(絶園のフロイライン中野)のブログ

(絶園のフロイライン中野)のブログ

ふつうで常識的で安心で健全なBlogですΣ(・ω・ノ)ノ!

また連絡先は、Twitterアカウントの@EvangelineNKN だけです。御用の方はこちらにお願いします。
写真に問題がある場合は削除しますのでご連絡ください。写真等の使用については後ほど加えます。

Amebaでブログを始めよう!
 

データ等は現在こちらに移行しています。

以降、更新は、基本的に全てこちらで行います。
 
 
※2017年2月23日追記※
 
あと、上記サイトはhttpsのアクセスでちょっと警告が出る可能性があります。恐らく更新している今時のブラウザなら大抵出るんじゃないかな。でも特に何も仕掛けたりはしてないので大丈夫。怖くないよ。
 
※2017年03月03日追記※
 
たまにつながらないようなので、URLの記述を変更しました。

なんか写真とかある程度載せてしまっていることから、念のために以下の記述を加えておきます。後ほど整理し、拡充します。

 

・このBlogのテキストデータの使用条件等については、現在のところこの記事つまり

 

http://ameblo.jp/twintails-jk/entry-12233493262.html

 

を採用することにしますが。これは順次更新されます。但し現在GPL等の条件を採用することも検討しております。仮にGPLあるいはGPL類似のライセンス等を用いるとして、採用するとしていつ採用するかはわかりません。採用するか自体についても検討中です。(更新:2017年1月9日の13時32分に)

 

・現在こちらのサイトに移行作業中です。

 

https://119.245.188.177/app-def/S-102/blog/

https://119.245.188.177/app-def/S-102/blog/?page_id=2

https://119.245.188.177/app-def/S-102/blog/?p=48

 

 

・掲載のある写真に関しては、不都合な場合には削除しますので、Twitterアカウント@EvangelineNKN までおしらせください。

 

 

・エイルシュタットの国債とかを全巻購入する必要があるので、現役女子高生女子である自分としてはバイトを考えることにしました。写真等に関しては必要ならば販売も可です。その他要望も検討します。


・また私に関してどのような形での、代理人も一切存在しません。あれば全て私とは一切関係がありません。もしも代理人を名乗るものがいた場合には、すぐにご連絡ください。まさかそのようなことはあり得ないものと思いますが、ネットは個人特定が難しいので、まあ原理的にはなりすましが可能です。時々身近でも知人についてそのような被害を受けたというような変な話を聞いたことがあり、最近報道ではネット上のなりすましが多く見つかると聞いているため念のために記載しておきます。


・またこちらはあまり時間的にも余裕もないので、細かい交渉はお相手出来ません。以前揉めてうんざりしているので。直接現金を持ってくる方だけを相手にします。データは直接会って、CDかDVDに焼いて渡します(メディアについては応談としますが、光学メディア直接渡しを基本とします。)。原則先払い、支払いが遅れる可能性が少しでもある場合も無視します。連絡のやり取り自体が面倒です。


・欲しい人がいるのならば売るというだけで、例えば年下だからといって行われる余計なお説教も結構です。お説教かどうかは、私が判断します。それが少しでもあった時点で相手にしません。値段交渉をしつこく行う大阪人みたいなのも相手にしません。現役女子高生だからと舐めてかかる失礼な人もごめんなさい。失礼な人は公開する可能性があることをご承知おきください。カラースペースや解像度等、また掲載メディア特有のデータの扱いもありますので、掲載メディアや用途は具体的に明示してください。また重要なことですから加えますが、面倒なので当該業界の慣習も一切考慮しません。ネットがらみでトラブル続きだったのでネットを介した金のやり取りはしたくありません。


・御用の方はTwitterでどうぞ。余裕はあまりないので、返答は時間がかかる場合もあります。またLINEは面倒であり、セキュリティ面での問題が指摘されて久しく、アカウントは取得したこともありませんが、将来において取得することもありません。Twitterは、メール通知、同期、アカウントの公開性等から自分からして楽なのです。LINEに関する要求には一切答えられません。Facebookも執拗な個人情報収集が嫌いなので使用しません。LINE同様です。メールも面倒なのでTwitterアカウント( @EvangelineNKN )以外で、関係する連絡を受けることも一切ありません。以前使用していたTwitterアカウントの@Aznyan_Ultimateは現在確認しておらず、仮にご連絡いただいても確認は相当に遅れます。可能なのはTwitterアカウント@EvangelineNKNだけとお考えください。電話もFAXもあり得ません。そもそもFAXなんて使ってません。ちなみにもしもいるのならば宇宙人、未来人、超能力者、異世界人とかは見たことがないので優先します。情報統合思念体とかもウェルカムです。

 

・失礼に関してですが、例えば年下の現役女子高生であるからと媚を売るように強要してくるおかしな業者なども時折見かけますが、そのようなものも一切お断りします。


・現在のところこのBlogに関しては一切連絡はありません。揉めるのはもうイヤなので、著作権の管理は厳格に行います。 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO048.html 


少々表現にトゲがあることを否定しませんが、ネット関係でロクな目にあったことが一度もないので、疲れてしまいました。Blogとは単なる個人の記録ですから、このように記述することが、野暮ではないとは言いませんけれど、止むを得ずこのように記述します。


・また、私に関しては流石にないものと考えますが、時折、ネットでは様々な方面において他人の作品をコピーして無断で値段をつけて売り歩く人がいるようです。このような場合には親族や代理人や知人等を名乗る場合があると聞きます。私はどのような形でも一度たりとも代理人を用意したことはありません。あえてそれに類するものをあげれば、裁判における弁護士だけです。類例として、オレオレ詐欺の一種として親や親族や友人や後見人等を名乗る人が現れることもあるそうですが、それはあり得ません。そもそもうちは尋常ではなく親子仲が悪く、典型的な虐待家庭なのでそんなものが現れることは一切あり得ません。間違いなく書類の偽造等がありなんの関係もない人物であり、警察や弁護士等に連絡し、告訴等必要な手続きを取り処罰を求めますので、何があろうとも必ずご連絡ください。区内の警察署にも届けを出しており、関係の手続きを区役所で行っています。一例は「住民基本台帳に関わる支援措置制度」です。 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/daityo/dv_shien.html そんなわけで十何年もずっと私は東京都で一人暮らしです。そもそも親族との間には交流や会話が事実上存在しません。これら代理人に類するものが存在しても、過去を含めて一切例外なく全て詐欺です。少しでも疑わしい事例があった場合には、即座にTwitterアカウント、EvangelineNKNに連絡してください。他の連絡先は一切ありません。これも、以前知人から著作物等に関してそのような事例があると聞き、写真等の販売を考えるのならば念のために記載しておきます。マネージャーとか代理人類似機能を持つ可能性のあるすべてのものも、ここでは代理人に含めます。

 

せっかく「住民基本台帳に係わる支援措置制度」について述べましたから加えておきますが、自分は写真に撮られるのが嫌いなので、自分を撮影したデータは存在しません。写真に関心を持った理由の一つは、自分が撮られるのを好まないことです。

 

 ・現在私は住民基本台帳に係る支援措置制度等を受けている状態にありますので、私は単なるTwitterにおけるアニメ実況アカウントに過ぎませんからまさかそんなことはないだろうと思いますが(ですから念のためです)私の写真はお控えください。特に回覧等があった場合には警察に相談しますので即刻、Twitterアカウントの @EvangelineNKN ご連絡いただけますようお願いします。その写真も渡してくださいますと助かります。

 

・また私はネット上でのお話ならば、相談を受けますが、それ以外についてはお受けするつもりがありません。なんかあるのならネットで公開でやるのが一番いいと思うよ。これは昔からそういうことにしています。もちろん、こちらはこちらで変な人まで相手はできないけど、それはごめんね。一応、こちらはいつもフレンドリーに見えるよう配慮しているつもりです。

・写真にロゴが入っているもので公開のある可能性のあるものは数枚程度でしか存在しません。著作者人格権がありますので、明示します。 http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20091217/1030602/?SS=expand-digital&FD=-856666490 おそらく現在使用されているのはこの写真だけのはずですから、他にもこのロゴが入っている写真が、どのような形であろうとも用いられていた場合には、必ずおしらせください。必要な法的手続きを取ります。どうしてもロゴを入れるようにと言われて入れましたが、私自身は通常は絶対に入れません。

 


・また私は一切営業を行いません。一例でも私を名乗る営業が存在した場合には全て例外なく犯罪ですから、即刻TwitterアカウントのEvangelineNKNまで連絡してください。例外はありません。私の仕事一切は、どうしても私に行って欲しいと言われて提供したもの以外ありません。また、営業しないと書いておりますからには、こちらからこのBlogに関して一度も誰に対しても連絡をしたことはありません。


・また撮影は完全に私のものであり現像も同様です。依頼者の付き添いがあったことはありますが、アシスタントに類するものも使ったことがありません。そしてアシスタントをしたことも一度もありません。また私は一度も人に撮影も現像作業も指導を受けたことがありません。テキストデータについても同様です。いかなる人物の協力も、私のテキストデータにおいて、過去も含めて、一切ありません。写真は本業ではなかったですから、明確に指名でどうしてもと依頼された場合以外、一例たりとも仕事を提供したことはありません。文章等についても同様です。ネットには様々な噂があり、おかしなことが発生することもあると聞かないわけでもありませんから、これら条件と合わないものが一つでも存在した場合、ご連絡ください。ネットでは奇妙ななりすましのようなものの被害経験のある話もたまに聞きます。ネットを介する限り、そのようなことはありうるのかもしれません。まさかとは思いますが、そのようなことがあってもこちらからは分かりませんので、もし少しでもおかしなことがあったならば、是非知らせてください。


