能における感情表現と呼吸 - シクソトロピー呼吸筋ストレッチ 4 | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

古のこの国の人たちは、おしなべて、なんと教養の高かったことか。

そんなことをよく思う。

 

薪能のイベントで、初めて能というものに触れた。

今から二十数年前、僕がまだ30代の頃だっただろうか。

能そのものというよりも、時折、風を感じながら、次第に日が傾き、独特の夕陽の光の色、やがて篝火がたかれ、闇に浮かぶ美しい装束、その雰囲気に感動した。

 

その後、チェロの関係で知り合った方が金剛流の仕舞をお稽古なさっておられて、この方に誘われて、能楽堂にも何回か、足を運ぶことになった。

 

劇団四季には劇団四季特有の、宝塚歌劇には宝塚歌劇特有の「客層」「雰囲気」というものが確かに存在するように思える。

そして能の舞台には、また違った雰囲気をまとった人々が集う。

「観る」というよりも「嗜む」という言葉がしっくりくる感じだ。

だが、敷居の高さはまったく感じられない。

 

母の介護がスタートして以降は、時間的な余裕がなくなり、能の舞台へ足を運ぶこともなくなってしまっていたが、母を見送ってしばらくした頃、高校時代の大切な友人の一人が声をかけてくれ、喜多流の先生に謡のお稽古をつけていただく機会を得た。

 

実際にはその後、僕はまもなく転職して、時間帯も休日も固定ではない不規則な仕事に就いてしまったために、お稽古に参加できない日々が続いてしまうことになったのだけれど。

 

昨年の12月、この友人に誘っていただき、久しぶりに能楽堂を訪れた。

 

能の演目には、いくつかの決まった「型」があり、そのうちのひとつが「二ツ切の能」、「複式夢幻能」というものらしい。

これは世阿弥が確立した「型」なのだ。

 

最初に旅の僧が登場し、見知らぬ者に出会う。

そこは源氏物語や伊勢物語、有名な和歌などに因んだ土地だ。

やがてその人物は旅僧に、その土地ゆかりの出来事や人物について語り、最後に「私こそがその人物だ」と告げて姿を消す。

ここで狂言に切り替わり、その土地の人間が、語り継がれている逸話を旅僧に語る。

やがて夜になり、旅僧の夢の中に、あるいは供養をしている旅僧の前に、その霊が現れる。

霊は昔の出来事と、今なお続く苦悩を舞う。

やがて夜が明け、旅僧が目覚めるとともに、霊は姿を消す。

 

友人が声をかけてくれた能の演目は「阿漕(あこぎ)」だった。

最近はこのような言葉はあまり使わないかもしれない。

「あこぎ」という言葉は「強欲であくどい、図々しい」様子を意味し、「あの人はあこぎな人だ」などというふうに使うのだが、「内密にしていたことも度重なれば露見する」あるいは「飽くことを知らず貪ること」というのがその本来の意味らしい。

 

阿漕浦は伊勢神宮に奉げる魚介を獲る神聖な漁場で、禁漁区とされていた。

ここで阿漕という男が密漁を繰り返し、やがて捕らえられて海に沈められる。

能「阿漕」で旅僧が出会うのが、この阿漕の霊だというわけだ。

 

後半の阿漕の「今なお続く苦悩」は、解説の文章では、このように語られている。

 

法華経の声にひかれて現れたのは、阿漕の幽霊でした。阿漕は、すべては自業自得だと号泣はしても出家するつもりなどないと言って網を曳きはじめます。読経の声が耳には聞こえていても心に届いていないのです。網を引き揚げると波は業火となってその身を焦がします。

これは丑三つ時を過ぎた真夜中の夢。今、僧の目の前で、阿漕は罪業の数々とともに燃え盛る火車に乗せられ、地獄へ運ばれて責め苛まれています。それでも「度重なる」ことの代名詞となった名のままに繰り返し網を曳く阿漕。ところが、現世では思いどおりに獲れていた魚たちは悪魚毒蛇となって襲いかかり、極寒の地獄の氷が骨を砕いたかと思うと、灼熱の地獄の炎に包まれて息つく間もありません。「度重なる」責め苦から助けて欲しいと懇願して、阿漕の姿は波の底に消えます。

- 大槻能楽堂自主公演パンフレット『おもて』令和四年度 秋の巻

 

これだけを読むと、どれほどアクロバティックでスペクタクルな舞台が展開されるのかと想像がふくらむのだが…実際にはあくまでも「静」の雰囲気をまといながら、物語は終結する。

謡で

 

思ふも恨めし古の娑婆の名を得し。阿漕が此の浦に。猶執心の。心ひく網の手馴れし鱗今は却って。悪魚毒蛇となって。紅蓮大紅蓮の氷に。身を痛め。骨を砕けば叫ぶ息は。焦熱大焦熱の。炎煙。雲霧。立居に隙も無き。冥途の責も度重なる阿漕が浦の罪科を助け給えや旅人よ助け給えや旅人とて。又波に入りにけり又波の底に入りにけり

 

とのみ、語られるだけだ。

 

宝塚歌劇のファンの方々の間では、たまに「顔芸」という言葉が使われる。

感情表現を顔の表情でダイレクトに現すタイプのスターさんを指すのだが、これはおそらくは「誉め言葉」ではない。

むしろ揶揄するニュアンスで用いられることが多いような気がする。

 

能の舞台では、シテは面をつけておられる。

直接的にその表情を窺うことはできず、ちょっとした角度の変化だけがその感情を現す。

 

謡の言葉も難しい。

耳に届く「音」を頭の中で「漢字」に変換して、咀嚼することで、その意味がはじめて心にまで届く。

だからこそなのだ。

冒頭の

「古のこの国の人たちは、おしなべて、なんと教養の高かったことか」ということに、その思いが行き着くのは。

 

それにしてもなぜなのだろう。

何が違うのだろう。

難しい謡の言葉。面を通して語られる抑えた感情表現。

なのにしっかりと心に届く舞台もあれば、「あれ?これで終わっちゃったの?」と思ってしまう舞台もある。

それは自分自身のその時々の集中力だけの問題ではないような気がする。

 

ここ何回かにわけて僕が取り上げた「シクソトロピー呼吸筋ストレッチ」を提唱される本間生夫先生が、こんな記事を書いておられる。

「能の演者は呼吸を意のままに操り心の揺らぎを現す」。

 

「隅田川」という演目で、シテ方(主人公)の呼吸と脳の活動の変化を調べたのだという。

結果、子を失って嘆き悲しむ母親の役を演じている間、シテ方の表情にはまったく変化が見られなかったが、呼吸だけが激しく乱れ、同時に脳の中では感情が生み出される情動中枢が強く活動していることがわかった。

能のシテ方は呼吸を変化させながら、脳の深いところから生まれる情動を表現していたのだ。

ただ、興味深いのは、すべてのシテ方に同じ変化がみられたわけではなく、これは高度な技をもつ名人だけが成すことのできる、呼吸による卓越した表現法である、というのだ。

 

この記事を読んで、腑に落ちた。

きっとそういうことなのだろう。

 

そして呼吸で心の揺らぎを表現することができるのなら、それとは逆に呼吸で心の揺らぎをおさえることもできる、ということなのだと思う。

 

僕は思った。

次の機会には、この「呼吸」にも着目して、能を拝見させていただくことにしよう。

もちろん、能楽堂の舞台では、演者の呼吸までをも感じることは難しいけれども。

そして次回の謡のお稽古では、自分自身の「呼吸」を意識して、臨むことにしよう。

すごく楽しみだ。