西郷隆盛は隆盛ではなかった! 本物はこんな顔 | ちろらねのブログ

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Hi everybody

 

こんにちは、みなさん。

 

Seek  the truth.

 

真理の探究

 

 

今回のテーマ、  実は

 

  

 

「隆盛」はお父さんの名前!

 

明治2年に「正三位の叙位に伴い、明治政府に


『西郷隆盛』と届け出て『位記』が発行された」、しかし

 

 

明治政府が西郷に位階を下賜するとき、西郷は東北へ出兵中。

 

当時電話等の通信手段がなく、当時の明治政府の役人が

 

西郷の友人の吉井ところに

 

西郷の本名の下の名前(諱イミナ・実名をたずねに来た。

 

 

吉井は西郷の子供の頃からの友人であったが、

 

その頃使っていたのは幼名としての通称名「吉之助」、

 

 

本名・実名をなかなか思い出せなかったが、

 

「うーん、たしか〜、そうだ 隆盛だったはず」と

 

西郷(本名:隆永)の父親の名前を届けてしまったのだ。

 

東京に戻ってきた西郷どん(隆永)がそのことを聞いて

 

吉井に「あれは父の名でごわんか。」

 

「わっはっはっ良か良か〜。

 

天子様から隆盛ち呼んでいただいたとじゃ。

 

おいは今日から隆盛じゃ。父上と同じじゃ〜」と

 

笑って見過ごし、

 

以後「隆盛」として通した。

 

西郷隆盛の下の名前は「隆永」だった。

 

政府に一度届け出た名前を変更するのは原則としてできなかった

 

ようです。

 

 

 

今日のmusic Big Big World | Emilia | Lyrics [Kara + Vietsub HD]

 

 

 

 

 

西郷夫人のいと夫人が

 

「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかった」と

 

言い残した上野公園の銅像

西郷隆盛の実像は?

 

どんな人?

 

 

 

 

 

 

御雇外国人キヨソネの描いた西郷の肖像画

キヨソネは 西郷に会ったことがなく、死後に

 

似ているという近親者の写真をもとに組み合わせて書いたとされます。

 

鼻から上が弟、下が従兄弟の大山巌

 

 

 

 

 

平成15年に大分県日田市で発見された肖像画

平野五岳の描いた肖像画、明治九年鹿児島で西郷と面会した10年後に描いたと言われる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作者不詳、枕崎市で見つかった西郷隆盛と見られる肖像画

 

子孫の証言

・右瞼の上にこぶがある。

・右眉や生え際にキセルを当てるクセがあり右眉が焦げて薄くなり禿げたあとがある。

・右の額の生え際にも禿げたあとがある。

 

実像にほぼ近い肖像画。

 

 

 

鹿児島市の黎明館に展示されている、

 

この真像(実写の肖像画)を描いたのは、

 

瀬尾鶴汀西郷隆盛に絵を教えていた人で島津家にも関わりのある武士

 

実物に相当近い、少しカッコ良く立派にデフォルメ?

 

鋭い眼光と眼下の頬骨の張り出し

 

下顎の大きなコブのような突き出し具合を

 

覚えておいてください。後出の写真と比較します。

 

 

西郷は、時の藩主島津久光とそりが合わず批判してしまい、

 

2度の島流しにあっており、本土から遠く離れた島での

 

苦しい生活を強いられています。

 

座敷牢で生活したり、簡素な住居で貧しい暮らしをしていた人間が

 

ぽっちゃり体型、というのはなかなか考えられません。

 

おそらく、若かりしころの西郷隆盛は体格はよかったものの、

 

現在もたれているような、ふくよかなイメージとは程遠い体型

 

若い頃は痩せてゴツゴツした体型だったと想像できます。

 

 

 

沖永良部島の幽閉時の西郷像、かなり痩せていた

 

 

西郷の背丈、容姿:

 

西郷隆盛は,遺された軍服などから

 

身長5尺9寸(約. 178㎝),体重29貫(約110kg)

 

だったと推定されている。

 

当時,日本人男性の平均は155cm前後と言われており、

 

まさに当時としては「巨漢」だった。

 

「巨漢」が まずは最大のキーワード、

 

当時は これだけの巨漢はそうそういない。

 

西郷菊次郎 (隆盛の息子)

「今も忘れません。父の眼は全体に大きい方で、それがまた黒眼勝ちで、それこそ怖い眼でした。眼だけは確かに他人と異なってました。」

 

 

 

 

 

島津公を取り巻く十二人の薩摩武士、右端に大男の武士:西郷隆盛 

 

 

オランダ出身の米国人宣教師フルベッキの集合写真

 

写真中央のフルベッキ親子のすぐ後ろに陣取る大物、

 

最上列から2列目、頭ひとつ背の高い

 

ひときわでかいガタイの良い大男が西郷隆盛

 

フルベッキ集合写真と13人薩摩藩士の写真を比較すると

同じ人物。  かなり痩せ気味で、ほっぺたがこけているが、

 

頬骨の張り具合、下顎の特徴的な膨らみ具合、

 

眼光はよく見えないが鋭そうな感じは窺える。

 

斜に構えているのは右瞼の上のコブと

 

生え際のハゲを隠すためか?

この巨漢の男が

 
西郷隆盛で間違いなさそうです。
 
 
 

上記のフルベッキの集合写真には維新の英雄志士が

 

集結しています。この中には

 

坂本龍馬や岩倉具視、伊藤博文

 

ら明治の偉人が大集結する!

 

龍馬が 写真のどこにいるかわかりますか? 

 

正解・詳細は次回に。

 

フルベッキが維新の策略の集会を開き、

 

その時の記念にとったものと思われます。

 

フルベッキは佐賀藩の藩校致遠館などで伊藤博文や大隈重信、副島種臣らに

教鞭をとっている。

フルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。

それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を

派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。

1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。

 

 

 

実は・・・・・・

 

 

上のフルベッキ・維新の志士たちの集合写真

 

この写真には明治政府にとって、皇室の尊厳を脅かす

 

(現皇室や現政権、歴史学者にとっても、時の権力が、

 

絶対に全力で握り潰さねばならない)

 

極めて不都合な真実が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

次回は、

 

認めたくなくても

 

事実は事実として受け入れなければなりません。

 

似非歴史学者が全力否定、あるいは完全無視しなければならない

 

禁断の「現天皇家の暗部」に抵触することになる「真実」 と

 

明治維新とはフリーメーソン支配革命だったことを

 

予定しています。

 

悪事を隠し続け、多くの人々を犠牲にし続けることはできなくなりました。

 

維新の志士の多くはフリーメーソンの傘下に入ることを知らずに

 

ただ欧米の助力を仰いだ近代化としか思っていませんでしがたが・・・

 

 

 

 

 

余談:

 

米大統領選挙不正も含め色々な操作の拠点

 

そして主な資金源が

 

バチカンだと言われています。邪悪な蛇の巣くつ。

 

これを見て真実を見抜けない方は脳神経(松果体)が麻痺・硬直・化石化

 

 

 

そして 

 

バチカンは世界最大の 人身売買組織

 

また マザーテレサは バチカンへ親のない子供を

 

売り渡してきた悪魔女

 

 

 

 

 

SEEK THE FACTS!   事実を追及せよ!

 

 

 

 

 

 

ではお元気で!

 

Take care、Bye!