光と影の狭間で-劇団四季「オペラ座の怪人」 | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

劇団四季の舞台を、いや、劇団四季に限らず、プロの舞台というものを僕が初めて観ることになった、その作品こそが「オペラ座の怪人」だった。

だからその後、いろんな舞台を訪れ、大好きな作品はいろいろあるのだけれど、「オペラ座の怪人」だけは別格、今も僕にとっては特別な作品であり続けているのだ。

 

下敷きとなったガストン・ルルーの作品はたしか中学生の頃に読んだように記憶している。

 

舞台ではいくつかの台詞でさらっと説明されるだけだが、ルルーの小説によれば、ヒロインのクリスティーヌはたしか幼い頃に母と死に別れ、その後は父に育てられるのだ。

父親は天才的なヴァイオリニストで、地方地方で祭りなどがあったりするとその地へ赴いて腕前を披露し、日銭を稼いでいたんじゃなかったっけ。

父親のヴァイオリンにあわせて少女が歌う。

その演奏も歌声も評判を呼んだ。

でも、貧しい暮らしだった。

 

本来であれば貴族のラウルと、貧しいクリスティーヌに接点など生まれるわけはなかったのだが、ある海辺の村で、避暑に訪れていた少年ラウルと少女クリスティーヌは出会い、短い夏の日々を過ごすのだ。

 

やがて父が亡くなる。

亡くなる間際、父親は娘とひとつの約束を交わすのだ。

「私が亡くなったら、お前のもとに音楽の天使を遣わそう。その音楽の天使が、きっとお前を導いてくれる。」

 

父を失い、ひとりぼっちになったクリスティーヌはオペラ座のコーラスガールの一員となる。

 

ひとりの男がいる。

生まれつき、崩れた醜い顔を持つその男は、見世物小屋に飼われていた。

だが、明晰な頭脳と音楽の才能を持つ彼は、ある日、そこから逃亡し、オペラ座の地下に隠れ潜む。

 

そんなふたりが出会う。

最初は面白半分に少女に歌うことを教え、やがて開花していく彼女の才能に、いつの間にか男は恋心を覚えるようになったのだろうか。

あるいは偶然見かけた少女に恋をし、そんな彼女に歌うことを教えたいと思うようになったのか。

いや、それは恋心なんてものではなく、むしろ所有欲に近い感覚であったのかもしれない。

 

クリスティーヌは、姿を現さず、声だけで自分に音楽を指導するその男こそ、父親が約束していた「音楽の天使」に違いない、と考える。

 

思いがけず降板した歌姫の代役にクリスティーヌが抜擢され、成功をおさめたのは、男(ファントム)が想定していた以上に早いタイミングだったのかもしれない。

そしてその「成功の夜」にクリスティーヌとラウルが再会してしまうことも計算外の出来事だったのだろう。

 

この時代、身分の差、というものは確実にあったに違いない。

クリスティーヌと再会したラウルは、最初からこの「身分の差」を越えて、彼女に対し愛を感じたのだろうか。その自覚と覚悟はあったのだろうか。

 

毎回、異なるキャストの組み合わせでこの舞台を観るたびに、僕はいろんなことを考える。

 

本当であれば劇団四季の「オペラ座の怪人」大阪公演、もっと何度も観劇に訪れる予定だったのだけれど、タイミング悪くコロナによる休演と重なったりして、今回が4回目の観劇となった。

でも今回の大阪公演では、コロナによる急な休演を除いて、幸運が続いている。

まずは初日公演のチケットが抽選で当選した。

そして3回連続で、違う俳優さんの演じるファントムとクリスティーヌ、そしてラウルに会うことができた。

 

演じる役者さんによって、その役に対する解釈が微妙に異なり、人物像に対する印象も変わる。

例えばクリスティーヌだと、ファントムに対する尊敬の気持ちが愛情や憧れの気持ちに昇華され、やがてそれが恐怖、嫌悪感へと変遷していくタイミングが、演じる役者さんによって異なる。

ファントムだと、美しいものに対する憧れ、愛情、所有欲といった感情のバランスが微妙に違う。

ラウルだと、幼い頃に抱いた、ただ単純に好きだという感情から、クリスティーヌの助けになりたいという気持ち、やがて自身の命にかえても守りたいという覚悟に至るまでの切り替えのタイミングが。

