呪いに関する講座をしていますが、個人的に「最も重要なこと」が今回の内容だと思っています。

突然ですが、天伴は子供時代から「走ること」が得意でした。


学校内であれば必ず上位でしたし、高校生時代は学校内で一番足が速かったです。

足が速かったこともあり、中学校、高校時代は陸上部で活動していました。
短距離、長距離、跳躍なども可能でしたが、メインは短距離走の選手です。

ただし、県大会などになりますと、「上には上がいます」ので、あまり良い成績は残せませんでした。
問題は、「試合などの大会が大嫌いだった」ことと、「部活動が大嫌いだった」ことだと思います。

 

かなり致命的な問題ですが、「誰かに無理矢理やらされる」ということが嫌でたまりませんでした。

 

現在はあまり感情的になりませんが、権力などの「力」によって抑えつけてこようとする存在には牙を向けますし、とても「不愉快」に感じます。

インディゴチルドレンの性格だからなのかもしれません。

 

ちなみに部活動はサボっていましたが、自宅では腹筋、背筋を毎日最低1000回以上やっていました。
「筋肉のある身体作りがしたかったこと」が一番の目的です。


誰かから「やれ」などと言われたことは一切ありませんが、部活動に参加するよりも、よほどハードなトレーニングを独りで黙々としていました。
そのため、学生時代は筋トレをしながら、実は「精神力」を鍛えていたのかもしれません。


とりあえず、足が速いと運動会などではヒーローになれます。
むしろ、陸上部で専門的に走り方を鍛えているわけですから、「勝つことが当然」です。

ただし、自虐的ですが「ただ真っ直ぐ走るだけであれば馬鹿でもできる」と子供の頃から思っていました。

とても「現実的な判断」だと思います。

ちなみに周囲から「凄い」などと褒められることは嬉しいことです。

 

しかし「勝つことが当然」のような状態を何度も経験しますと、「足が速くても特に自慢できるようなことではない」ということを自分自身で自覚していきます。


また、陸上部での活動は、「一体自分は何をしているのだろう?」という疑問が常にありましたし、真面目に部活動に励む部員たちを冷めた目で見ていた気がします。


なぜならば、「他人の指示」によって、延々と走り続けさせられることが「馬鹿らしい行為」としか思っていなかったからです。

 

過去を振り返りますと、高校生の頃からすでに「呪い」に気づいていたのかもしれません。

ちなみに「現代の子供たち」はどれほど足が速いのか全く知りません。

高校生時代の天伴は、100m走をすれば12秒程度でした。
調子がよいときは11秒台です。

そもそも、100m走は「たかがコンマ数秒」を競うだけの競技です。

 

他者よりも少し早いか遅いかを競うだけであり、はっきりいえば「あまり意味が無い行為」でしょう。

もし速く走りたければ、自転車や自動車を利用した方が「よほど現実的」だと思います。


とりあえず足に障害などがなければ、誰でも子供時代に100m走をしたことがあると思います。
体育の授業や、運動会などで、必ずやらされているのではないでしょうか。

ですから「100m走はどのような状態なのか?」を誰でも知っていると思います。

ここからが、今回の「呪い」の講座になります。

陸上部の経験者と、素人では「走り方」なども違うと思いますが、天伴は全力疾走で「12秒」です。
100m走は一直線ですし、短時間勝負ですから、とにかく全力で「ゴールを目指すだけ」になります。

100m走の走行中に「何を考えているのか?」ですが、経験上ですが「あまり何も考えていない」です。

走りながら「負けられるかよ」と思うことがたまにありましたが、基本的には「とにかくゴールを目指すだけ」です。

ちなみに「たった100mを走るだけ」だとしても、全力疾走をすればかなりの疲労になります。
そのため、ゴールの手前付近は「苦しい」と感じることが多かったです。
100m走を経験したことがあれば、「全力疾走の苦しさ」を理解できると思います。

とりあえず何も考えずに全力疾走して「12秒」です。

 

そのため、もし「少しでも何らかの邪魔」が入った場合、必ず「遅く」なります。


つまり、全力疾走中に少しでも「邪魔」が入れば、「必ず12秒以上の記録になってしまう」ということです。

たとえば、「スタートダッシュが遅れた」、「走行中に一瞬フラついた」などですが、当日の「体調面」などの問題もあるかもしれません。
最悪の場合は「走行中に転倒する」ということですが、記録としては「問題外」になるでしょう。
そして、転倒で怪我をすれば、ゴール前に「リタイヤ」という場合もあります。

