先日のことですが、裁判についてご相談がありました。
人間関係のトラブルのようでしたが、相談者様は『被害者側』です。

「相手のことを訴えるべきか悩んでいる」というご相談でした。

現代は多くの人が携帯電話を所持しています。
そのため使い方しだいですが、録画、録音、写真撮影などが気軽に可能になっています。
相談者様は後々訴えることを前提に、録音を含め様々な証拠を用意していたようです。

僕自身は法律や、裁判については全くの素人ですから詳しいことはわかりません。
しかし相談された以上、予知などから「おそらく結果的にこのような流れになる」とお伝えしました。

日本国内では法律を重視されますので、裁判で勝つことができれば、加害者側に請求することができます。
また、自分の権利などを主張することは時に大切なことだと思います。
ですから現代社会において裁判で争うことは「自分を守るための手段のひとつ」だと思います。

人間関係で大なり小なり何らかのトラブルが発生することは、ある意味仕方ないことかもしれません。
なぜならば「人間は二人集まれば喧嘩ができる」からです。

そもそも喧嘩やトラブルを自分から望む人は基本的に少ないと思いますが、些細なことが原因で大きなトラブルに発展することはよくある話だと思います。

トラブルが発生した場合、状況が悪化すると『加害者側』と『被害者側』の立場に分かれることが多いです。
だからこそ裁判などに発展するわけですが、なるべくであれば裁判に至る前にお互いで和解することが理想的な状態だと思います。

ちなみにご相談された場合は、予知的な見解を含めたアドバイスをさせていただいていますが、「争うべきです」とアドバイスをすることはまずありません。
むしろ「なるべくであれば止めた方がいい」とお伝えすることがほとんどです。

相談者様は被害者側ですし、基本的には裁判をするつもりで考えています。
知りたいことは「裁判で勝てる見込みがあるのか?」だと思います。
そのため「裁判そのものを止めた方がいい」というのは問題外の選択かもしれません。

僕自身も人生を振り返ると様々な被害を受けた経験がありますので「加害者側に対して少しでも何かしたい」という気持ちはよくわかります。
人間ですから「仕返しをしたい」などと思うのはむしろ当然のことかもしれません。
また、被害者側として「ひたすら泣き寝入りするだけでは悔しい」と思います。

しかしそれでもなお、「争いはなるべく避けた方がよい」と思います。

まず、裁判を含め、争いで勝つことを望むのであれば本人は『好戦的な面』を持っていると思います。
なぜならば「あえて争いの道を選ぶ」からです。
『法律』での対抗は『暴力』とは性質が違います。
しかし「勝った側に従わせる」という流れになりますので、結局のところ『力』で勝ち負けを決めることには違いありません。

ちなみに友人や知人が「加害者側に対して裁判を起こせばいい」と煽ることがありますが、争いの流れを煽ることはなるべく控えた方がよいと思います。
法律の専門家であれば味方になってアドバイスをしてあげることはよいと思います。
しかし素人の状態であれば、味方になれるわけでもありませんし、「火に油を注ぐように争いに誘導して後は放置状態になる」と思います。
「やりあってこい!」と気軽に伝えるのは楽ですが、実際に争うのは『被害者の本人だけ』ですし、結果的に負けた場合「今回は残念だったね」の一言で終わりです。
また、面白半分で煽ったり、『自分自身のストレス発散のため』に裁判への展開を煽る人も一部にはいると思います。

結局のところ裁判を起こすのは『自己責任』ですが、友人などであれば「やる前によく考えるべき」とむしろブレーキをかけてあげるべきかもしれません。
また、争いを煽るような状態であれば、友人や知人も「好戦的な面を持っている」ということだと思います。

ちなみに被害者側の経験もある僕の意見ですが、意識を変えないと「被害者側は本当に損をしてばかり」になります。

加害者側と争う場合、裁判の期間を含め『時間』がかかります。
つまり肉体的な被害や、精神的な被害にプラスして「時間も奪われる」ということです。

被害者側にしてみれば「私はこんなに悩み苦しんでいるのに!」という状態だと思います。
しかし加害者側にしてみれば『被害者側の気持ち』など全く知らず、気軽に生きている場合が多いと思います。

そのため、「被害者側がどれだけ精神的に苦しんでいたとしても、加害者側は全く痛くも痒くもない」という状態だけが続く可能性が高いです。

とても悔しいことかもしれませんが、これが現実だと思います。

だからこそ裁判などによって加害者を裁きたくなるのだと思いますが、もし裁判を起こしても、裁判が終わるまでは『気持ちの切り替え』ができないと思います。

決着がつくまで数ヵ月かかるのか、数年かかるのかはわかりませんが、「あえて過去を振り向き続けるような状態が続く」と思います。


また、「加害者を裁けたらスッキリする」と思うからこその行動かもしれませんが、もし裁判に勝ったとしても「本当にスッキリできるのか?」となれば、それは『別問題』です。
なぜならば被害を受けた側の記憶は一生消えないですし、結局のところ『自分の意識』を切り替えることができないと『気持ちの解決』はできないと思います。

