生きていると色々な人から、私の場合は主に身内や男性からですが、「ごもっとも」な意見をぶつけられる時があります。それを言われてしまうと もう何も言い返すことはできなくて、通じ合えないモヤモヤを少し抱えながらも黙ります。「今はストレスを感じているのかな?大変なんだな。」とか、「この人は世間の常識を大切にしているんだな。」とか、一瞬にして様々なことが頭に浮かびます。そのようにして、私は私自身の感覚と思考を守ります。私の場合、黙る=相手の言うことを認めた、ではなく、黙る=今はわかってもらうことを諦めた、という時がほとんどです。

 

単なる感想を述べたつもりだったのに、ただ同感して欲しかっただけなのに、まるでこちらが悪いかのように正論を返される時ほど悲しいことはありません。だって、それくらい誰だって知っているのです。世間では何が正解かなんて、大人はもちろんのこと、子供だってわかっています。だけど、ただ話を聞いて欲しい時も、少し疲れてしまった時も、甘えたい時も人にはあるのです。

 

例えば、愚痴を言っているその人だって、本当はその批難の先の相手が100%悪いなんて思っていないし、自分も変わるべき所があることに気づいていたりします。ただ、今は傷ついているから聞いて欲しい。辛い気持ちに寄り添ってもらいたい。その人の普段の言動を知っているのなら、それくらいのことは理解してあげたいなと思います。「そうなんだね。」とか「大変だったね。」と言ってあげるだけで相手は救われます。けれど、もしそれさえ伝えられないのなら、それはあなたが冷たいのではなく、今、疲れてしまっているから、ではないでしょうか?

 

私が仕事や用事を詰め込み過ぎないようにしている理由はここにあります。自分自身の心が忙しくて余裕がなくなってしまうと、人のために使える力があまり残らないのです。それでも無理してパワーを絞り出していると、心や身体が弱ってきてしまいます。それは普通のことです。頑張りが足りないのではなく、逆に頑張り過ぎているのです。(忙しい方がイキイキしていられる方は別です^^)

 

けれど、それでも動き続けなければならない時期もあります。今の私ならそんな時はきっと、普段以上に自分を甘やかし、人の助けを遠慮なく受け取り、好きなことや好きな人に接する機会を増やすかなと想像します。大変な時ほど自分に厳しくではなく、自分に優しく。そうやって、自分も人も守ってあげたいなと思います。