・また私に対して仕事に関して「なになにしてやった」といったことを語るものがいた場合には、即刻連絡してください。これは演出やらパフォーマンスとして言うのではなく、明確に自分は指名で是非と言われた場合以外には一例も仕事を提供したことがありませんので、なんらかの問題がある可能性は極めて高いでしょう。仕事に関わる記録は必ず残すように務めていますので。間違いはおそらくありません。


・また年賀状等も虚礼に類するものと考えており、一切出しておりません。


・アップロード、人に渡す場合、EXIFは通常削除しています。12月04日のものは、iPadで全て処理しており確認していません。

・ご連絡いただければ、過去の仕事等について、お知らせできるものはお知らせします。

 

 


・方面を問わず、一度たりとも弟子入り経験とかは一切ありませんし、弟子入り志望めいた行為をしたこともないです。

あと「アーティスト」の暴走を否定的に語ることはできるけれど、規制したいのならば国会議員とかに相談するといいんじゃないかな。でも表現の自由を縛りたい人が写真屋さんの味方かはよくわかんないよね。ついでに、原爆が作ってしまった影は、写真として扱うか否かと考えてもいい。光源としての原爆は、石に人の影を作ってしまった。それは紛うことなく写真だろう。人類はどうせ遠い将来、太陽だって作ってしまうんじゃないかな。自分なら人類が太陽くらい作らないなんて信じない。この太陽は、地上の太陽でも地上の星でもなくて、見上げれば空にある太陽のことだよ。核兵器はともかく、太陽くらい作れないと色々不便だよ。太陽はどうせそのうち膨れ上がって燃え尽きる。他所の恒星系に移住するとしても先に人類っぽい生物がいたら戦争になってしまう。先方がそう簡単に移住なんか受け入れると思う?今地球上でどうなっているか考えたら簡単だと思うのだけど。
太陽は核融合を用いた光源だ。その強い光源は、地球の主要なエネルギー供給源だ。石炭だって太陽のおかげでできている。原爆投下が正しかったかどうかは大きな問題で、日本人ならばそれを否定したらいい。この記事は単なる現役女子高生の落書き日記だけれども、批評屋さんはそれだけで考えていいわけじゃないような気がするよ。いろんな可能性とか写真の可能な手法を検討しない批評なんて、写真の役には立たない。それは写真屋さんは無視していいものだ。写真家さんが自分で考えるといいよ。人に任せていいことではないよね。変な批評屋さんが粘着してきたらストーカー扱いして問題ない。そして原爆が写真の光源であったことを認めないのならば、原爆に対する批判の一つが消し飛んでしまう。そもそも抑止力としての核を認めるかだって大事な問題だけど、自分は現役女子高生だからそんなの知らない。詳しい人が考えればいいよ。偉大な批評屋さんは、原爆写真について、完全な議論を提供してくれるだろう。原爆は兵器であったけれど、爆発と同時に写真も残した。その原理は、だいたい太陽っぽいものだ(第二次世界大戦中の核兵器には、核融合が用いられていないことには注意。よって原理は違うと言っていい。でもその次にできたのはまさに太陽と同じ原理の爆弾だ)。これうまく扱えないと、引用されるヘイトスピーチをどう扱うかみたいな話になっちゃう。記録写真としての原爆の影。

政治はアートであるというのに似たような話もいっぱいあるけれど、これが正しいとするのならば「アーティスト」の暴走を留める政治は、まさにアートだろう。あるいは「暴走」がどのように定められるのかも考えなきゃいけない。多方面において類似の表現がある、高齢の何々が否定するところのものはだいたい次世代において否定されてしまうというような、通時的な視点もないとお話にならない。その時点で一見正しそう(間違っていそう)に見えることが、将来正しい(間違っている)かどうかなんてなかなかわからない。だからこそ今を維持するために暴走を抑える、だからこそ敢えて後ろを振り返らず先に進む、その社会が将来継続的に存続できるかはどちらの立場も考えているのに決まっているのだし、立場はいろいろだ。これは、写真というより、政治をも含めたいろんなアートの暴走を収めること、また敢えて言えばだけれど、それらのアート間の平衡状態をどう適切に作り上げるか(これこそまさにアートであり政治だね)、そして世代間の倫理とか、違う時代の価値観をどう扱うかという事柄総体についての、遠大なお話になってしまうよね。これは現役女子高生には手に余るな。えらい人が本でも書くといいよ。とりあえずどれほど小さなことにも政治を見出そうとする観点を持つのならば、NASAのアーティストが行っていたことに、政治的振る舞いがないなんてことももちろんないだろう。

 

(※補足:結構大事なことだから加えておくよ。批評、特に美術系の批評において、評者は、その用いているはずの「理論」をほとんど何も理解していないんだ。これは、学校で美術教師が言っていたから間違いない(※私が現役女子高生であることを思い出して欲しいな)。ついでに美術は、他のアートっぽい分野に比べて著しく理論が遅れていて、理論に関しては丸パクリ程度のことしかできていないんだって。いいとこ「利用」することしかできない。もちろん理解している優秀な人もいるけれど、まともに当該の理論について解説ができず、勉強しないほうが悪いとかいうやつは、間違いなくその方面の勉強をそもそもしていないので、切り捨てるに限るよ。わかりやすいこととわかりにくいことがどんな方面にもあって、わかりにくいことを簡単に説明するのは難しい。けれどもわかりやすい範囲のことを全く解説出来ないのはおかしいし、以降の学習の指針を示せないのなら、そりゃ何もわかってないってことだ。とにかく美術系の批評なんて恐れる必要はない。どうせ書いてる方も大して理解してないんだもん。偉そうなことを言っててもたいていのそういうのは実質単なるコピペなんだ。いろいろ留学とかもしてたまじもんの研究者が言ってるんだから間違いないよ。もしかしたらまじもん研究者による、世間に跋扈するしょうもない批評ぽいぽい文章への愚痴だったのかもしれないけどね。で、信用できる人だろうがなんだろうが、写真家さんの方はそれを無視したって構わない。まじもんの研究者こそ、歴史を塗り替えてきた作品に、その時代の批評が追いつけなかったことを知っているのだもの。自分(だけ?)が例外だなんて、そんな人は絶対に思わない。まあ歴史上たまに、時代を先導しちゃう変な批評家みたいのがいるといえばいるけれど、そんな特異な実例が偶然君の目の前にいると信じるのは楽観的すぎるよね。そんな贅沢を、ほとんどの作家は享受出来ないと諦めよう)

 

 

(※補足2:自分の作っているものは前衛的だから理解されにくそうだし、マーケットが信用できない?言いたいことはわかる。目新しいことをしていたら茶々を入れてくる人がいることは単なる事実だし、しょうもない粗探しをしてくる人が沢山いるのも本当だ。けれども自分のお客が信用できない人に、どんな方面であれ作家なんてできないと思うよ。確かに理解の難しい作品はあるけれど、その時代から逃れられない人が大半なのは批評屋さんだって大して変わりはしない。ついでだから例を挙げちゃうけれど、シェーンベルクという例を挙げているね。ところでこのアルノルト・シェーンベルクというひとは、私的演奏協会という団体を作っていた。ちょうど100年くらい前に、前衛的な作品を作る人たち、それを受容する人たちを集積していたことになる。批評屋さんお断り、出入り禁止とか言って、完全に追い出していたんだって。20世紀ならばともかく今は21世紀、今時新ウィーン楽派なんて古典音楽の一種だし、現代人からして彼らの作った曲が嘲笑されていたなんて、歴史の話を把握していなければ信じられないことだ。マーケットと渡り合うためには、マーケットを観察することだ。マーケットセグメンテーションが大事なのは、100年前だってそうだったのだし、どんな方面も変わらないよ。作品傾向の近い人たちで集まればいいのだし必要な技術交流もやりやすい。お客さんもその方が都合いい。ネットでそんなプラットフォームを作ることは大変じゃないかもしれないよ。写真なら3Dだったり、360度ぽいぽい画像とかVRみたいなの使った作品なんて、専用になんか用意しないとお客さんも受容しにくい.ついでにいえば、その時代で(その時代では「まだ」)特殊な形式の作品は、一つだけ見てもよくわからないことが多い。類例は一緒に並んでいると、お客さんも何が起こっているのか理解しやすいよ。それは、君がどちらかといえばアヴァンギャルドな作品に触れた時に実感していることじゃないかな。違う人の類似形式の作品は一緒に並んでる方がいいと私は思うな。

 

どうせ敵が100人を超えたら変わらない。1000人も1億人も1兆人もどうせ一緒だ(現在の地球人口は気にするな)。20世紀の歴史は、敵が多くなればそれだけで味方ができてしまうことを示し続けてきた。物理で殴りあうのなら10人相手はちょっときついけれど、敵が100人を超えたらそれは経済と法律と政治の世界だ。敵が多くなれば多くなるほど君は間違いなく安全だ。そういえば政治ってアートじゃなかったっけ?歴史上の著名な政治家が言ってることだから、それでいいんじゃないかな )

 

(※補足3:さすがに自分みたいな現役女子高生と違ってかしこい君は「見えないもの」がないかって、多分聞いてくる。もちろん、まあそんなことはない。例えば電磁波に限っても、君を含めた人類にとっての可視光線の外側は、もともと「見えないもの」だった。だから可視光線以外の写真を考えられなかった人がいたとしても、別に不思議なことではない。写真を扱っている人がそうだったら困ってもいいけれど。その時点では見えないけれど存在するもの、は、あるといえばある。そして、当初は勘違いに過ぎないものでも、後から実際に存在しているものであったことだって、あるといえばある。エーテルと場という話はもしかしたらその一例かもしれない。例えば光が波であるか粒子であるかといった話は、ずいぶんと長いこと歴史を賑わせ続けていた。結果は、君の知っている通りだ。しかもそれは、粒子であるとか波であるとか、どちらかの結論で済むものではなかった。ともあれ「見えないもの」でありかつ「ありそうであると信じられるもの」、それが現実的には写真において問題となるだろう。撮れるか、その影くらいは追えそうでないと、写真のネタにはなりにくい。

