今月に入ってから
数えると3回も神社に足を運んでいる。



それもほんの短時間、
平日昼間、お昼休みのうちの15分か20分で。


会社の近くに神社があるのだ。


マンションとマンションに挟まれた
その神社の鳥居をくぐった別世界で
束の間深呼吸を楽しむために
寒いと感じながらも
つい足が勝手に向いてしまう。



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ちょうど今月3回目の参拝をした日の
帰り道のことだった。



乗り継ぎでホームを歩いていて
ハッとした。



身体が軽い


何も電車の中に
忘れ物をしたわけじゃない。


身体がフッと浮くんじゃなくか
と感じたほど突然軽くなったのだ。



うん?



わたしは考えた。
なぜだ。



理由を考えようとして
分かってしまった。
わたしの中から抜け出た何かを。



いつも頭を占めていた「想い」だ。



軽さの理由を考えようとして
思考しようと意識したときに
頭が空っぽなことに気がついた。



何かに集中して取り組んでいるとき以外、
ぽかっと空いた時間には
毎度お馴染みの「想い」が
ベルトコンベアに乗せられて
受け取り手が現れないまま
何度も何度も頭を巡っていたことに。



それらが突然居なくなったのだ。
すると「身体が」軽くなったのだ。
驚いた。



それらはわたしにとって
「幸せの形」を想いにして
日々抱いていたものだった。


目標達成には完成形のイメージが大切
とばかりに、
いや、ただもう習慣的に
おんなじ映像ばかりをひたすら
流していたのだ。



無くして分かった。
それらがわたしの身体を
重くしていたことに。



想いには質量があったのだ。
目に見えないからといって
質量がないわけではないのだ。



軽くなって気づく。
わたしが自由なことに。



実はその想いが
わたしを制限していたことに。
想いがまさか自分の
足かせになっていただなんて。。。



制限を無くした、
その自由さの正体は愛なのだ。
という確信が突如湧く。



愛は軽いもの。
軽さこそが愛。

自分で握りしめた執着からも解放され
すべてを任せられるその信頼が愛。

愛には執着がない。
だから、愛はどこまでも軽い。



このしあわせの形が欲しい、と
わたしの身体に閉じ込めていた
想いがいなくなると、


「もう、全部お任せ」
の気持ちとワンセットで
クリエイティブで喜びに満ちたパワーが
湧いてきた。



そのパワーは光の速さと軽さでもって
疲れを知らずどこまでも行けそうで、
これまで抱いていたしあわせのイメージ
よりももっと軽く広く豊かで
エネルギッシュななにかが
生まれてきそうな感じだった。



一体なぜ急に、
こんなことが起きたんだろう。





祈りだ。




わたしは先月末の初詣から
祈りの最後に
「はらいたまえ、きよめたまえ」
の文言を付け加えていた。



そしてその日も
住所と名前、感謝に加えて
最後に唱えていたのだ。
はらいたまえ
きよめたまえ、
と。



はらわれる
というのはこういうことか!!
と実感を伴って
神様がわたしの想いをはらってくれた
ことが分かった。



そして、はらわれて空いた空間を埋めたのは
愛だった。
パンパンに埋めても全く重さの感じない
愛だった。






その軽い身体も
少し経つといつものくせで想いが飛来し
少しずつまた重さを取り戻しては
いくけれど。



一度知った軽さは忘れられない。
そしてそこで湧いたエネルギーで
新しい何かを創り出してみたい。
そう思う。



愛って軽いのだ。
そして、執着は重い。



神様は軽いのがきっとお好き。
されど、祈りは"軽ん"ずべからずに。