忘れ得ぬ一日 その④ | 奈良県香芝市にある体と心が緩むオイルトリートメントサロン~自分に還る場所 

奈良県香芝市にある体と心が緩むオイルトリートメントサロン~自分に還る場所 

ボディケアで機能美の備わった行動できるカラダへ
メンタルケアで自分らしい在り方とココロを
楽しく心豊かな生き方がしたい貴女が自分に還る場所
それがJeweliです

家を出る時は、入院グッズを渡したらそのまま帰るつもりだったけど、
既にもう何時間経つんだろうか・・・・
 
でも、そんなことはむしろどうでもよくて、
最低でも8時間程度はかかるオペだと聞いていたので、
とにかく途中でオペ室のドアが開かない事だけを願って、待合のソファーで待ち続けた。
 
小さな物音にもビクッと反応する。そしてその音が別のものだと分かる度に安堵した。
あの時は、もはやオペが成功するしない以前の問題だったな。
 
循環器系のオペは処置が終わって、心臓にショックを与えて再度動くかどうかで決まる。
動けば成功。動かなければ…。途方もなく遠い時間に感じられた。
よからぬ妄想が浮かんでは、希望でかき消す。ただその繰り返し。
 
万が一の場合、自宅葬するので色々な手配をしなければならないな、
そんな話題もやはりのぼることもあった。
 
とにかく心細く不安に押しつぶされそうになりながら待ち続けること約8時間半。
オペが翌日の午前中遅くに無事終わった。
 
 
麻酔が切れた後、母は目を覚ました。
焦点が合っている。ちゃんと目が合うよ!!!
 
父が母の手を握ると、母の頬が見る見るうちに紅潮してゆくのが印象的だった。
母は微笑んでた。
言語野はどうか分からないけれど、少なくともしっかりと認知している。
その部分だけでも脳の損傷が免れていたこと感謝します。
 
私達は、母が意識がはっきりしており家族の顔も識別できていることにとにかく喜んだ。
 
通過点とは言え、しばしの安堵。
やっと何か喉を通せそうだというので、遅めのお昼ご飯をみんなで食べた。
これから看病大変になるだろうが、皆で協力して頑張って行こう!!
なんてワイワイと会話が弾んだ。
 
電気やエアコンをつけっぱなしだったので、早く帰らないとなぁ~などと言いながら帰宅。
久々の我が家…そんな体感だった。
 
夕食を済ませ、ほんの5分10分でもいいから、ICUにお顔見に行こう!
流行る気持ちでコートに手を通したその時、父の携帯が鳴った。
 
病院からだった。
父の声のトーンと返答から察するに良くない知らせなのだと悟った。
 
念のため、父とは別の車で病院へ向かう。
その頃、母のからだは機械で動かさないと心肺停止状態になっていた…
 
着いてから、その事を知らされた。事故防止に敢えて知らせませんでしたとの事。
 
 
大きな機械に管だらけで横たわる母を見ていられなかった。
本人が知ったら、さぞ嫌がる状態だったろうな。
生きて欲しい。本当に生きていて欲しい。。。
でも、無理やり生かされることを母は全く望んでいなかった。美しくないからって。
 
管だらけの姿が、本人の望むところから程遠くて…早く楽にしてあげてって、皆思った。
 
親類が揃うまでの時間がとてつもなく長く感じた。
最後の一人が駆け付けた時、医師に依頼して機械のスイッチを切って貰った。
それが母の最期。
 
あっけないものだった。
 
小田舎の旧家に嫁ぎ、同居の祖父母を見送るまでは、本当に家族優先の生活。
良き嫁・良き妻・良き母だった。
もっと自由奔放に出来る人なら、もっと不器用な人なら、結果は違っていたのかもしれない。
 
末娘の私も社会人となり、自分の人生が始まったばかりだった。
春にはオーストラリアの旅行も控えていたし、父との予定、お友達との楽しい時間、
習い事…色々と目白押しな筈だった。
 