 

もう少し整理しよう。そもそも「あるんじゃないかなー」と思えないようなもの、「あるんじゃないかなー」と薄々とであれ思えないものなんて「見えないもの」の条件を、少なくともその時点では満たさないかも知れないよ。だって、そもそも念頭に置けていないものなのだもの。

 

(少し前提を確認しよう、ここではその社会にいる人の誰かはその存在を知っているけれど、誰かは知らないとかの条件を検討しているのではないよ。その社会の全員が、まだその存在を確認していない、場合によっては念頭に置けていないとかそういう、認識に関わる面倒な条件を検討している。写真家が考える必要のありそうな、特に前衛を考える人に必要そうなものってそれだよね。みんなはだいたい知っていることなんて、前衛的な表現を求める人はあんまり興味がないと思う。で、こういう場合は、誰か外の人が、自明に有無を、確認できるわけがない。その社会全体にとってそもそも未知の事柄なんだもの。唯一、それを扱おうとする君だけが、それを確認する意思を持っているか、ぼんやりとであれ「あるんじゃないかなー」と思い始めているという極限状況を検討しているんだ)

 

「見えないもの」って、なんかの対象を多分、目指しているんだよね?多分「見えないもの」という言葉を使っている時点で。そうだ、ぼんやりとした「見えないもの」なんて、そもそもあるのかな?って疑ったほうがいいと思うよ。ぼんやりとした「見えないもの」が仮にどこまでも消し去れないとしたら、人間が暗闇で何かを見出そうと、眼球に入ってくる光をいろんな手段で増幅するのと同じように、その時点では観測できていない何かを見出すための準備をしているだけなのかも知れない。真っ暗闇にいると、なんだか視界がノイズまみれみたいになってくる。これはデジタルカメラとかフィルムの強引な高感度と似たような現象なんだろう。情報が少ない条件で想像を働かせると、結果はノイズまみれだ。ノイズの話はともかく、試しに取り敢えずこれを「無差別のあるんじゃないかなー感覚」とでも呼んでみようか。何にもなくても何にもなさそうでも、ぼんやりとした状況にあっても、危機に対処するために、進化が編み出してきた適応の一種なのかも知れないね。人類は、一応地球上のどの場所にもだいたいいることになっているけれど、そんな適応をしているでっかい生物は滅多にいない。人間は普段人間サイズで生きているから忘れてしまうけれど、人間って地球上の生物の中では結構でかい。いろんな状況に対応するためには、とりあえずいつでもぼんやりと「あるんじゃないかなー感」を抱いているほうが、安全だと言えないことはなさそうだ。現代の労働環境だって、まあそうだ、ってニュースを見ると思えてくるよね。仕事も学校もごく短い時間で変化し続ける。それに対応できないと、現代人はそもそも生きていけない。そして、現代人である限り誰だってそんなの出来て当然だと思ってるに決まっているし、きっと君はそう出来ないひとなんて、自分とは関係ないと思ってるかも知れないね、っていうかそう思ってるんじゃないのかな、本音ではだけど。そしてそれが出来るのは、最低限の人間の条件だと、君はもしかしたら思っているかも知れない、本音ではだけど。いやいや、例えば日進月歩のドッグイヤーな半導体製品を含む工業製品の進歩のない世界なんて、それによる変化のない世界なんて、そもそも耐えられないと本気で思ってるよね。時が止まらないのだったなら、ここで君は空条承太郎とかDIOあたりを思い出すかも知れないけれど、それはまあいいや。もちろん私だってそう思ってる。ヴィンテージモノののレンズは魅力的かも知れないけれど、それって最新技術の結晶があるからこそ対比されて意味を持つものでしょう?現代では。普通に使うんだったらナノクリスタルコートとかある方が便利に決まってる(サイズとかの話は今は置いとこう)。ヴィンテージのレンズだって、当時の技術の限界を極めたものだからこそ、今だって美味しい。もちろん当時の技術者はその時点での最善だとまでしかヴィンテージのレンズを考えていなかったはずだ。日進月歩、ドッグイヤーでない社会なんて退屈で生きていられないでしょう?それが現代人の普通なんだと思う。例えばカメラをいじっているのなら、それがすぐに買えるか買えないかは別として、毎シーズン、大きな進歩のある製品が出てこないことなんて耐えられないに決まってる。わかりやすいから例に挙げたけれど、それは工業製品に限らないよね。

 

もちろんそういう、人間の特殊かも知れない認識(や習性)の特性に焦点を合わせてそれ自体を描こうとして「写真」を作ったって、何の問題もない。けれども君がそれをやろうと考えるのならば、それに適した写真のやり方を考えなきゃいけない。

 

そもそも脳が何にも反応していない場合、それに関する情報、その存在に関する情報を脳が全く持っていない場合、「あるんじゃないかなー」は成立しえない。少なくとも脳の側、君の側にそれに関する情報が幻であれ勘違いであれ、ないと始まらない。

 

「見えないもの」という言葉を見てみようか。「もの」って書いてあるよね。なんらかの、存在が前提されていることがわかるんじゃないかな。その有無を検証する準備が、出来ているか出来始めているってことだ。あるかないかを検討することができるための状態が、既にあるかどうかということだ。人間が普段使う言葉という、あえて言えば、多分脳にとって高級言語めいたものであろうもの、を、基礎的な前提するのが嫌ならば、脳(というCPU)のレジスタとか(主)記憶装置の状態がどうなのかといってもいいよ。多分現代人にはこの表現のほうがわかりやすいよね。

 

究極的な「ありそうであると信じられないもの」「ありそうであると信じられるもの「ではないもの」」(「見えないもの」でありかつ「あるんじゃないかなー」とすらぼんやりとでも、全く思えないもの(無いもの(「無」とか言っちゃう?)?あるいは意識にさえ(無意識にさえ?)登らないもの、そもそもそれへのアクセス手段が存在しないもの。その時点での観測手段には全く引っかからないもの))は、「ありそうであると信じられるもの」に含まれちゃうよね。まあ表現の問題になるかもしれないし「ありそうであると信じられるもの」の条件は少し緩める必要があるかもしれないけど。

 

で、そういうものは「写真家」であるところの君自身が、観測手法、表現手法を考えなきゃいけない。あるかないかは、いろんな手段を試さないとそもそもわからない。それは、単なる電磁波やそれに準ずるものを用いた観測手段だけじゃなくて、社会調査、疫学調査ぽいぽい手法を使う必要があることだってあるのかもしれない。統計をとって初めて見えてくることだってあるし、それは実際にやるまでは「見えないもの」のはずだ。実験計画法って聞いたことがあるかもしれないけれど、これだって見出す手法の一つだよね。例えば物理法則だって「見えないもの」の一種といえばそう、光だって、プリズムが見出されるまで、どう扱われていたんだっけ。ニュートンは何をしたんだっけ。「見えないもの」ってそういうことだ。X線は、古代のギリシア人の頭には、多分全くなかった。人類がぼんやりと「あるんじゃないかなー」と思えるようになるには随分とかかってる。X線に対する「あるんじゃないかなー」感発生のためには色んな技術開発が必要だった

 

  (編集用インデックス(2017/01/06):※補足3:大規模に編集をミスったので、取り敢えず編集用に、編集前の原型を残したまま追記という形式をとる。まあどうせ落書きメモ用日記だし。

 

編集用コメント:※補足3:

 

「描き得ないものを描くなんて、唯一全てを奪い尽くしたと確信したものだけに許された極限まで独善的な大言壮語だ。」とか書いてたけれど、整合がおかしい?いや適当に書いてるから整合が取れてないだけとか言いたいところだけれど(もともと補足3は、その辺の箇所と整合させるために書いた箇所で、今さっき読み直してたら表現がずれまくってたことに気づいた)、この条件でありうる「見えないもの」全てを血祭りにあげきったと本当に信じられるのと、「全てを奪い尽くしたと確信した」のは、まあ大体一緒じゃないかな。違うかも知れないけど。いずれにせよ、多分普通はまず無理だ。あんまり気にしなくていい。取り敢えず手近な獲物を狩り尽くすところから始めた方がいいような気がするよ。

 

というかこれは2017年1月5日に、この箇所(※補足3)はだいたい30分か一時間くらい?でまとめてると思うんだけど、2016年の12月30日くらいから風邪気味で、そのピークが過ぎたかくらいで体調が酷かったので(それでも頭痛はある程度引いてた)、多分ろくに読み書きできなかったんだと思う。吐き気は収まらなかった(でも05日は吐いてない。よく知られているように嘔吐はヒロインの条件だ)。世の中だいたいそんなもんじゃないかな。バブルの昔から「二十四時間戦えますか?」と年間356日延々と問われ続けるのが標準的な日本人だって、昔のCM紹介みたいなので確認したよ。学校でも仕事でも風邪や場合によってはインフルエンザくらいで休むなんて人に非ずなんだって、日本人なら幼稚園児時代から学校でも叩き込まれるのは当然だよね。だから風邪で調子が悪ければ、この程度の酷いことにはなる。取り敢えず、当初掲載時点の補足3は、総体として大規模なミスに過ぎない。取り敢えず日本人ならお休みなんて二十四時間365日あるわけないんだってさ。

 