「人生は前を向いて進むべき」だと思いますし、過去ではなく「これからの未来」が大切だと思います。


「これから」が大切なのに気持ちの切り替えができないのであれば、「自ら自分の足を引っ張り続けるような状態」かもしれません。
つまり、自分自身で気持ちを切り替えないと、「いつまでも自分自身で自分を苦しめるだけ」になってしまいます。

加害者から被害を受けたことが『そもそもの原因』だと思いますが、被害を受けて、苦しんで、さらに時間も奪われるという状態は「悩みや苦しみが続くだけで、結局一人損になってしまう可能性が高い」です。


だからこそ、争いに集中するよりも、「悔しくてもあえて手を引くことを選択した方が、実は自分自身のためになる」かもしれません。

ただし「裁判をやるべきではない」と伝えたいわけではなく、人間社会では裁判も必要な場合もあると思います。
お互いに言い分がありますし、お互いに引かない状態であれば、話が一向にまとまりません。
その場合は『暴力』ではなく、『法の力』でまとめた方が無難であり、被害者側も守られると思います。

ちなみに僕自身、若い頃は好戦的な状態でしたし、争いを面白がっていました。
むしろ「好戦的な状態を悪いとは全く思っていなかった」のですが、人生経験で痛い思いをして学んだことは「争いはなるべく避けるにこしたことはない」ということでした。

たとえば「勝った」、「負けた」の場合、勝った側は自己満足も感じて、喜ぶと思います。
しかし負けた側は面白くないため、『遺恨』を持つ可能性が高いです。

単純にいいますと「勝った側は恨みを買う」ということです。

負けた側が完全に姿を消して、生涯二度と会わないような関係になればいいですが、人生には何が起こるかわかりません。
勝った側が忘れた頃に、負けた側から突然足を引っ張られることがあります。
それは数年後か数十年後か、もしくは生涯無いかもしれません。
しかし『恨みの種』を植えたということは、「いつかその機会が訪れる可能性がある」ということです。

人間関係にはよくあることだと思いますが、『凄く小さな出来事』だったとしても、恨みを持つ側にしてみれば、小さな出来事に感じていないからこそ、根に持つわけです。
そして場合によっては『復讐のチャンス』を狙うようになるかもしれません。

実際のところ、自分自身が注意を心掛けていたとしても、「生きていれば知らず知らずのうちに他の人に対して大なり小なり迷惑をかけている」と思います。
僕自身、なるべく気をつけてはいますが、「被害を与えるつもりは全くなかった」と思っていても、知らず知らずのうちに傷つけた人も多いと思います。
その場合は謝るしかないのですが、どれだけ注意を心掛けていても、起こるべきことは起こってしまうかもしれません。

しかし争いに関しては、自分自身に『選択権』が少なからずあるはずです。

理不尽にケンカを売ってくる人もいますが、その場合は『身を引く』もしくは『逃げる』という選択が可能です。
それでもどうしようもない場合は、『別の手段』を考える必要があるかもしれませんし、現代は頭のおかしい人も増えていますので、全く話が通じない場合もあるかもしれません。


しかし自分から相手に攻撃することに関しては、「やめる」という選択を必ず選ぶことができます。


どんなに腹が立っていても、自分さえ我慢すれば争いは起きません。
感情を我慢するべきとは決していいませんが、「争いに関しては極力やめるべき」だと思います。

ちなみに僕の人生経験で気づいたことがありますが「勝負に絶対負けない方法はそもそも勝負をしない」ということでした。

凄く単純な話ですが、勝ち負けにこだわらなければ、そもそも勝負をする必要がありません。
自分が勝てば一時的に喜べるかもしれませんが、もし自分が負けた場合、少なからず嫌な気分になります。
嫌な気分になる可能性があるのであれば、「最初から止めた方が賢い」と思います。
そして何より「相手から無駄に恨まれる機会が減る」と思います。

若い頃の僕は「自ら身を引く」ということを知らなかったのですが、身を引くことを覚えてから生きやすくなった気がします。
身を引くということはある意味情けないことかもしれませんし、「逃げるだけ」と思う人もいるかもしれません。
しかし実際のところ、身を引くことの方が、『自分自身と向き合う機会』となり、学ぶことの方が多い気がします。

「敵は己の中にあり」という言葉がありますが、目の前の相手と無駄に争うよりも、自分自身の思いや、感情と向き合う方が成長できますし、経験も増えるはずです。

ちなみに2007年だったと思いますが、僕が神社巡りを開始した頃の話です。
お世話になっている恩人から「神の人の役目は悪想念を断ち切ることです」と伝えられました。

当時の僕は『神の人』の意味がわかりませんでしたし、現在も「自分は神の人」とは思っていません。
しかし凄く記憶に残る言葉でしたし、「とにかく悪想念を持たないようになるべく気をつけよう」と思うようになりました。