「当たり前」のような話をしています。

しかし、この「100m走のたとえ話」こそ、「最も危険な呪い」に気づくための参考になります。

100m走を「12秒」で走れる人が、何らかの事情で「20秒」かかったとします。


単純に計算すると「8秒間遅くなった」ということです。

「遅くなった」を、表現を変えますと「のろくなった」になります。
もしくは「鈍くなった」ともいえますが、「のろくなった」という点が重要です。

たとえば動きが遅い人のことを「あの人は動きがのろい」などと表現します。

つまり「遅い」と「のろい」は似たような意味になります。

ダジャレのようですが「のろい」は「呪い」です。

 

ここがとても重要な点ですが、「のろくさせられた」ということは「何らかの呪いをかけられている」ということです。

本来であれば100m走を「12秒間」で走れる人に「のろい(呪い)」をかければ、動きがのろくなり、「12秒間以上必要」になります。

「呪いが成功している」ということです。

「呪いのために何をすればよいのか?」ですが、ほんの少しでも「邪魔をするだけ」です。

 

たったそれだけで、呪いが「成功」します。

たとえば、全力疾走できる状態を、少しでも「邪魔」をすれば、必ず「のろくなる(遅くなる)」ということです。

ちなみに人間社会では、人間を「不安にさせる」、「よそ見をさせる」、「余計なことを考えさせる」、「足を引っ張る」など、様々な「呪い」だらけになっています。

 

ですから現代の人間は、人間社会の影響によって、様々な面で「人間の活動をのろくさせられている」ということに、まず「気づく」べきです。

 

また、困ったことに人間社会全体で「呪いのかけあい」をしていますので、みんなでみんなを「のろくさせている」ということに全く気づいていません。

 

つまり、現代の人間は、人間社会によって「個人の全力疾走の邪魔をされている」ということですが、この問題に気づいている人はあまりいないと思います。

 

なぜならば「人間社会ではそれが当たり前」と信じて、何気なく日常生活を送っているからです。

ひどい「洗脳状態」であり、「呪い」に囲まれていることに、全く気づいていないからこそだと思います。

たとえば、人間社会のことなど一切無視して、「自分のやりたいことをやれ」となれば、周囲からは何も邪魔はされません。

 

その場合、「のろくなる必要は一切無い」わけですから、全力で「自分のやりたいことだけ」に集中できます。

そして「全力疾走の自分」を発揮することが可能となり、本来の実力とスピードで活動することが「可能」になります。

 

ですから人間社会の「呪い」を消すためのひとつの方法は、周囲のことなど一切考えず、「自分自身にのみ集中する」ということです。
 

そうすれば、「あなたの人生は全力疾走が可能になっていく」はずです。


ただし、人生において「全力疾走をする」という機会はあまりないと思います。

たとえば100m走の全力疾走の状態を長時間維持することは「体力的に不可能」です。
全力疾走であれば、せいぜい「1分間」が限界かもしれません。
ごく一部に「凄い体力の人もいる」かもしれませんが、それでも「2分間は厳しい」と思います。

ちなみに「走り方の理想」のようなものはあると思います。

たとえば「綺麗な走行フォーム」、「スタートダッシュの加速のさせ方」、「走行の歩幅の向上」など様々です。
また、現代においては「イメージトレーニング」などの精神面の向上も注目されていると思います。

ただし、トレーニングは基礎的な力を高めたり、身体に動きを覚えさせるなどが「目的」です。
本番の「試合中」は、練習やトレーニングの成果を発揮するだけであり、「余計なことを考える暇などない」と思います。

たとえば100m走であれば、「とにかく全力でゴールを目指すだけ」です。

「少しでも速く走りたい」と思うかもしれません。
しかし全力疾走の時は「全力疾走中」ですから、「もっと速く走りたい」とどれだけ思っても、効果はほとんどないでしょう。


なぜならば「現在の時点の自分の実力」を発揮するしかありませんし、全力疾走として「全力で実力を発揮している」だけだからです。



映像は『マトリックス』の格闘シーンですが、「訓練プログラムの中」という設定になっています。
ちなみに「饒速日(ニギハヤヒ)」と書かれている掛け軸が気になりますが、おそらく制作スタッフたちは「舞台として何となく配置しただけ」だと思います。

訓練プログラムでは「道場」のような場所が舞台になっていますが、カンフーを覚えた主人公に対して、指導者が「(私を)殴ってみろ。できるか?」と一言伝えます。


主人公は覚えた技を駆使して、様々な攻撃を繰り出しますが、指導者には通用しません。

指導者は伝えます。

「慣れも早い、応用もきく。だが弱点は、テクニックではない」

「技」や「型」を覚えることは、基礎的な知識を高めることに繋がると思います。
また、「様々な応用方法」を開発することは素晴らしいことです。

しかしそれは「テクニックの向上」でしかありません。

テクニックを高めることも素晴らしいことですが、訓練プログラムの目的は「私を殴ってみろ」です。
そのため、最も重要なことは「殴ること」であり、「攻撃を当てること」です。