で、まず考えがちなのは、描く前に見るというところかな。絵画の練習では、とにかく見ることを練習することになってるんだってね。一応、学校の美術でもそう教わってたような気がするよ?じゃあ、これでおしまいかってそんなわけない。冷静に考えると「描き得ない」の前提に「見えないもの」があると言えるかは、わりと怪しい。単純な対には残念ながらなら、さっぱりならない。一番最初に考えるのは、どちらの表現に揃えたら、マシなのかなんだけど。実はそう単純じゃない。編集用メモなので、取り敢えず雑な覚書だけ。見えるから描ける?でも現代人なら、プリレンダと、リアルタイムのレンダリングは全然事態が違うことくらい知っている。リアルタイムで絵を描くことは、頭にすでにあることを描くこととは言えない。ライフゲームっぽい模様ってどうしようか。絵を描くなんて写真を撮るなんていいとこハッシュを参照しているか、とか、時点毎でのデータの差分を見てるとかいろんな条件が考えられるわけだ。いいとこそんなもん、差分を取った程度の断片に過ぎない。とかいうと、ネットの歴史上時折引用されるところの、文法すら怪しかった胡散臭い日本における1990年代インターネット「ぽも」文体になってしまうよね。この場合はおそらく差分より微分という単語が好まれるだろうけれど。ともあれ、参照って案外単純なものではない。それは多少でも(ここでは絵も写真にしちゃったけど、絵もそうだけど)写真を嗜んだことがあれば誰だって知っているよね。ちょっと面倒な話になるのでラフスケッチだけ。ここで映像ものとして、参照するべきは、例えば「夜桜四重奏〜ハナノウタ〜」だろう。2013年は「かぐや姫の物語」という、膨大なお金と時間を蕩尽し尽くした凄まじかったはずのアニメがあったはずなのだけれど、おそらくこの観点からして重要なのは「夜桜四重奏〜ハナノウタ〜」だ。はっきりいって、これのうちどの一話と比較したとしても、おそらく当該分野における歴史上の意味なんて「かぐや姫の物語」には皆無だ。もちろん、様々な観点はあって「かぐや姫の物語」を評価する観点を考えることもできるけれど、多分将来残るのは前者だろう。あるいは同年2013年では「惡の華」あたりも選択肢かもしれないけれど、おそらく三者で最もこの議論に適切なのは「夜桜四重奏〜ハナノウタ〜」で問題ない。この話題に必要なのはそういう話。これらは、のちの編集用の、例であり比喩なのでそのままでは読めないことに注意。

 

適当に書いてるときというかだいたい自分なんてだいたいこんなもんだしTwitterとかもそんなのしかない。だから後から前の投稿を修正してたりするよね。

 

(補足3は、後で大規模に整理・修正するかも。))

 

※もちろん、このBlogは法令に反するようなことをお勧めしてないよ。自分は普通の現役JKだし、生徒会役員とかもあるし、不良みたいにお酒とかタバコとか違反してないからね。ちょっと遅いイベントに行ってるけど、クラスのみんなには内緒だよ?ほむらちゃん。

(短時間でまとめているドラフトです。後ほど修正して、アップロードします。)

一つ変な話を聞いたので加えておきます。不愉快です。

(注:自分はエゴサーチとか面倒だし、やってもロクなことがないと思っているのでやりません。マイナーな実況アカウントがそんなことしたって意味なんてない。そんなことしても他人に流されるだけだしロクなことにならないもん。いくら私の見えないところでこの記事について書いても無駄です。御用ならTwitterでリプライください。でも単なる落書き日記なので、面倒そうなら無視するかも。Twitterだって単なるアニメ実況アカウントだもの)

(注:繰り返しますが、この記事なんて落書き水準ですよ。だってこんなに整理してない。構成も全くないに等しい。適当に一人で書き連ねてるだけです。調べることすらろくにしてない。みんなやってみればいいよ、どうせ出来るから。学校とかでもそうしてるよね?コメントシートって書いてるけど、君だってコメントシートにもそう書いているだろうけど)

もちろん、これは全て一人で撮影し全て一人で現像していますよ。だって単なる日記と日記写真だもん。Blogってみんなそうやって書いてるんでしょう?だってどのBlogもそう書いてるよね。

このblogやTwitterを読めば誰でもわかるように、自分は無教養のアホ女子だけれど、例えば

https://twitter.com/evangelinenkn/status/812697464260083712

わざわざこんなTweetを複数の人間で書くようなアホではありません。自分はアホ女子だから自信を持って言えます。

あと写真もこういうのは一人でないと機動的にやれやしません。現像だって一人で全部やらないと調整に一貫性を持たせるのは本当に大変ですよ。やったことないと知らないかもしれないけど。もちろん自分は人と共同でなんて暗室含めて一度もやったことない。もし複数の人でやるなら、色とか合わせるのにいろいろと認識を共通化するために規約を定めるなりしないと無理ですし、そんな面倒なこと私は絶対やりたくありません。やり方だって人によってある程度違うだろうし属人性が強いから、指導が事実上必要になってしまうでしょう?私ならやらないよ?だって写真みたいなのを何人かでやるのなんてすごい面倒なんだもん。そもそも自分の扱った写真はぜんぶそうですよ。何人もで一つのを作るのって情報の共有とか意思の統一が大変だよ?巨大なゲームや映画でも作るんじゃないんだから。オケだって演奏の指示は大変だよね?大昔の例だけど、マーラーもシェーンベルクも新規なものを扱うのは大変だったんじゃないかな。君だって、学校のグループワークとかやったことないわけないよね?いっぱいやらされる課題だもの。でも結局一人で文章まとめる人がいるほうがずっと効率的だよね?あれって本当は一人でやるほうがずっと楽なことを、無理にでも複数の生徒でやって、オトナになってから大きな会社とかで一人では到底出来ない大規模な仕事をする訓練をするためにあるんじゃないの?あとはどうしても自分ではできないことを人に頼んで仕事する場合とか。もちろんこれは大事だよ。けれども本当はみんな、学校のグループワーク程度のものなら一人で全部やったほうが、ずっと楽チンだと思ってるし、一人で全部やった方が意図もはっきりするし作業も楽だし、出来るんだったらいっそその方がはるかにハイクオリティなものができるはずだと思ってるはずだよね?けれども学校は複数の人での作業をやるところだから、それが出来ない。結局一人でほとんど作業してる場合ってよく見るよね。これは結局みんながそれぞれそう考えているからだと思う。だから結果的にそうなってしまうことが結構あるんだと思う。権限移譲って、場合によってはそういうことだ。だからふつうの人間なら面倒だって本当はみんな思ってる。そういうものだ。あるいは複数の人でやらないと安定して長期間はできないことを分担するために、訓練するんじゃないの?会社とか舞台とか一人じゃできないことを訓練するためのものにすぎないよ。ネットみたいに一人でできることについて、アホ女子の私がそんなことするわけない。

というわけで、ここにあるのは君もみんなも大好きな、そんな1990年代ガーリーフォトみたいな、女の子写真の典型です。ついでに、TwitterもBlogもガーリーテクストに女の子テクストですね。

ちなみに、誤解があるといけないので言いますけれど、現役女子高生の自分は、荷物が多くなるのが嫌なので、脚立とか梯子とか持ち歩きません。撮影に使ったこともないです。あと三脚もよほどのことがないと持ち歩きません。必要な場合はだいたい一脚です。それでさえ本当に滅多に使いません。つまりまともな人ならこの程度のことは、足場の用意も三脚の類も必要なく簡単に取れることを意味しています。撮れない人なんていないよね?ついでに言うと、カメラバッグのデザイン等、いろいろあるといいなと思うタイプなので、カメラバッグ的なものを使うときはインバッグ型のものばかり使っています。最近はカメラ女子的にぶら下げてます。

 

 

写真もたまたまスマホとInstagramじゃないだけだってば。自分は現役女子高生だけど、写真家たるもの撮影からその最終出力に至るまで完全な権利と責任を有しているのが当然であり、普通ならみんなそう考えているはずであり、事実としてそうでないことなどありえないものと現役女子高生である自分は考えていますけど。Blogの落書き文章含めてこれ一人でできない人っているんですか?自分みたいな無教養な現役女子高生からすると本当に驚きだなー。まさかできない人なんて、このインターネット時代にいるわけないよね。Twitterはみんなリアルタイムで書き散らすインターネットのサービスとして何より有名だけど、Twitterとか見てもリアルタイムですごい文章とか大量生産してる人ばかりだもの。自分だって適当にその場で書き散らしてるアニメ見ながらの実況しかだいたいしてないし、みんなそうなんだと思う。大昔にはネット掲示板と言って、時間をかけて投稿していた時代だよもあるみたいだね、自分は知らないけど。でもいつしかネット掲示板もリアルタイムでみんなやりとりするようになっていった。気づくと長文のレスがリアルタイムでたくさん飛び交うようになった。Twitterはまさしくその末裔だ。それがインターネットの普通だった。自分は現代人だからリアルタイムでの投稿をする時代しか知らないよ。自分は自分の書いたテキストデータはすべて一つ残らず完全に一人だけで、たいていの場合リアルタイムで書いています。そう出なかったことなんて一度だってありはしない。

 

