すこし日が経ってしまったのだけれど、スピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」を公開直後に観に行ったのだ。
1961年版の映画「ウエスト・サイド物語」はたしか中学生の頃、テレビで観た。
だが、僕が今も覚えているのは、実はその内容ではない。
当時、放映がなされるずいぶん前から「ノーカット放送」というのが大々的に宣伝されており、僕はそれを「あいだにCMを挟んで細切れにせず、一気に放送するのだ。民放で、なんて画期的な!」と思っていたのだけれど、「ノーカット放送」というのはそういう意味ではない、ということを放送の最中に両親から教えられてビックリしたこと。
これまで「恋愛」などということと結びつけて考えたことなどなかった母が「トゥナイト」を好きだと知って、意外な感を抱いたこと。
そして、そうだな、映画が描き出す寒々とした焦燥感に「うわぁ、アメリカになんて絶対行きたくないわ」と思ったこと。
そうなのだ。僕が今に至るまで、一度もアメリカという国に憧れを抱いたことがないのは、おそらくこの「ウエスト・サイド物語」の印象が大きかったのだと、今にして思う。
その後、何十年かを経て、劇団四季の「ウェストサイド物語」、そして宝塚歌劇団の「WEST SIDE STORY」を観る機会を得た。
その頃には、中学生の頃にテレビで観た「ウエスト・サイド物語」の記憶も薄れており、あらためて「ああ、こんな物語だったんだな」と受け止めた。
今回、映画版を観て、同じ話の流れながら、舞台(ミュージカル)版とずいぶん印象が違うな、ということを感じた。
それはもちろん、字数という縛りがあるなかでの「字幕」あるいは「吹き替え」による表現と、そもそも台本・台詞自体を日本語として再構築できる舞台との、「制限の差」というものもあるのだろう。
だが、それだけではない。
舞台版では、最初の段階からマリアは「父さんも母さんも兄さんも、怖れている。おかしいわね。同じ人間、怖れる必要なんてないのに」とトニーに語り、憎しみという感情の裏側には怖れがあるのだ、ということを見抜いている。
そしてアニタはというと、男同士の争いを「男というのはほんとに子供っぽいんだから。でも、そのうちに卒業するでしょ」と考えているかのようだ。
「アメリカ」というナンバーは、映画版では、アメリカに憧れるプエルトリコ系の女性陣と、それを揶揄するかのようにアメリカの欠点を挙げていくプエルトリコ系の男性陣との掛け合い、という形で進行するが、舞台版では、故国を懐かしむ年下のプエルトリコ女性を年長のプエルトリコ系の女性陣が「何を言ってるの。故国(プエルトリコ)だってそんなに素晴らしい所じゃなかったわ。このアメリカにこそチャンスはあるのよ」とからかいながら窘めるような内容になっている。
総じて、舞台版における女性たちはみな賢明で、無意識のうちにも、真実を見抜いているかのようだ。
一方、映画版においては、舞台版ほどに「憎しみの裏側には恐れがある」というメッセージがダイレクトには伝わってこない。
むしろ、アメリカという国における様々な問題点、自身の居場所を見出すことのできない人間の苦悩を、男性陣の抱く不満や焦燥感を通じて訴えかける力のほうが、強く感じられる。
僕はというと、舞台版の「ウエストサイド」のほうが断然好きだ。
「憎しみの裏側には恐れという感情がある」という真実と、「憎しみの連鎖からは何も生まれない」、しかしながら「それでも憎しみは連鎖していく」というメッセージがダイレクトに伝わってくる。
対人の仕事をしていると、様々な人に遭遇する。
そのなかでも、初対面のときからやたらと威圧的な態度をとってくる人たちに対して、「この人が根拠なき圧で攻めてくるのは、その裏側に怖れやコンプレックスがあるからなのではないのだろうか」と考えるようになってから、僕自身、ずいぶんと対人業務に対する苦手意識がなくなった。
様々な怖れを抱いて人は生きている。
だが、それを認めようとはせずに、憎しみという形に転化し、その本質から目を背ける。
憎しみという感情の根本には、きっとそんな人間の弱さが隠れ潜んでいるのだ。
「おかしいわね。同じ人間、怖れる必要なんてないのに」。
僕もマリアと同じように、そう思う。