★★★3-2
スウィートルームの乗客は神と対等だ。
「伯爵は昼食と夕食はレストランに行かず、毎日部屋で召し上がるそうだから宜しく頼む」
厨房を担当する乗務員にクッキーは頼んだ。
知り合いという縁でクッキーはスウィートルームの担当船客係を任された。
ご主人に頼まれた幾つかの項目を、クッキーは淡々と遂行する。
その中の一つは呼び名についてだ。
伯爵と呼んでほしい。グランチェスターの名は口にするな、『テリュース』はもっといけない―
ご主人の言うことは絶対だ。深く詮索せず、とにかく言うとおりにするだけだ。


 

「部屋で食事をするの?どうしてそんな事をクッキーに頼むのよっ」
不思議に思ってキャンディはきくと、真顔で切り返された。
「君はニューヨークのレストランでの一件をもう忘れたか?誰かにジーと見られた状況で、おいしく食べられるのか?例えばそれが五十人の眼だったらどうだ?」
「・・それは、食べた気がしないわね」
五十人を想像してキャンディはゾッとする。
「そうだろ?テリュース・グレアムと普通にレストランで食事をすると、間違いなくそういう状況になる。だから多少の制限と演技が必要なんだ」
「制限って、部屋での食事のこと?演技って?・・まさか伯爵?」
キャンディはおもわずプッと吹き出した。
「笑うなよ。人間は、この人は伯爵だと紹介されたら、そう思い込むものだ。印象操作して、正体がばれるまで時間稼ぎをする。バレる頃にはこの船ともおさらばだ」
テリィの描いた薄い台本が発表された。
印象操作――この言葉を聞いてキャンディは大おじ様を思い出した。
人から繰り返し聞かされると、見た事も確かめたこともなくても、真実の様に錯覚してしまうものだ。
若いアルバートが、いつの間にか今にも死にそうなお爺ちゃんにすり替わったように。
「だからってあなたが伯爵だなんて、みんな信じるかしら?」
「役者を甘く見るなよ。それに全くの嘘って訳じゃない。リアリティを出すには、嘘の中にも真実を混ぜることだ」
「・・どういうこと?ご実家は公爵家でしょ?」
訳が分からないキャンディはテリィに説明を求める。
「貴族の慣習だよ。グランチェスター家は、公爵以外にも複数の爵位を持っている。家督が全爵位を継承するわけだが、その前に嫡男の愛称っていうのかな、父親に次ぐ高い爵位で呼ばれる事があるのさ。まぁ、俺がストラスフォード伯爵と呼ばれたのは正式な跡継ぎが生まれるまでで、自分でも最近まですっかり忘れていたけどね 」 
嫌そうなそぶりも見せず、テリィは貴族の習わしを饒舌に語った。
「正式な跡継ぎって、義理の弟さん・・?」
テリィには継母が生んだ三人の弟妹がいたはず。
「・・そうだよ」
初めて聞く話にキャンディはため息がでた。貴族社会はアメリカ人には想像もできない。
「どうしてストラスフォード伯爵なの?まだ入団もしてないのに―」
「領地の名前だよ。ま、あそこは正確には領地じゃないけど。シェークスピアの故郷、俺たちの目的地さ。アメリカの劇団名の由来にもなってる」
キャンディの頭はごちゃごちゃしてきた。
「何だか急に肩が凝ってきたわ。上手く演じられるかしら・・。それで私の役柄は何?伯爵夫人?」
「う~ん、君は伯爵夫人には見えないなぁ。あっという間にぼろが出そうだ」
「まあ、失礼ねっ、私だって演技くらい出来るわよ!」
「キャンディは伯爵の恋人ってことで。演技はいらないよ。そのままでいい―」
テリィは微笑した。

午後になると、テリィは稽古部屋にこもって稽古を始めた。
「君は好きに外で遊んでいいよ。夕食の時間には戻ってこいよ」と『伯爵』から寛大なお達しがあった。
ここにいても稽古の邪魔をしてしまいそうだったので、お達しのとおり船を探検することにした。
この船では一等・二等船室の乗客は、専用レストラン、ラウンジを除き、概ね同じフロアーを使っている。
潮風が入ってくる開放的なプロムナードデッキ、彫刻細工が美しい階段を要した大広間がこの船の自慢らしい。航海の後半には大きな舞踏会が開催されるとクッキーが言っていた。
「・・ドレスなんて持ってないわ・・・」
切り刻んでしまった若草色のドレスが、今頃になって恨めしい・・。



  スタッフ以外立ち入り禁止


船の後方に突如として現れた看板。そう書かれると、覗きたくなるのがキャンディだ。
「私はスタッフ、スタッフよ~」
自分に暗示をかけながら足を踏み入れようとした時、
「きゃぁー・・!」
近くで悲鳴が上がった。
ボイラーの吹き出し口から出た熱風のいたずらか、洗濯物が巻き上げられるように飛ばされ、同じ年ごろの女性が必死に追いかけている。テーブルクロスのような白い布。
洗濯物の行方を目で追っていたキャンディは、奇遇にもそれがスウィートルームのデッキに吸い込まれていくのを目撃した。
「あーあ・・。まずいことになったわ。よりによって上級乗客の専用デッキだわ。どうしよう・・」
途方に暮れているその女性に、キャンディは声を掛けた。
「私に任せて」
見上げるとデッキからポワ~と白い煙が上がっている。テリィが煙草を吸っているに違いない。
「テリィー、そこにいる?」
少し待ったが返事がない。
「テリィー!いるんでしょ?そこに落ちた白い布を投げてちょうだい!」
キャンディは更に声を張り上げた。