だってみんなスマホでいろんな写真を好き勝手に撮ってる時代だよ?膨大な文章をスマホ経由で読み書きしては送り合ってる時代だよ?毎日何億枚写真が作られているんだろうね?何億文字のチャットが1日で流れているんだろうね?数えたことないけど。このblogにある文章も写真も同じだよ?適当にまとめた落書き文章にすぎないし、ごくごく短時間でまとめたものにすぎません。あとPhotoshopとかLightroomだって、機能制限はあって結構不便だけどiPadやAndroidのタブレットで使えるよね。このBlogにある程度のものならごく一部を除いてiPadで全部出来るよ?まあちょっと長いし打鍵時間もあるといえばあるし、アニメとかのチェックすながら現像しながら適当に書いてたから数時間はかかってるかも。適当な落書き日記記事として時間的にかかり過ぎなのは認めるよ。でもそれは現像しながら適当に書いてたからにすぎない。今はちょうど録画が溜まってたSEEDの再放送を見ていて忙しいなかで書いてるの。日記よりアニメのほうが重要なのは当然じゃないの。西尾維新とかいう有名なおっさんは報道によると少なくとも二万字を毎日一人で生産しているそうだから、内容もそうなら分量的にもこのBlogの記事なんてカス同然だよね。敢えて言おう!カスであると!とかとはわざわざ言わないけど。世代が違うからそれは高齢者にお任せだ。あと生徒会の役員とかも忙しいよ。どっかのアンキモ会長とかどっかの黒い副会長みたいにネットジャンキーのネトゲ廃人じゃないけれど。

スマホのレンズと撮像素子?まさか撮像素子のサイズで写真が決まるとか言わないよね?じゃあ全部バイテンかそれ以上のフィルムで撮ればいいと思うんだけど。中判以上のデジにするのもいいよね。フィルムももちろん撮像素子ですけれど、撮像素子の種類やサイズにはそれぞれみんな役割があります。小さい撮像素子のカメラって便利だよ?サイズもそうだけど、被写界深度もあるのだし。フィルムグレインがどうのこうのいいたがる人もいますけれど、極端にフィルムグレインが意味を持つ場合以外はたいして変わらないです。撮像素子におけるそれだって、実はノイズ等を考慮すると変わんないですよ。今時等倍で見ると案外とフィルムグレインっぽいのだけど。そう、もしもノイズの形状みたいなのまで大事なら、やフィルムグレインが本当にそんなに欲しいのなら、いっそ35mmやAPSみたいな「大型フィルム」どころかミノックスみたいに小さなフィルムを使うといいんじゃないかな。小さなセンサを使えばいいんじゃないのかな?けれども2/3インチのセンサだって、半導体製品としては結構大きなものだって、なんか授業で聞いたことがあるよ? もちろんフィルムの光学的特性や形状、機械的性質が意味を持つ場合はありますけれど、同様にそのような機能を持つ場合は、シリコンの撮像素子にだってあり得ます。一例を挙げますけれど、マイクロレンズってご存知でしょう。なんでいろいろ工夫してるんでしたっけ。君の眼球は井戸の底に落ちているのかな?あとは三層センサやフジのハニカムSRとかのお話も、カラーフィルタの配列も、いろんなものがある。フィルムだって三色分解とか昔はしてたんだって言うよね。感光の特性については古いフィルムと現代のフィルムでは色々違う。モノクロフィルムであろうとも、どの波長に感光するかは結構大事な話でフィルムの歴史ではよく触れられるよね。それは、人が何を見ているかととっても強く関係しているよ。モノクロでも、どんな箇所が明るくなるか暗くなるか変わっちゃうんだ。現像手法どころの話ではない。もちろんカラー画像で色温度を変えて、モノクロ化すると近いことができるよね。つまり色温度やモノクロ化のパラメータ調整だって、過去の歴史を踏まえることに他ならないんだ。何にも自明なことなんてない。ちなみにフィルムの三色分解は最近でも意味のないことじゃあないよ。 http://www.fujifilm.co.jp/rd/report/rd057/pack/pdf/ff_rd057_004.pdf これはアーカイブ用途の技術だけれど、写真をいじっている人が敢えて作品としてこんなことをして見せて、展示したっていいんだ。 結局のところある特定タイプの撮像素子特有の条件なんてものは、どんなタイプの撮像素子にだってあるんです。動物の目だって、例外じゃあないよね?フィルムだっていろんな粒子の開発があるじゃないですか。フィルムは曲がりますよね。でも湾曲するセンサってどうなんだろう。湾曲を変化させる特許もありますね。ちなみにレンズ付きフィルムってどうだったか調べてみるといいよ。そして、コダクロームの凹凸やフィルムグレインの形状自体を重視するのなら、いっそデジで撮って、またはポジ自体を何らかの方法でスキャンして、3Dプリンタで出力すればいい。その方がむしろ本当じゃないの?もちろん作り上げるプロセスは違うけれど、機械的側面や光学的側面なら絵画におけるインパスト表現と一緒だよ。どの性質が同じであり違うのか、それ自体が作品の焦点となりうるよね。「僕のコダクローム」とか、いっそ「失われたコダクローム」とか「コダクロームへの鎮魂歌」(「†コダクローム鎮魂歌†(レクイエム)」とルビと記号を貼り付けると、みんな大好きな感じになるよね。「コダクローム、堕天!」って感じだ)というタイトルで、3Dプリンタで元のコダクロームより凹凸をずっと強調して巨大な出力をしたらいいと思うよ。それくらい現代と本当に格闘している写真家ならみんな思いつくよね。もちろんこれはやって良さそうな出力の一例にすぎないけれど、これがフィルムという撮像素子を考えるということではないのかな。もちろん、絵画表現との境界を狙うのならば、これを油彩で実現するのもいいと思うな。美術の歴史は技術の歴史でもあるし、写真は常に最先端の技術とともにあった。それとの格闘自体が写真でなくてなんなのだろう。それが嫌なら例えば2016年にトライXだけを使っていればいい。いっそニエプスにでもなればいい。しかしそれは、2016年に君がニエプスであることとは全く一致しないよね。彼はその時代においてそんなことをしていなかった。彼は当時の写真であった絵画に対して何をしたのかな。君にならわかると思うよ。

せっかくだから加えておくと、ついでにコダクロームの凸凹を現実にはありえないくらい誇張して、ブローニーのコダクロームくらいのサイズに3Dプリンタで出力するといいんじゃないかな。もちろん、油絵具とか岩絵具を適当になんかに混ぜ込んで盛り上げたっていい。 ただしこのときの厚みが問題だ。美術館の天丼の限界まで(横に展示するなら反対の壁まで)、一番厚いところを盛上げる。そしてこれが、元あったはずの現実の厚みなのです。フィルムの向こう側にはいつだってこの作品では尽くせないほどの現実があった。だがデジタルデータにはそれがない。本来フィルムの向こう側には、現実のなになにっぽいものがいっぱいあってとか適当にテンプレを張り付ければ、それだけで批評家ぽいぽい文章の完成だ。もちろん君は、そんなに現実が単純じゃないことを知っている。林檎を食べちゃった猿はもう裸でいられない。(本当は林檎かどうかどんな木の実かは、結構いろんな話があるんだってね)批評ぽいぽい文章なんていいとここんなもんでしかない。本来の自作の解説を書いて、ついでにこんな書き方も出来なくないですけどねって、同時に載せるといいかもしれないよ。これで君もいっぱしの批評屋さんだ。実作品だけじゃなくそれも一緒に、そんな批評ぽいぽい文章が高値で売れるうちに売り抜けたらいいんじゃないかな。もちろん、写真でなくたってみんな同じようにして仕舞えばいい。批評屋さんが卸業でぼろ儲けしているんだったら、君はインターネットというマーケットと直接取引したらいいんじゃないかな。あと、うちの女子校の国語の授業には購読の授業もあるんだけれど、君の学校にも購読の授業もがあると思う。それで使ってるテキスト読解の手法を使って、批評屋さんの文章を徹底的に解体して解釈し尽くして批判し尽くせばいいと思うよ。もちろん、そこにある書き方を好き勝手に使ってしまうことも悪くはない。自分ならやらないけど。批評という言葉の頭になんかくっつけた「なんとか批評」とかいうPhotoshopプラグインみたいな批評屋さんテンプレ専用photoshopプラグインが世間にはたくさんあることを君もよく知っていると思うけれど、そんな形は別に気にしなくたっていい。売り物になりそうなときに気が向いたら使ってもいいけど、特別お勧めはしない。インターネットに溢れかえっているどっかの元都知事パロディみたいに戦車に乗ってNOと言える日本になりなよ。実作者ではない批評屋さんは、どうせ直接扱えない。実作者ではない批評屋さんは、作品供給者からの供給が断たれれば、商売上がったりだ。みんな一斉に取引をやめればそれだけで干上がってしまう。批評屋さんはつまるところ、流通が未整備な時代における卸業者と見ておけばそれで十分だ。実作者である君が直接マーケットと取引ができるなら、そんな業者を無視しても何も起こらない。自作について同じように批評屋さんphotoshopプラグインを使って解説したって構わない。

 

 

