「待ち組み」という言葉が造られたようだ。これから流行るかどうかは別として、政府主導で造られた?この言葉は、フリーターやニートなど「挑戦しないで様子をうかがう人」を指しているということだ。なかなか粋な事をいうなぁ、と思うと同時に、政府の方から社会に対して1つの潮流を造ろうとしていることは政治論として非常に興味深いと感じた。言葉とは、それを作り出すことによって1つのdiscorseを造り出す。そこにあると解っていてもつかみどころの無いものを、具体的に理解する為に、言葉で表現するということは非常に重要である。それを政府主導か、民間主導か、と画一的に議論するのではなく、双方向的に政府と市民社会が生み出していけば良いのではないか。





脱線しました・・・・



さて、待ち組み議論について。

まず、この言葉のソースになったと言われている小泉首相のメールマガジンの抜粋を載せます。



首相官邸ウェッブサイト



<2006年2月2日版メールマガジンより抜粋>





 最近よく、「勝ち組」「負け組」という言葉を耳にします。確かに難題に

挑戦すれば、うまくいく人とそうでない人が出てくると思います。しかし、

「負け組」だからといって卑下することはありません、難しい問題に挑んだ

ことは立派なことだと思います。「負け組」と言われている人々にもこれか

らチャンスをいっぱい提供して、一度や二度失敗しても再挑戦することがで

きる社会にしていかなければならないと思っています。



 むしろ、「勝ち組」「負け組」のほかに、挑戦しないで待っている人「待

ち組」がいると思います。そういう人々も、持てる力を存分に発揮し、一人

ひとりの創意工夫を活かすことができる社会にしなくてはなりません。そし

て、どうしても自分の力ではできない人に対しては、お互いに助け合う、持

続可能な社会保障制度がしっかり支える社会、そういう社会の実現をめざし

て、これからも改革を進めてまいります。



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と、政策論としては極めて全うな事を言っているわけだ。強き者が活躍する環境を整備し、弱き者の自立を助けるのが政府・政治の役割だとするならば、そのENDに対して、どういったMEANSを用意することが出来るかが政策判断の分かれ目となる。確かにこの社会は、勝ち組と負け組みという二元論で分けられるだけ単純ではないだろう。待ち組みといわれている存在は、社会の中でidentifyされるべき存在でもある(ただ、私はフリーターの全てがいわゆる待ち組みであるという議論には懐疑的である)。



しかしこの議論の問題点として、果たして「負け組み」と言われている人達は(この定義も曖昧だが・・・)その全ての人が何かに挑戦し、その結果敗れ、負け組みに転落したのだろうか?首相の言うように、難問に取り組んだ立派な人ばかりだろうか?それは違うのではないだろうか。挑戦も出来ずに、挑戦しても駄目だろうというassumptionの基に、社会の構造的に負け組みにカテゴライズされている人達は意外と多いのではないだろうか。



問題の本質をキチンと見据える必要があるのではないだろうか。それが待ち組みであろうと、負け組みであろうと、そのカテゴリーに振り分けられてしまう大多数の人口が、如何にしてその様になったのかをキチンと分析する必要があるだろう。そうしてみていくと、待ち組み問題を考える事は、彼らを社会的劣等者として特別視するべきではない。彼ら待ち組み問題を考える事が、それはつまり負け組み問題を考えることに繋がるのだということを念頭に入れつつ、大きなピクチャーでこの問題を捉えていく必要があるのではないか。