発病から1日足らず…亡くなりましたの連絡に驚きを超えて冗談だと思う方もいたほどだった。
え、昨日一緒にランチ食べましたけど?…そりゃ驚くよね。
風邪気味だったかもしれないけど元気だったもの。
 
 
母が無き今、喪主である父は勿論ながら、自宅葬で主体的に動くのは私だった。
いろんな方が、私に色々と聞いてくる。
処理しきれなくなった瞬間思わず口を突いて出たのは
「もー、それはお母さんに聞いて!!」・・・無理な相談でした(笑)
 
初七日を兼ねての法要が終わるまで寝た記憶がない。
3日半はずっと何かしらやっていたように思う。
そうでないと耐えられない位のショックだった。本当に本当に大好きだったお母さん。
 
沢山の方々に愛されていた母。
それを物語るかのように、つぎつぎと届くお花の数々。
2部屋を届いたお花が埋め尽くす程に、本当に皆様からのお気持ちが溢れていました。
お花が大好きな母に相応しい法要でしたね。
皮肉なもので生前あそこまでお花でお部屋が埋め尽くされることはなかったから…
見せてあげたかったな(笑)
水切りなど、毎日1時間半はかかりましたもの(笑)
 
もう二度と言葉を交わすこともできない。声を聴くことも許されない。
たった一言でさえ。
 
葬儀関係がひと段落した頃、ふとした日常に母だけがいない事が強烈に感じられた。
読みかけの本、縫いかけのお洋服。
とにかくありとあらゆるところに母の面影を感じるのに、そこには母だけがいない。
 
ある日、ひょっこりと「えへ♡ただいまぁ♡」と現れるのではないかと
没後数年間思えてならなかった。
 
 
母が亡くなった日から約2週間後に、
私は当時お付き合いしていた方からの結婚の挨拶を控えていた。
姉の時のように、結婚の準備を母と色々お話しながら決めるのをどんなに楽しみにしていたか…
 
途中で迷いの生じる縁談だったけれど、周囲の希望の光のようになっていたので、
変な言い方だが、みんなのために明るい話題を消すまいと嫁いだ・・・・
その結果、1年足らずで旧姓に戻る事となったけれど。
 
今となっては全てが今の私を私とするのに必要な要素であり、それでよかったのだと思う。
 
母が亡くなった時、生れてはじめて父が涙を流すのを見た。
父でも泣くことがあるんだ…それだけ特別だったんだなって思ったものです。
 
本当にね、いつ何時わが身に、大切な人に何が起こるか分からない。
 
「今」を本当に大切にしてほしいし、感じて伝えて分かち合ってほしい。
 
私は、母の娘に生まれ、育てて頂いたこと本当に誇りに思っています。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
 
命ある限り、与えて頂いた愛をもとに、愛と笑顔の循環を起こし続けて行きます。
物質的な豊かさも勿論だけど、何よりも心の豊かさの源となれたら幸いです。
みんな一人じゃない。
誰かが誰かの大切な人。
 
大切なら、大切にしなきゃね。
伝わってる?笑
 
長々とお付き合いくださった方々有難うございます。
 
正直本当にまとまりの悪い文章だと思う。
もっと読みやすく、もっと内容も盛り込んだものが書けたら良かったのかもしれない。
でも、なんかきれいに取り繕うことなく敢えて取りとめなく書かせて頂きました。
 
こんな文章にお付き合いくださって本当に有難う。
 
奇しくも、母の無くなった2月18日は、現夫のお誕生日。
毎年わけのわからないタイミングで涙をながす妻に思うところはあるだろうに、
温かく私を素のままいさせてくれる。
 
きっとこうして一連を言葉にしたことで、13回忌を明日執り行うことで、
また一つ越えることが出来ていくと思うの。
 
来年以降は、母を想いながらも楽しい一日をおめでとうっって過ごせるように
いつか涙を流さない日が訪れても良いように・・・って思っています。
 
もうね、とにかく色んな人に、色んな事に感謝しかないです。。。。
 
みんなみんなありがとう!!!