もちろん大規模なセットを組むようなタイプの写真はありますけれど、少なくともふつうの写真の極めて大きな特徴は最終出力に至るまでの全プロセスが容易に一人でコントロール可能なところにあります。現代における古典技法の導入は、あえて言えばそれが前提されている。ふつうに考えれば、されていないはずがない。その現実あればこそ意味があるものでしょう。その明確な認識と観客との情報共有無しには、絢爛豪華な言葉でどれほど詞書を飾り立てたところで古典技法など、悪趣味な衒学にすぎない。 そのはじまりがカメラオブスキュラでしかなかった暗箱は、当初は完全に手作業であった写真となり、湿板となり、乾式の板、フィルムが構成され、AEが開発され、AFが導入され、モータードライブも当然となって、レンズ付きフィルムとともにネガも急速に進化した。ネガフィルムの急激な進化が「写るんです」とかによったことは覚えてるよね?そしてその現像からプリントまでにどんなことがあったのかも、途中にあった問題も知っているはずだ。スマホ写真ってどう考えるべきだと君は思う?もしも君がネガフィルムを持ち上げるのなら、その進化が当時のスマホ写真によって出来上がったことを覚えておくべきだと思うな。そして銀塩プロセスはいつしかシリコンの上に全て乗り、高感度が求められ、秒間十数コマの連射、4Kや8Kビデオも内臓といった「カメラ」の自動化の歴史とはまさにその歴史であったはずです。 もちろん、ポジフィルムだって大事だよ。ポジフィルムは仕事のためのフィルムであり、スライド上映のためのフィルムでもあるし、もちろんふつうにネガフィルムみたいにも使うことができるんだ。ポジフィルムの色は昔ならより取り見取りだった。ポジフィルムは、公と私を跨ぐという意味で、ネガフィルムよりもしかしたら関係する議論においてはずっと大事かもしれないよ。社会における写真を重視するならば、ポジフィルムの方がずっと議論されなければいけない。自分で色を積極的に選ぶという意味でも、ネガフィルムにもまして「私」を写す撮影者のものかもしれない。色を買ってきて使う、消費社会の権化みたいなフィルムでもあった。 少なくとも写実を求めるタイプの画像データによる表現において、洞窟の壁画から、シリコンの撮像素子とソフトウェア処理に表示デヴァイス・出力デヴァイスに至るまで全て一直線につながっていることは誰にも自明のことであるはずです。これを踏まえずに絵画史も写真史も、そして美術史もない。洞窟で壁画を描いた人物が、写真を夢想しなかったなんてヨタ話を本当に君は信じられるのかな。そんな与太話みたいな現実なんて、絶対にありえないと私は思うよ。 jpgだからいじっていない?とんでもない。その出力は大昔ならNASAくらいしか使ってなさそうな高度なソフトウェア処理の賜物ですよね?それはフジやニコンやキヤノンやリコーやオリンパスやソニーやパナやライカとかの技術者が作ったアルゴリズムが出力したものです。それも完全に0から作っているのではなく無限に遡れますよね?出来合いものの調整とか言いたいですか?DSPがどうしたって?富士通かどこかのチップ?いいえ?もっと遡った計算機の多くがその祖先でしょう。大昔の資料を読むとファミコンは真空管で作るとビル一つという比喩が出てきます。チューリングマシンという言葉はもちろんご存知のはずで、コンピュータは理論により作られた工業製品です。そして行き着く先は古代のギリシア、場合によってはもっと前でしょう?ちなみにアルゴリズムって語源はどうなってましたっけ?そしてなぜ「地球シミュレータ」などと大それた名前を一つのコンピューターにつけたのでしょうね?便器デュシャンも逆立ちしたってかなわない。今更たかだか可視光線のベタ写し?だけをもって、現実の写しを考えることにどれほど意味があるのでしょうね?撮像素子の特性は?周辺回路の構成は?フィルムの時代は違ったなんてまさか思いませんよね?コダクロームがVelviaに変わった?フィルムや薬品やラボとかの選定なんてPhotoshopで出来合いの有料フィルタをかけているのとどこが違うのでしょうか。何一つ変わりはしない。jpgデータなどラボに特定スタイルでの出力を指示したプリントと完全に同等であることなど、写真を扱う者は誰もが知っている。知らないことなどあり得ない。撮像素子からの出力さえどのようなものであるかを考えれば、生のデータなど事実上存在しないに等しく、あらゆるものはデータ処理の賜物であることなど当然のことでしょう。もちろんどの印画紙もある特定の特性を持った出力媒体にすぎない。そして、知らない者が写真を扱っているなどということはあり得ない。生の未加工データであるなどと主張しカメラのjpg出力を神聖視する者は、絵画もカメラもフィルムも印画紙も引き伸ばし機も薬品も暗室も美術史も写真史も技術史も全て焼き捨てればよく、ついでに歴史上存在してきた全ての関係する開発者も一人残らず踏みつけにしたらいいんじゃないですか?半導体に限ってもショックレー以下全て同様です。言い換えましょう。そのように主張することは、焼き捨て踏みつけることと何ひとつ変わらない。技術者の顔が見えなくて不安なら、全てではなくても関係する特許を調べれば、名前が出てきますし、うまく検索すればインタビューも見つかりますよ。雑誌記事も論文も、うまくすればネットでも簡単に見つかります。ラボの担当の人の顔が見えても、技術者の顔は見えないなんてことはありません。調べるか調べないだけです。いっそ一流のプロなら、フィルムメーカーやカメラメーカーの技術者とお話もできるでしょう?ラボと何か違いますか? そしてこんな話もあることは覚えていてもいいかもしれないよね。 http://www.mirrorlessrumors.com/curiosity-sensor-improved-15-stops-10-years-development/ http://digicame-info.com/2016/11/1015-1.html つまり素のjpgって、結局何なんだろうね?もちろんこの話が本当に正しいかはまた別だよ。DxOの話なんて信じなくたっていい。けれども、このような話とデジタルデータの最終出力、この組み合わせがいったい何を意味していることになるのか、君にはわかるんじゃないのかな。 まあいいや、背面液晶は、写真となることで一度は失われた、写実寄りの絵画表現のリアルタイム性の回復であるとも理解されるかもしれませんね。つまり背面液晶の排除されたカメラは一面において古典を参照しつつの「近代化」なのです。切り離し可能となった時間がへばりついたのを、再び切り離そうとする試みでしょう。分割可能なプロセスを「近代的」に分割をして見せたのでしょう。しかし、実際にはいろんな分割があり得ますよね。やってよさそうな分割のせいぜい一つにすぎません。いいサンプルがあります。フジのX100シリーズやX-Proシリーズのファインダーは割と特殊で表示を幾つか選べますが、何を時間的に分割しているでしょうね?ではレンジファインダーカメラは?遠隔の表示によるファインダーは?EVFの解像度や遅延やフレームレートは?ドローンで写真を撮ることはどうなんでしょうね?多分ドローンでの撮影は通常RAWをリアルタイムでは確認しない。ソフトウェアによるトリミングは?ファインダーの視野率は?一眼レフのファインダーは一体何を見ているんだろうね?関係しそうな問題は「技術的に明確でありその上で具体的に誰でもが挙げられるものだけでも」無限にあることが誰にも明らかですよね。


その点において、作曲家によるソロの演奏以外、アンサンブルをバンドをコラボを個人の組み合わせにより構成する必要のあるライブの音楽とは明確に異なります(それもが、PCの上にある音楽にあっては確実に怪しい。実際は同型になりますね。まずはこう書きますが)。それの出来ないものなど、デジタルカメラの時代にあって誰人も写真家と呼ぶことなどありえないでしょう。そして私はそんなものを写真家であるなどと何があろうとも認めない。そんなものを写真家などと呼ばれることなど、何があっても許されず、一切写真家としての権利などありえないものと私は確信しています。これら自動化された機材について疑念ありとするのならば、理工系の人ならば、撮像素子相当のものさえ、自作が可能であると加えておくべきでしょうね(まさか!美術屋さんはムリなのかな?それってそもそも美術なの?美大とかでやらないのならなんのための学校なのかな?)。古典技法程度の画質ならば、高専でも出ていれば誰でも作れるでしょうし、機材が他人のものであるからと論ずることも愚かしい。例えば太陽電池は単純にセンサとして使えますから、秋葉原にでも買い出しに行きアレイを構成すればいいですよね。素子は大きくなりますが、大判のレンズでも用意すればどうにでもなります。この側面に問題があると言うのならば映画に作品としての価値などない。そんなことを言いたい人に対しては、それまで自分の描いた絵画を全て焼き捨ててカンバスの材料を栽培するところから始めればよく絵の具の材料を鉱石から作れば良い、ついでに誰にも教わる事なく一から遠近法等の技術も開発しろという話にしかなりません。絵画技法は明確にその時代のテクノロジーです。出版されるのならば、印刷機から作ればいいのでは?テキストデータも含みその頒布が問題となるのなら活版印刷を発明したら良いですよね。もちろん、写真製版は文字とも一体であって、なんか古いものがとりあえず偉いとかそれを使ってるのが偉いというのなら写真を足蹴にして出版なんかできやしないことになってしまう。そこにある技術は根本的に一緒なんだ。ついでに言うよ、現在君がこの文章を読んでいるコンピューター製品の根幹であるCPUとかを作っているステッパーという機械は、どんな原理を使っているのか確認しておくことにはとっても大きな価値がある。きっと君にはこれで十分だ。ステッパーは、現在地球上に存在する機械のうちで最も精巧な機械の一つで、あらゆることはそれなしにもはや出来やしない。過去の技術の集積によってあなたの行動は規定されている。たかだか美術だってその程度のものでしかない。別に私は一部アーティストっぽい人たちみたいにアジテーターにはなれないし、そんな大それたことを語る勇気もありはしないけれど、賛同する気も特にないけれど、だから例えば全てが数理的な手法によって記述されるとは主張しないけれど、結局我々はそのような手段を用いてしか、その時点で可能なところに到達できないんだ。表現活動に関わる人たちが口先で何を語ろうとも、言い回しはともかく事実上その方面の技術について似たようなことを考えていると思うのだけど違うのかな?でなければわざわざ修練なんてしないでしょう?作家っぽい人たちや批評屋さんたちはだいたいみんな大言壮語で、みんなカッコ良さそうなことを言ってて羨ましいですね。現役女子高生の自分にはとてもできないな。 ともあれ技術に関して重要なのはそこであって、全てがなんらかの数理的手法をもって記述可能かどうかではない。技術は用いるがいい、だって全ての人為は、洞窟から、石器から、すべてそうだったのだもの。絵筆だってどう違うというのだろう。スーパーカミオカンデも、原子間力顕微鏡もステッパーも地球シミュレータもジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡もカール・ジャンスキー超大型干渉電波望遠鏡群も(群であることに注意しよう、これらはまとまって撮像素子だ)、重力波望遠鏡のKAGRAも、そしてこれらを扱う理論もソフトウェア群もみんな等しく我々の、つまり私や君の、目であり耳であり手足そのものだ。それが我々の手にした絵筆でありカメラオブスキュラでなくて何であるというの。 写真における自然さについて安直なお話をしたいのならば、上に書いたようにテキストの上でならすべてが写真屋のパシリでしかないことにも簡単に出来るんだよ。コンピューターなんか投げ捨てたらいいと思う。物理的デヴァイスのそのような側面が問題とするのならば、表現などそもそも存在しえないとするのがもっとも正直な立場であり、全て投げ棄てろという結論がもっともシンプルだ。馬鹿馬鹿しいから私は乗らないな。 画像の生成という点について言えば、全て完全なコントロールと権利を有しうることこそが現代における写真のもっとも重要な側面でしょう。高感度があればそして最終出力に対して、十分な解像度とダイナミックレンジが得られノイズが低減できるのならば、三脚だって投げ捨てられる(手振れ補正も可)。一人ではない美術の歴史ですって?現代の写真において、工房システムなどガラクタにすぎません。その不要性こそは、自動化の実現したもっとも重要な側面でしょう。音楽を含む他分野においてさえ、事情が何か異なるのでしょうかね?もちろん、これは今iPadとiOSへの対応が不適切なAmebaのBlog用エディタで書いています。