そしてこの三者の組み合わせにより、同じストーリーが舞台で進行していても、そこにはまったく違う物語が毎回生み出される。

 

4回目の観劇となる今回のファントム役は初日に引き続いての岩城雄太さんだった。

 

初日の観劇後の感想として、岩城さんの演じるファントムを、僕はこんなふうに書き残している。

「ファントムは幼なさと、それに共存する強引さ、自分勝手さが顕著だし、なによりもその狂気がすさまじい」。

あまり僕の好みのファントムではないな、というのが正直な感想だった。

だが、同じ役者さんが演じるファントムなのに、今回はなぜかその印象がまったく違っていたのだ。

醜い容姿というコンプレックスを抱きながらも、音楽と接しているときにだけ自信に溢れ、美しいもの、美しい世界に焦がれながらもそれらは決して得ることができないのだとどこかで悟っている、哀しい男。

泣き、哭き、叫び、願い、震える。

前回と今回の、その印象の「違い」「変化」が、回を重ねる中で生じた役者さん自身の「進化」であるのか、あるいは今回共演したクリスティーヌの、役作りの影響を受けてのことかはわからないのだけれど。

 

今回のクリスティーヌは時には恐怖を感じながらも、それでも終盤まで、ファントムを本心から嫌うことができない、情の深いクリスティーヌだった。

その感情が恋なのか同情なのか哀れみなのかを、クリスティーヌ自身も最後まで自覚してはいないようには見受けられたが。

恐怖に支配されているときですら、その根底、深いところには、ファントムの歌声に対する陶酔と尊敬の気持ちが流れ続けている。

 

ある時期、ファントムは40代後半、クリスティーヌは20代前半、ラウルは20代後半から30代前半、そんなイメージを抱かせるキャスティングが続いたせいだろうか。

クリスティーヌが初めてオペラ座の地下にあるファントムの棲み処へと誘われたとき、ふたりの間には暖かい時間が流れ、クリスティーヌは好奇心を抑えきれずに「仮面に隠れた その顔は誰?」とファントムの仮面を剝いでしまうのだけれど、その素顔を見て、クリスティーヌは恐怖に襲われる。

 

僕は思った。

クリスティーヌが叫び声をあげたその理由は、仮面に隠されていた顔が醜く崩れていたせいではなく、姿を現した彼が、ひそかに思い描いていた「その人」ではなかったせいなのではないだろうか。

「その人」。

そう。あり得ないことではあるけれど、クリスティーヌは自分の前についに現れた「音楽の天使」に、大好きだった父親の姿を重ねあわせていたんじゃないのかな。

あの叫びには驚きもあったけれど、それ以上に失望、父は亡くなってもう戻ってはこないのだという現実を突きつけられたショックもあったんじゃないだろうか。

僕はそんなふうに感じていたのだ。

 

終盤、クリスティーヌはファントムに語りかける。

「醜さは顔にはないわ。汚れは心の中よ」。

 

愛情は一通りではない。

世界は「好き」か「嫌い」かの二者択一で成り立っているわけではない。

だが、単純にこのふたつだけの色に塗り分けようとして、束縛したり、人を傷つける人がいる。苦しむ人がいる。

 

これはいわば、大好きな父親のもとから新たな愛の対象へと飛び立つ、少女の成長物語なんじゃないだろうか。

 

だが。

ファントムは陰、影の世界に属する人間だ。

そしてクリスティーヌもまた、影の世界の住人。

だからこそ、彼女はファントムの苦しみ、哀しさを理解することができるし、一方で陽、光の国の住人であるラウルに惹かれ、恋もする。

 

僕自身も、おそらくはどちらかといえば、陰の世界に属する人間なのだろうと思う。

だから魂の健全な人、疑うこともなく当然のようにこの世の幸せを享受する人に対して、憧れの心を抱くのだ。

でも、実際にはそうした人たちと接すると、心が波立つ。

安堵よりも不安を感じてしまう。

 

ラウルを選んだクリスティーヌの心は、はたしてどうなのだろうか。

 

そんなことを考えながら、今回も僕は劇場をあとにしたのだ。

大好きな「Think of Me」を口ずさみながら。

 

「オペラ座の怪人」大阪公演 1月9日キャスト

オペラ座の怪人      岩城 雄太

クリスティーヌ・ダーエ  牧 貴美子

ラウル・シャニュイ子爵  光田 健一