様々な技や、テクニックを使うのは「あくまで方法」でしかありません。

率直に言えば「テクニックなどはどうでもいいから、とにかく殴れ」の一言です。

そして、主人公は、型やテクニックだけでなく「常識を越えた動き」をするようになりだします。

徐々に「何でもアリ」になっていきますが、指導者には通用しません。

主人公は「動きが速すぎる」と伝えますが、指導者は伝えます。

「動きは速いかもしれないが、この世界ではスピードが問題ではない」

そして訓練が再開します。
主人公が攻撃を繰り出すたびに、指導者は伝えます。

「どうしたんだ?もっと速いはずだぞ。頭で考えるな。知るんだ」

さらに、主人公が攻撃を繰り出すたびに、指導者は伝えます。

 

「私(指導者)を打とうとするのではなく、打つんだ」

そこから主人公の動きは、急激に加速し、指導者の動きを遙かに超えて、「殴る寸前まで達成」します。

映像だけを視聴しますと、「格闘をしながら指導者が何かを教えようとしている」としか思わないかもしれません。
また、多くの人は「映画を盛り上げるために格闘シーンを挿入しただけ」としか思わない可能性もあるでしょう。

しかし、「凄く重要なこと」を伝えています。

型やテクニックではない。
速度ではない。
思考で考えるのではない。
「ただ知れ」だけです。

それでは指導者は「一体何を知れ」と伝えたかったのですが、「できる」と信じることです。

映像では「殴る」という目的でしたが、「殴る」ということに対して、迷うことなく「一心」になった時、テクニックや速度の問題は関係なく、目標が「達成」できます。
それだけです。

「私はできる」と信じることは、人間に与えられた能力だと思いますし、人間に秘められた力だと思います。

全ての人は「自分が世界の主人公」です。
そのため、主人公が「私はできる」と信じれば、「何でもできる世界」です。
なぜならば「自分が世界の主人公」だからです。

ちなみに、人間は地球上で活動しますので、『物理法則』などの影響を無視することは「誰でもできるわけではない」と思います。

たとえば、映画は「架空の物語」ですから、柱を駆け上がったり、凄い跳躍力は、実際の地球上では「困難」だと思います。
 

ただし、「空を飛べる」という人間も、一部に存在するようです。
冗談のようですが、「存在する」らしいので、人間が空を飛ぶことは「不可能ではない」のかもしれません。

とりあえず、「できる」と信じることは、不可能と思えることを「打ち破る力」になります。

「できる」とは「可能」ということですから、むしろ「不可能が存在しなくなる」ということです。

そもそも、本来の世界とは、「全て肯定的」であり、「可能」しか存在しないようです。

しかし、人間社会で活動している人間は「不可能」という言葉に洗脳され、「私はできない」という呪いにかけ続けられています。

困ったことに、子供の頃から洗脳されて育っている人が多いと思いますので、洗脳から抜け出すことは「簡単なことではない」かもしれません。
また、「私はできる」と無理矢理に思い込もうとすれば、「本音」に嘘をつくことになりますので、むしろ「私はできない」という想いが強くなる危険性があります。

そこで個人的にオススメするのは「とりあえず何とかなるだろう」と信じることです。


さらに「大丈夫。必ず何とかなる」と思うことができれば、不思議なことに「だいたいのことは何とかなる」と思います。


なぜならば、人間は完全にあきらめない限り「必ず何とか乗り越えていく」からです。

だからこそ「私はできない」と思うことは極力やめるべきです。
少なくとも「私にはできるかもしれない」と心がけるべきだと思います。

そして、自分自身を信じて「私はできる」と心から信じられるようになれば、「何でもできる」ようになると思います。

ちなみに「何でもできる」としても、人間は「本当に私がやりたいこと」は限られると思います。

たとえば、「あなたは石の壁をパンチで壊せるようになりたいですか?」と尋ねられたら、おそらく多くの人は「別にやりたくないです」と返答すると思います。
むしろ、「石の壁をパンチで壊すのはどうでもよいこと」と判断するはずです。