また、どのように撮影しているかを念のために加えておきましょう。

最初の二つの記事は、たまたま近所のイベントに行ってきた際に撮影がOK牧場そうだったので(特にアニメミライについては、みんな撮りまくっていて、三脚を立てている人までいました)撮影した日記にすぎません。もちろん12月04日のものも同様。前二者は、Pentaxの31mmとK-01で撮影しており、主にLightroomで現像しています。もちろんトーンは適切そうに調整しています。トリミングも一部にはありますね。使用レンズは31mmの一本だけで他は一切使ってません。三脚も一脚もありません。APS-Cですから31mmなら標準レンズ一本だけで撮影しているのと同じです。現像にはさほど手間はかかりません。尤も、プロジェクターで投影されている映像は、どのように見えているかを重視するために(但し単独でもっともらしく見える様に、ある程度のコントロールのあることも否定はしない。)ある程度トーンカーブ等の細かな調整があります。コントラストがプロジェクターの投影のためちょっと低く、そのためプロジェクターで投影された画面の要素を弁別しやすい様に、ヒストグラムの特定範囲のコントラストが明瞭となる様に、トーンカーブをある程度コントロールしているとは言えますね。意図はとても簡単です。ちなみにK-01には「銀残し」というフィルタがあるので、それが少し気に入っていたため、少しだけ参考にはしています。但し実際はLightroomでRAWデータからの構成であり、実際には自分でやっています。横長の写真では31mmでは画角が足りないこともあり、Photoshopの変形を使用しています。片側が解像度不足なのは、それが理由です。K-01はなかなか可愛らしいボディですからちょうどよいのです。

12月04日のものは、フジのXF16mmと、フジのいちばん安いカメラであるX-A1一台(色付きボディがあるので女子的には助かります)だけで撮影しており、他には一切使用していませんし、全部手持ちです。だって単なる日記写真だもん。それは最初の二本の記事も同じです。現像にはiOS版のLightroomを試用で使っていて、現場の状態が把握しやすい様に、また終わりに解説のあった照明の意図を汲んでトーンを構成しています。コンサート総体の音響等を重視して、クールトーンとなるようにあえて調整していることになります。ちょっとここのところ時間がなかったので、2週間くらいしてからアップロードしていますが、データを放置していただけで、現像自体は数時間程度です。商用に厳密に調整するのならばもう少し時間はかかりますがそんなものです。実際にはより細かな調整をしていますが、10年前ならばタングステン光用のフィルムを使用してわざと色温度を変えた撮影をしているのと大して変わりません。もちろん色調整用の(レンズの前に置く方の)フィルタを使用しても大まかには同じ結果になるでしょう。よく見るとタングステン用のフィルムとは色が違いますよね。光源を確認してください。

但し撮影時点のカメラ側のパラメータ(露光等)、そのような結果となるように、撮影つまりRAWデータを作成していることにはなります。モノクロ時代から、トーンの調整は暗室で写真家個人の扱う領分であり、それはデジタルデータになろうとも何も変わることがないですよね。ただそれだけのことに過ぎません。その点において、写真史1世紀半程度、何一つ変化などないのです。あるはずないじゃないですか。まさか違うと本気で思うんですか?AdobeのソフトウェアはLightroomですから、つまりそういうことです。でもロラン・バルトって念頭にあるのかな?私は無教養なのでよくわかりません。

もちろんどちらもRAWデータから全て自分でコントロールしていますけれど、これは写真家ならば誰もがそうでしょうし、私は現役女子高生ですから大したことではありません。たかだか高校生でも写真部でやっているくらいですし誰もが暗室作業の訓練をしているはずであり、それをAdobeのLightroom上でエミュレーションしている程度にすぎないと思っています。但し暗室で同じことをしたいとはあまり思いませんが、少なくともモノクロならばマルチグレードの印画紙とフィルタを用いて(ここは多少のノウハウがあり、文字での解説は少々煩雑となることは事実です)容易に事実上同じトーンが構成できるでしょう。カラーは手間なのでやりたくありませんが原理において違いはない以上、原理的には可能です。細かい処理が必要ならばRGBの三色に分解して何段階か類似プロセスを用意すれば(必要な解像度を確保するために必要なフィルムサイズ等は要検討)どうにでもなるでしょうね。全く同じことをするとなると大変ですけど。カラーの暗室経験はないですけど、本を見れば誰でも出来ますね。今更やる気にはなりませんけど。だって暗室も用意しなきゃいけないし、必要な機材とか薬品や印画紙とかも高いんだもん。ていうか暗室はもうやりたくないな。現役女子高生が古いカタログを見ると、昔と違って印画紙とかがいま激減してるし。で、これはPhotoshopと何か違うのでしょうか?むしろPhotoshopよりもずっとPhotoshopでしょう。ビット深度、解像度、同じことでしかない。結局のところ写真における自然さなんて、Phtographyにおける自然さなんて「ナチュラルメイク」の自然さ程度の幻想で、最初から実態は何も変わらないんです。

だって、Lightroomができることは、暗室作業の延長程度のことでしかない。Photoshopができることも実際ある程度触れば非常に限られていることがわかる。Photoshopを使用したすごい修正は、単なる膨大な手作業でしかなくて、絵を書くのと似たようなものですよね。ですから実際にはPhotoshopがなんでもできるかのように語る人はたいして触っていないんじゃないでしょうか。面倒なので私はそんなことできません。できる人はすごいですね。Lightroomって、本当に暗室程度なんですよ。いくら頑張って弄ったって。それでも私はふつうに原理的にはフィルムの選択やフィルタの選択や暗室でできる範囲を常に意識してはいます。但し実際の暗室ではちょっと大変(もしかしたらすごく大変)ということは含むでしょうね。それは、デジタルということではないでしょうか。あとタングステン用のフィルムがいまはもうありません。求めるならばRAWを処理するかカメラ設定に任せるかしかないんです。色を補正するフィルタなんて面倒だしやってられない。それに、それって撮像素子や画像処理で行うのと根本的にどこまで違うんでしょう?そして何より大きなことですが、もうフィルムは我々の手元にほとんど残されていないという現実を無視して、デジタルプロセスやその処理を否定することは現実を無視しているだけで、言いがかりをつけたいだけで、そもそも写真なんか見ていないんじゃないでしょうか。やってたら実感していないはずがない。新宿のヨドバシで、フィルムや印画紙を見てみたらいいですよ。もうほとんど残っていない。大昔のカタログを見ると滅茶苦茶たくさん種類があるのに。そんな現実にあって、今更大昔の議論を持ってくるなんてどうかしている。そんなことを言う人は、もう写真なんか語る資格がない。だってそれについて知ろうともしていないのだもの。写真をそもそも何も知らないのだもの。
だからこそなんとなくのjpg出しっぱなしっぽいものを求めるというのなら、なぜか日本人がやたらと大好きな、絵画における印象派等はどう扱ったらよいのでしょうか。これも類似の試みの一つにすぎません。自然やリアルを求めることは大変です。なぜわざわざ実態に近づくために、多様な画像処理を宇宙観測では用いるのでしょう。観測で得られたものの、ある側面を浮き立たせるためです。それが自然や真実を求めようとするものでなくてなんでしょうか。人が理解しやすいように、色なんてない可視光線外の観測データに色をつけることはとても大事なことです。表現としての写真だけが例外であると考えることが、私にはそもそも出来ません。まともに考えられる人ならば誰だってそうだろうと私は考えています。紫外線写真や赤外線写真が写真でありPhotographyとして扱われるのならば、X線写真だって、他の波長の電磁波だって変わるはずがありません。一例を挙げますが、コダックの赤外線を写すポジフィルムがありましたよね、EIRというそうですが、コダックの公式にはもうないかも?これはそもそも可視光の外に色をつけているのですから、明確に人為の塊です。色を調整するどころか、人間の直接見ることのできる可視光線の外側も写して、その上でそこに色までつけている。可視光ベタ写し(本当はこれだってそうじゃない)が自然だと信じるなら、こんなもの使っていいはずがない。けれどもこれは、ある種の目的には例えばとても大事なフィルムだったのでしょう?用途には科学技術用途みたいにあったような気もしますよね。ていうか、jpg色設定を変るのも結局同じことなんだけど、RAWをいじるのがだめなら銀塩プロセスで色をいじるのもだめだよね。ニナミカは失職しちゃう。そんな世界滅びればいいんじゃないかな。彼女を失職させたいならさせればいいけど、きっと君にはそんなのムリダナ。可視光線のある領域を浮き立たせることは、現実のフレーミングとなんら変わりません。時空をどのように切り取るかの違いでしかない。あるISO値、あるシャッタースピード、ある絞り値、あるレンズ、あるフィルム、あるカメラの置かれる位置、あるカメラの向き、これらかもう少しあるか程度のパラメータ(被写体となる側はちょっと捨象してます)でひとつの写真は決まりますが、これらのパラメータと同様のパラメータとして現像がある。そこでのパラメータの選択がある。ある時空をその状態を適切に切り取るために。当然のことです。現実も自然も、我々自身が切り取らなければ現れてこない。ハッブル宇宙望遠鏡を使う人たちがそのデータ処理をする人たちが写真家でなくてなんですか?1200mmより使ってみたい望遠レンズですよね。

