今日は次男の療育相談でした🍀
話の流れで
・長男がADHDと診断を受けていること
・学校へ行っていないこと
を伝えたところ、療育の先生が「次男君よりも長男君の方が大変なんじゃない?」と。
そこから長男の様子を色々話したところ...
・ADHDで不登校になる子は中学生が多い。
小学生は少ないよ。
・LD(学習障害)もあるのかも。
(長男は「国語は絶対やりたくない!」というほど、読み書きが嫌い)
・だとしたら、
どの教科でも読み書きは必須だから、
長男君にとって学校は
拷問を受けさせられてるようなもんだよ。
・iPadの読み上げ機能や音声入力、
フリップ機能を使う事もできるよ。
ただ、出来る先生と
出来ない先生の差が激しい。
・そういった機能を使うことに対して、
「ずるい」
「“自分で読む” “自分で書く” 事が出来ないと、社会に出れない」とか言う意味わかんないこと言う先生もいる。
・大切なのは“自分の特性を理解して、
自分で対処できるようになること。
そして、困った時に
周りに助けを求められるようになること。”
・それが出来るようになれば、大人になり、
働き始めても困ることが少なくなる。
との事でした🍀
そんな対応方法があるなんて思いもしなかったし、その対応が先生個人個人の判断に委ねられているのは由々しき問題だなと🤔
統一出来ないものなのだろうか🤔?
そして、
「今は何でも診断名を付けられてしまうよね」
「個性だから、気にしないでいいんじゃない」
と言う声も聞きます。
確かにそうだなと思いますし、その意見の方達を否定する気は一切ありません😌
だけど、私は医師の診断を仰ぎたい。
どういう特性か理解し、どういう対応をしたらその子が苦しまずに済むのか知りたいから。
それは、私のエゴなのかもしれないけど...💦
でも、その特性と一生付き合っていく子どもにとっても、自分の特性を知るということは悪いことではないんじゃないのかなと思うのです
。
さて、ここから少し重い話になります。
自死についての話も入ってきますので、ご注意くださいm(_ _)m
私自身物心ついた時から、ずっと生きづらさを感じていました。
友だちがいないわけでもない。
虐められていた訳でもない。
だけど、小学生の頃から自己肯定感が低く、自分が大嫌いだった私は、専門学生の頃「もう生きているのも疲れたな。」「もういいかな。」と思い、生きることを辞めようとしていた時期がありました。
誰にも相談はしませんでした。
態度にも表しませんでした。
何かに悩んでいたわけではないので、相談して解決するような事ではないと思っていたから。
だから、あのまま亡くなっていたら、どれほどの人が「あの時気付いてあげられれば...」と後悔することになっていたのでしょう。
あの時、生き続けることを選択したのは亡くなった祖父が夢に出てきたから。
暗いトンネルを歩いていると、祖父が立っており物凄い剣幕で「こっちに来るな!!!」と怒鳴ったのです。
すぐに目が覚めハッとしました。
これは「死ぬな!まだ生きろ!」という祖父の喝なのだと。
そして、「どんなに辛くても、命ある限り生き続けるしかないんだ。遅かれ早かれいずれは死ぬのだから、その時を待とう。」と腹を括りました。
あの時、生きるのを辞めなくて本当に良かったと今は思います。
学生の頃より、今の方がよっぽど楽しい😌
祖父に感謝です🙏
そんな経験があるから、子ども達にはそんな生きづらさを抱えて生きて欲しくないと切に願うのです。
特性を理解することが生きやすさに繋がるのであれば、診断名を付けるのも悪くないんじゃない?と思います😊
私はね🍀