しばらくテリィの返事を待ったが、やはり応答が無い。
テリィの助言を思い出したキャンディは、三回目はお腹から声を出した。すると、
「――君が取りに来いよ」
ようやく言葉が返ってきた。
女性は「あら、よく通る声・・」と感心した様子で上を見上げた。
確かに女性の言う通りだった。
大劇場で芝居をする役者たちは完璧な腹式呼吸をマスターしているからなのか、こんなノイズだらけの所でも絶叫せずに声がよく通っていた。
バレたらまずい、と咄嗟に慌てたキャンディは、部屋へ戻って布を回収しようと思ったが、ポールのような棒がデッキの直ぐ横に立っていることに目をつけ、パチンと指を鳴らした。
ポールの用途は不明だが、安全だと判断したキャンディは裸足になり、スルスルと上っていく。
「意地悪ね、いるんだったらとってくれてもいいのにっ」
煙草を吸いながら優雅にデッキで休憩していたテリィは、予想もしなかった場所からのキャンディの登場に、ゴホッゴホッと思わずむせてしまった。
「・・これは、これは、この船にはモンキーがいるんだね」
「まあ、失礼ねっ、どこがモンキーよ!」
ポールにへばりついて文句を言うキャンディの姿は、どこから見てもモンキーだ。
テリィは笑いを堪えるように「目的の物はこれかい?」と、白い布をキャンディに渡した。
「そうよ!」
奪う様に受け取った時、床に指を差しながらテリィはニヤッと笑った。
「・・しかし、なやましい姿だな。・・下に男はいない?見えちゃうよ」
キャンディはハッとして、思わず下を見る。
(・・大丈夫。下は立ち入り禁止区域。彼女しかいない。でも見つかったらまずいっ)
「さ、さよなら!」
キャンディは布を肩に掛けると急いで下へ降りて行った。
下で待っていた女性は、興奮したようにキャンディに感謝の言葉を述べると瞳を輝かせた。
「あの部屋の乗客なの?すごいのね!」
(あ~、やっちゃった・・・)
伯爵の恋人を演じなければいけなかったのに、モンキーを見せてしまった。
「い、いえ、あの部屋は、ち、違うのっ、たまたまクッキーが知り合いで!空き部屋がなくてっ」
慌てたキャンディがしなくてもいい言い訳をしたとき、女性が反応した。
「あなたクッキー補佐官の知り合いなの?私、彼に助けてもらったの。働きながらでもよければ船に乗せてあげるって。おかげで足りない分の船賃を工面できたのよ!」
「へえ、そうなの。クッキーらしいわ」
活発そうなその女性はティナと名乗った。
「朝から昼の数時間だけ厨房の雑用を手伝っているの。普段は三等船室にいるわ!」
「三等船室?・・・どこにあるの?」
キャンディの探求心がくすぐられる。
「あら、見たことない?行ってみる?」
キャンディに断る理由はない。その後夕飯近い時間になるまで船底に近い船室で探検を楽しんだ。


夕食の頃に部屋に戻ってきたキャンディは、今日の出来事を嬉しそうにテリィに報告した。
「それで、ティナと旦那さんは役者の卵なんですって!五歳の息子もいるのよ」
「へえ~、それは奇遇だね」
「三等のフロアーは隔離されていて、他のフロアーの人は侵入できないらしいわ。逆もまた然りよ」
「君は今日、三等船室で遊んだんだろ?」
「あんなのロックしている内に入らないわ、ゆるゆるよ」
「牢やぶり?君はギャングに向いているんじゃないか?」
泥棒ネズミの様に船内をちょろちょろ移動するキャンディの姿を想像するだけで、テリィの口元は緩む。
「テリィも部屋にこもってないで外に出たらいいのに。息苦しくならない?三等の窓は海面に近いの。跳ねる魚が直ぐ近くで見えるのよ!」
テリィはキャンディの冒険談を、目を細めて聞いていた。
「君の話だけで、十分気晴らしになるよ」
船という空間は、テリィにとって大きな安心感を与えてくれる場所だった。
少なくともキャンディは同じ船内にいる。
自分の手の届かない、どこか遠くへ行ってしまうことは無いのだ。

「おやすみなさい、テリィ」
「おやす――・・あ、待て、キャンディ」
寝室に入ろうとするキャンディをテリィは呼び止めた。
「なに?」
「――・・何って、つれないな・・」
ゆっくりと顔を近づけてくるテリィに、キャンディは瞼を閉じようとしたが、チクチクという刺激に
「・・ちょっと、その無精髭痛いわ、伸ばすつもり?」
思わず距離をとる。
二日間放置された口髭と顎髭はうっすらと色を帯び、今まさにハリネズミと化している。
「普段の姿とギャップがあった方がバレにくいだろ?口髭だけでも伸ばそうと思って」
「じゃあ、キスは髭を剃ってからね。おやすみなさいっ!」
再会してわずか二日。同じ空間で寝泊まりしているなんて、心の準備が追い付かない。
当たり前だが、異性なのだと急激に意識してしまう。  

 

                            

 3-2 探検

 

 

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