なになに?写真家じゃなくてPhotographerに光画?だからそのことを言ってるんじゃん。いっそ紫外線とか赤外線もX線とか諸々の電磁波をひっくるめて、電磁波をどう変換するかという話でしょう?なおさら馬鹿馬鹿しい話になると思うのだけど。別に光子といってもかわらないですにょ。とりあえず、フジとかコダックのフィルム会社のフィルムの解説でも見て見たらいいのではないのかな。あとはスペックシートみたいなのとか。ついでに関連特許も見てみると楽しいよ。

そしてもう一点。洞窟の壁画を最初に描いた人類が仮におぼろげにであれ写真を夢想していたとするのならばその最初の人類は次に「地球シミュレータ」を求めなかったと本当に信じられますか?洞窟の壁画から地球シミュレータまで、完全に一塊の表現であり、美術史が将来において描かれるのならば、これら全てが一線に並べられて当然ではないでしょうか?このお話に、印象派、表現主義といった話を持ってきても良いでしょうけれど、私は持ち出しません。だって、それを持ち出さなくてももっと全てを描こうとするものがあるのですもの。未来にあるはずの美術史において、ラスコーの壁画と地球シミュレータという試みが異なるなどと誰がいえるでしょうか。洞窟に壁画を描く猿である人類が地球シミュレータを作り上げたのです。

私は貧困家庭現役女子高生女子なのでまだ使ったことがないけれどドローンによる撮影だって最近なら珍しくないよね?ドローンが当たり前の現在ならば、惑星探査機だって写真機の同類にすぎません。例えば君がネイチャーフォトをやるんだったらグランドキャニオンをより美しく撮影するために、きっと少しくらいの危険を冒すんだと思う。NASAのエンジニアという、当時地上最強のアーティストたちが全くその通りだった。もしかしたら探査機に問題が発生するんじゃないかというリスクを犯しても、必要な写真をとるためにはそうするべきだと考えた。君ももしかしたらしってるかもしれないけれど有名な惑星探査機のボイジャーは、流し撮りみたいなことをしてるんだよ。これは当初予定されていなかったことだったそうなんだけど、より鮮明な画像を得るために、20世紀を代表するネイチャーフォトグラファーであることになるNASAの技術者たちが懸命に工夫した。そして、地球にはたくさんの鮮明な惑星写真があって、いま君はネットですぐに見ることができる。そのリスク?もちろんいろんな人のクビくらいかかっていたかもしれないけれど、それだけじゃない。惑星探査は国を巻き込んだ大撮影会だ。ボイジャーの撮影にまつわる話は結構ある。他にもあげてみようか。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%88 莫大な国家予算が注ぎ込まれた、グランドキャニオンの撮影に、何をしたかということだ。この撮影に賭けた人たちは、真実にギャンブラー、本物のアーティストだ。彼らが字面通りにアーティストでないのなら、ほとんどの写真家はお話にもならない。もちろんNASAのアーティストたちは、普段君が撮影前に準備するのと同じことをしている。撮影後の処理だって変わりはしない。過去の撮影でテスト撮影みたいなことをしていることになるし、実際にはどんなことになるのか文字や図を使って、紙の上やシリコンの上で検討している。あまり詳しい話を私は聞いてないんだけど、地上でも実験とかしてるかもしれないね。アポロ13号でNASAはどんなことをしてたっけ。後処理についていえば、例えばNASAのアーティストたちはペイル・ブルー・ドットの撮影で、60億キロメートル彼方にあるドローンから送られてきたデータについて、LightroomやPhotoshopや暗室でやるのと同じように、現像処理を行って、かすかな地球を浮き立たせた。元のデータが公開されているか自分は確認してないんだけど、多分ろくに見えないものじゃないかな。そんな時には誰だってLightroomやPhotoshopで暗部を持ち上げる。このPhotoshop写真が写真じゃないのなら、いったい何を写真と呼んだらいいんだろうね。 ボイジャー計画の写真に賭けたチップは10億ドル(という国民の税金、百万ドルの夜景なんてカスみたいなもんだ)と国家の威信、そして世界の半分。観客は全世界、100億の瞳が観客だ。 もちろんいろんなことを彼らは語っている。しかし彼らは一個のアーティストとしてはどうだっただろう。その底無しのエゴイズムが見えない者に写真など語る資格などあるわけもない。NASAは当時の世界の半分を代表する機関であって、その威信は世界の半分だ。全体への奉仕を道具として、自らの欲望に世界の半分を賭けていないなんて誰がいえるだろう?何より個人として見たかったのでなくてなんだろうか。もちろん、当時最先端の電子機器とソフトウェアがボイジャー計画には注ぎ込まれている。より大規模な機械でしか実現できず膨大な数の人間によってしか実現出来なかった、現代のデジタルカメラの全てがここにある。 人はその求めるものしか見ないのであるとか?こんなテンプレを君だって使ってしまった恥ずかしいことがあるんじゃないの?ならば全てを求めればいい。ブラックボックスなど存在しない。ブラックボックスというのなら、過去の全てはブラックボックスだった。ブラックボックスであると君が信じる限りそれはブラックボックスのままだ。全てを求めればいい。全てを見尽くせばいい。どんな機械例えば神託を授ける機械だって解体し尽くし、自らの手で再構築し、改良するも好きに作り変えるもいい。所詮そこにあるものは未だ神託を授ける機械などでありはしない。そんなものにどんな神聖もありはしない。それの出来ないもののなにが写真屋さんなんだろう?その覚悟なくしてなにがお写真なんだろう?所詮写真機なんて、魂を抜き取る血塗られた機械だよ?それをまさか君は知らなかったの?写真機で奪い取れる全てを奪い尽くせばいい。そんな機会があったなら、君だってNASAのアーティストが「実際にやって見せたように」世界の半分も宇宙の全部も、賭けてみたらいい。所詮写真を求める限り君もファウストでしかない。写真の通り過ぎた後はいつだって血みどろだった。戦争写真は、写真の代表的なものだった。たまに地雷を踏んでハイさようならとなるけれど、まあそれもご愛嬌ってもんだね。自分はあんまり踏みたくないけど。洞窟の壁画はなぜ描かれていたんだろう。描かれた動物は、最初の人類にとって切り刻まれるべき獲物にすぎなかった。宗教じみた願いを見出したっていいけれど、それが血を滴らせる肉塊の豊穣を求めるものでなくてなんだろうか。石器を手にする前からずっと君の手も血みどろで、君の行く道だって最初から最後まで血みどろだ。君の体だって最初からその内側まで血まみれであることくらい、小石につまづけば誰でも知っている。シャイロック?そういえば造血幹細胞とかってどうしたらいいんだろうね?最初から手にしていた権利を手放す必要なんてない。 描き得ないものを描くなんて、唯一全てを奪い尽くしたと確信したものだけに許された極限まで独善的な大言壮語だ。まさか君はそんなことを語れるなんて言わないよね?自らの卑小を知らない者に、何が得られというの?ところで写真機とは「地球シミュレータ」でもあった。最初の絵画もまた、元あったものの大規模な変換であったが、デジタルカメラには小さな地球シミュレータがついている。もう少し大きな地球シミュレータにデータを読み込むことだってできる。ピエゾ素子で噴霧されるインクでプリントすることも、3Dプリンタも好きに使えばいい。現実にそれを作り上げた脳だって、地球シミュレータと何が違ったんだろう?現実に「存在」し得る宇宙の姿なんて所詮君を含めた人類の脳が理解できるもの以上ではないんだよ。 ところで日本語における写真という言葉は、過去において実質的な誤訳であった可能性を否定できない。というかはっきり言って単なる誤訳だよね。けれども今となってはどうだろうか、却って便利にあらゆる可能性を示してくれる。アリストテレスは「形而上学」の冒頭で「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」とか言ってるけれど、直接獲物を捕らえる最先端にいたのは、その時代の「写真」だった。常に写真は時代の前衛にいつづけた。文字だって視覚を通してしか得られない。点字とかはあるけれど、それを作るには多分視覚がないと難しい。音声の記録だって「写真」の一種だとしたって問題ない。だって日本語の写真はPhotographyじゃないんだもん。すべてを知るために、すべてを切り刻み、すべてを血祭りにあげて仕舞えばいい。「このあとスタッフが美味しくいただきました」の重要性は指摘するまでもない。血まみれの肉塊を、すべて喰らい尽くせ。

野暮なので、普段こういう話はしないことにしていますから、今後多分(滅多に?)書かないと思います。でも会話としてならば、日常会話と変わりません。短時間で書いてるのでろくに調べてないし、ついでに誤字とか多いだろうし後で少し直すかも。