ちなみに『悪想念』にはネガティブな感情を含め、『悪意』など様々なものがあると思います。

人間ですから時に悪想念を持ってしまうことは、ある意味仕方ないことかもしれません。
しかし大切なのは「なるべく悪想念を持たないように心掛ける」という意識を常に持つことだと思います。

あれから10年以上経ちましたが、「悪想念を断ち切ること」について大切にしてきたことがあります。
なるべくネガティブな感情や、悪意を持たないように気をつけてきましたが、特に「争わないこと」を大切にしてきました。

人間関係のトラブルでは加害者側と被害者側が存在する場合が多いです。
まずは「加害者側にならないことを心掛けること」が大切だと思います。

そして、もし被害者側になった場合、「仕返ししたい」と思うような気持ちがあったとしても、僕はなるべく飲み込むことを大切にしています。
なぜならば「誰かが終わらせないと終わらない」からです。

たとえば相手から攻撃されると嫌な気分になります。
その場合、相手に仕返しすると、「自分自身は気分が良い」かもしれません。
しかし仕返しすることによって今度は加害者側だった相手が『被害者側』となり、嫌な気分になる可能性があります。
そして感情的に乱れた状態になると、周囲の人に暴言などを吐くようになる人も多いと思います。
つまり相手の嫌な気分は、『周囲の人』にまで悪影響を及ぼす可能性があり、『嫌な気分にさせられた周囲の人』は、さらに周囲の人に悪影響を及ぼす可能性があるわけです。
それはどこまで悪影響として『伝播』していくのか全く見当がつきません。

『悪想念の小さな波』が波紋となって周囲に広がっていくようなイメージに近いと思います。


「個人の問題であれば大したことはない」と思うかもしれません。
しかし人間社会においては様々なトラブルが発生していますので、常に物凄い数の『悪想念の波紋』が広がっています。
その結果が『人間同士の争いの連鎖』です。

その『波紋のひとつ』が自分の行動で食い止めることができるのであれば、「自分の所で止めておくべき」だと思うのです。
ですから、自分が悔しくても「ここで悪想念を断ち切る」と信じて、身を引くようになりました。

また、争いはさらなる争いに繋がります。
『争いの連鎖』から抜けたいのであれば、「まず自分自身が争いから抜けることを選択するべき」だと思います。

このようなことを伝えると「やられ損」と思われそうですが、実際のところやられ損かもしれません。

また、人間社会では『泣き寝入り』と思われるかもしれませんが、「人間が人間を裁こうとすること自体がそもそも間違っている」という気がします。


そのため、ある時から僕は「全て天に任せておけばいい」と思うようになりました。

「裁くのは自分の役目ではない」ということです。

『天罰』などがあるかどうかはわかりませんし、何も起こらないかもしれません。
また「神様、あの人に罰を与えてください」などと願うわけでもありません。

しかし問題を起こす人は、トラブルを自ら引き寄せる可能性が高いです。
ですから「あえて何もしなくても滅ぶ人は自ら滅ぶ」と思いますし、それは『本人の自由意志』ですから、止めようがありません。

つまり相手に対して何もする必要は無く、「自分自身の気持ちを穏やかに保つことに集中した方が絶対に自分自身のためになる」と思います。

そして「なぜ被害を受けるような状態になったのだろう?」と自分自身を振り返ってみることが大切だと思います。

自分自身の内側に抱えている『何らかの引き寄せ』によって、被害を受けるような境遇が用意された可能性が高いです。
理不尽な場合もあると思いますが、もし『気づき』があれば今後の人生の流れを変えるきっかけになると思いますし、自分自身を振り返ってみることは大切なことだと思います。

被害を受けた側に「相手を許しましょう」と伝えても、難しいことだと思いますし、実際のところ無理かもしれません。
しかし「相手を許せない」という気持ちは、少しずつであれば手放せるのではないかと思いますし、結局のところ「手放せない限り自分自身が苦しむだけ」だと思います。

「私が許せないのは、『私』が許せないから」です。
ですから「許せない自分自身を許し、自分自身で受け入れてあげること」が大切ではないかと思います。
そしてそれは愛に繋がります。

今回は裁判のご相談でしたが、人間関係では様々なトラブルがあると思います。
被害者側になった場合、「様々な思いがある」と思いますが、なるべくであれば争いの道を避けることをオススメいたします。
もし相談された場合、予知的な見解はお伝えしますが、『個人的な意見』として僕が争いをすすめることは絶対にありません。

何かトラブルなどを抱えている人がいましたら、ひとつの参考意見として少しでも参考になればと思います。