昨日は撃沈モードで書き上げたブログ。
そこで最終的に気づいたことは
"わたし"が"わたし"に
やってあげている
と思っていたこと。
どちらもわたしなのに、どうしてこんなことかが?!
ところがこの「やってあげている」というフレーズ。
わたしにとっては怒りスイッチが入る言葉でして。
子供の頃からわたしの母が使うのを聞いて
最初はボランティア精神に溢れた人と受け取り
大人になるにつれ頼まれてもいないのに
自分の善意と正義を押し売りする人
という印象に変化した。
結果、母親のそのやってあげてます精神と文言にはゾッとしたし、おまえどんだけ人より偉いところにおるんじゃ!というような気持ちが、耳にする度に湧き上がった。
つい最近も聞いて「すごい上から目線だね」と伝えたところ「だってそうなんだもん」との答えが返ってきて絶句した。
上から目線が悪いと決めてるのはわたしなんだなとその晩は冷静に考えた。
からの、昨日の撃沈からの、自分に対する上から目線に気づいた展開には近年無いくらいの衝撃を覚えた。
ひとつ言えるのは、この気づきって、誰かの発信から得たものでもなく自分の身体の中から出てきたもの。
わたしはこれまで沢山の誰かの体験を読んできた。
そこで誰かの体験と照らし合わせて予測したり、答え合わせしてみたり。
されど、今回みたいなこと、どこでも読んだり聞いたりしたことない!!!
さぁてどうしたもんだろか。
わたしがわたしと向かい合う機会。
わたしはあれだけやってあげている感に嫌悪感を抱いていたのに、
それを自分自身にしていたとはどういうことだろう。
自分の中の女性性と男性性のパートナーシップが完全に上手くいってない!
わたしの願いが出てくる女性性に対して、それを叶える男性性がやってやっただろ、とはどういうことか。
もしかして、わたしの願いが捻くれていて、その通りに動いたのに全然満足していない女性性に対して男性性がいやになったのかしら?
たしかにわたしは自分の行動に対して否定的な評価をすることがある。
後から思い返すと「こっぱずかしい」とか「ダサいこと極まりない」というような感情が湧いてきて、あんな行動しなきゃよかった!と後悔してることがあるわ、そういえば。
でも、それって。
行動したわたしに失礼。
自分を守ろうとして取った行動だったのに、自分を満足させるために動いたのに、わたし否定してきてるんだ。。。。
そりゃ、行動を起こしたわたしはだんだん機嫌を損ねて何かしても「やってやったぞ」ってなってるんだ。
どんだけ自分を恥じてるんだろ?
どんだけ自分を愛してなかったんだろ。
そもそも素直に「こうしたい」というオファーを自分に許可してなかったんだよね。
わたしはこれまでも、そして未だに何を意識して自分の声をあげられてないんだろう?
でもさ、もう自分の中の女性性と男性性が、いや呼び方はなんでもいいけれど、
魂の叫びと、それを外に出すパイプを曇らせるものは要らない。
要らないと思ってるならはずなのに、晒されることを恐れてる自分がまだいる。
恐れてる自分すら抱えて、それでもその恐れてる自分を無視しないでいきたい。
やってあげている、なんて目線を持たずに、一緒話に何かをクリエイトするわたしとわたしでありたい。
ということを感じる本日でございました。