「あなたは何をやりたいですか?」

この質問の答えは「あなたにしかわからない」ことです。


あなた自身の「私がやりたいこと」が大切であり、その願いを満たすことが自分にとって「最も大切なこと」だと思います。

ですから「そもそも何でもできる必要など全くない」ということであり、「自分がやりたいことだけやりたい」ということが人間の本音だと思います。

そのことに気づきますと、「人生は自分がやりたいことに集中する」ということが、自分自身にとって最も「健全な道」であり、自分自身が「心から願う道」になるはずです。

ちなみに人間社会では「何でもできるような人間」を求めがちです。
何でもできるような人は確かに素晴らしいことだと思います。

ただし、「何でもできる」ということも「呪い」です。
なぜならば「無駄なことだらけ」だからです。

たとえば学校教育では様々な課目を学ばされますが、実際の日常生活では「使い道がない」ということが多いです。
 

天伴は真面目に勉強してこなかったタイプです。


しかし「学歴の問題」を抜きにすれば、はっきりいえば「学校で習った勉強は無駄なことだらけだった」が、人生経験からの「答え」です。
また、学校で学んだことを忘れていても、特に何も問題はありませんでした。

そもそも、わからないことがあれば「その時に調べればいい」というだけだからです。

そのかわり、「自分が知りたい」と思ったことや、興味のあることは独学で凄く勉強します。

自分でいうのも何ですが、その時の集中力と吸収力は凄まじいと思います。
なぜならば「自分にとって必要に感じるから」です。

ですから、本当に「学びたい」こと、本当に「やりたい」ことがあれば、そのことだけに集中した方がよほど勉強になります。
 

また、「無駄なこと」を学ばされた学校教育の期間は、本来の活動を「のろく(遅く)されただけ」にすぎません。

そもそも「やりたいことだけ」に集中できる環境であれば、世の中は「天才だらけ」になると思います。
 

しかし実際は、「自分のやりたいことは、時間の余裕がある時のみ」という人が多いと思います。

つまり、天才を発揮できないような環境になっているのが、現代の人間社会といえるでしょう。


「やりたいことは我慢が当然」などと、みんなでお互いの足の引っ張りあいです。

 

「呪い(のろい)だらけの最悪の状態」になっています。

たとえば「私はやりたい」という希望を持っている人に対して、心から喜び、心から応援してあげる人はどれだけいるでしょうか?

おそらく「やめた方がよい」や、「失敗のことを考えた方がよい」など、相手の気持ちにブレーキをかける人が大半かもしれません。
それは相手の気持ちの「邪魔」をしているだけです。

そして、困ったことに人間社会は、人生に対して「無駄な時間の浪費」をさせてばかりです。
 

また、人間社会に洗脳されている人が大半ですから、「のろくされている」ということに全く気づいていません。
本当に「ひどい呪い(のろい)」だと思います。

自分にやりたいことがあれば、「私はできる」と信じて迷わず進むことが、「のろい(遅くなる)」から逃れる道です。
さらに、最短最速で「自己表現」を実現できる道だと思います。

ちなみに「わがままになれ」というわけではありませんし、わがままだけであれば、周囲の人に迷惑をかける可能性もあります。

「それでは何が大切なのか?」ですが、「自分を信じること」です。
自分を信じて活動することに関しては、他者と争う必要がありません。

そして、もし相手と争いになりそうになれば、相手から離れるか、逃げればよいと思います。
「障害をあえて倒す必要などない」からです。

つまり「上手く避ける」ということですが、その後も「道は続きます」ので問題ありません。

そもそも「逃げてはいけない」という教えは、人間社会が作った「呪いの言葉」だと思います。

「嫌であえば逃げればよい」と思いますが、「逃げる」という選択肢がない人は、逃げ道をなくし、自分自身を壊してしまうかもしれませんので注意が必要だと思います。


正直なところ、天伴は面倒なことは避けますし、逃げまくっています。

そして、もし避けられない問題があれば、その時は「やるだけ」です。

 

表現を変えれば「臨機応変に対応する」ということですが、基本的には自分が「やりたい」と思うこと、自分が「感じること」を大切にしてきました。


そもそも、自分がやりたくないことを、無理にやらされることの方が「異常」です。

 

ちなみに現代は「お金のため」という理由で、やりたくないことをやる人が多いと思いますし、現代の人間社会においては仕方ないことかもしれません。

 

しかし天伴が思うに「お金に媚びを売る」ということは、悔しいことではないでしょうか?

 

ですから、天伴自身は「お金のため」という目的だけでは、絶対に行動しないようにしています。
なぜならば、後になってから「お金に釣られた」などと、自分自身の「選択」に後悔をしたくないからです。

ぜひ自分自身を信じて歩みはじめてみてください。

 

もしそれが「できない」のであれば、「私には何の呪いがかけられているのだろう?」と自分と向き合ってみてください。
そして「呪いの原因」がわかれば、「あ、呪いだった」と気づくことができると思います。

呪いに気づくことができれば、その後は「くだらない呪いだった」と手放すだけです。

 

この繰り返しで、自分自身が身軽になっていき、もっと自由に活動できるようになっていくはずです。

 

誰でも「できる」ことだと思います。