なのではと感じました。
次郎からしたら前時代の定義は狭義で
『生きる』には『不自由』だった。
笑いながら笑えていたら純白ホワイト(超happy)だし、
笑いながら泣く、泣きながら笑う、は
純白とは云わないけど、ブラック(Death)ではなく
むしろ生きているといえるのではと。
前時代の『生きている』ことの定義を
近代になり入ってきた自由思想により
近代の感覚をもってが
点検再構築した結果、
菊の家の死んだ庭は
前時代にはない新鮮さをもった様に生まれ変わった。
だからラストは
死んだようだった庭の花々が一斉に開花した。
次郎のおよっている様を一番近くで見ていた菊は
開化の最も側に居たわけで、
恩恵を最初に受ける人物としている。
つまり菊は私達観客のこと、なのかなあとかも、
あわせて思いました。
あーーー近代能楽集の『邯鄲』凄い作品です。
あーーー自分の性格、拗らせそうです←まずいヤツ(笑)