パートナーが「夜景を見に行きたい」と声をかけてきました。
仕方ないのでパチンコ屋さんに連れていこうとしたのですが、怒られました。

「ネオンがオレを呼んでるぜ!」

2020年末にこんなことをInstagramで書いていました。
実際は『あまくさロマンティックファンタジー2020)』というイルミネーションイベントを一緒に楽しみにいきました。

とてもロマンチストな僕は、高層ビルの屋上から夜景を眺めるデートなども過去にしております。
その相手は涼華さんではなく『流れ星のように消えていった数々の女性たち』でございましたが、『数々』というのは話を盛っております。

ビルの屋上からの夜景はとても美しく、感動する女性は多いのではないかと思います。
僕も素晴らしい夜景に感動しながら、「電気代の無駄使い」などとシャレたセリフをつぶやくわけでございます。

「ムードぶち壊しじゃねーか!」

ビルに限らず、山の山頂を含め、高所から眺める夜景は美しいです。
闇の中に輝く光を眺めるだけで癒されます。
 

夜景が見たくなったら近所のパチンコ屋にぜひ足を運ばれてみてください。
ただし、デートにはオススメいたしません。

夏場の夜間だとわかりやすいですが、様々な虫が『光』に群がってきます。
たとえば夜間のコンビニエンスストアの入口などでは、光に群がる虫たちをポックリ昇天させる『電撃殺虫器』が大活躍をしております。

詳しくは知りませんが、このような情報がありました。
虫は『走光性』といって、光に対して一定の角度を保って移動する性質を持っているそうです。
中でも光に向かっていくものを『正の走光性』、暗い方へ逃げるものを『負の走光性』というそうです。

つまり虫は『正の走光性』という性質によって、光に寄ってくるのだと思います。

女性から「夜景を見に行きたい」などとデートに誘われたら「ハニー、君は蛾になりたいのかい?」とロマンチックな口説き文句を放とうと思います。

「ムードぶち壊しじゃねーか!」

ちなみに若い頃の僕は『夜の世界』に憧れていました。
しかし体質的にお酒が合わないので、むしろあきらめたような状態です。
もしお酒を飲めたら、間違いなく水商売の世界に入っていたと思います。

お金が目的で夜の世界に入る人もいると思います。
しかし僕の場合は単純に『夜の世界の雰囲気』に魅力を感じていたのだと思います。
また、「何となく危険」という怪しい魅力にも惹かれていました。

純粋に『光』が好きな人もいれば、むしろ『闇』に光を感じる人もいるのだと思います。

若い頃の僕は『闇』の方に惹かれ、闇の方が輝いているように感じました。
おそらく夜の世界に魅力を感じる人は、「昼間の世界に魅力を感じない」からこそだと思いますし、「何となく意味がわかる」という人もいるのではないかと思います。

ちなみに「昼間起きて、夜は寝る」ということが人間の本来あるべき姿なのかもしれません。
人間には『体内時計』のようなものがあるらしく、夜型の生活になるとリズムが狂ってしまうそうです。
ただし、人間は環境に慣れることができますので、夜型の生活になることは可能だと思いますが、おそらく肉体的にも精神的にも悪影響だと思います。

虫の性質でたとえるのであれば、若い頃の僕は暗い方へ逃げる『負の走光性』だったのだと思います。

ちなみに夜の世界に憧れていたこともありますし、過去にいろいろなことをしてきたので、少なくとも僕は『良い人』ではありません。
「悪いことをやってはいけません」などと言える立場でもなく、むしろ「悪いことって面白そうだよね!わかるよその気持ち!」という状態でした。

ただし、現在は「興味を持つ気持ちはわかるけど用心した方がいいかもね」と付け加えると思います。

また、「夜の世界が悪い」とはいいませんが、危険性は高いと思います。

そもそも僕は、神様が嫌い、人間が嫌い、日本が嫌い、世界が嫌いという問題児でした。
また、「愛などという不確かなものは何て忌々しい存在なんだ!」と思っていました。

「ああ、ひどい」

現在は「前向きに進んでいきましょう」とお伝えすることが多いですが、昔の僕は「常に悩みを抱えてネガティブな方が心地がいい」という状態だったので、現在は『別人』のような状態の気がします。
むしろ過去の自分をよく知っていますので、自分自身に「お前が人に言える立場か!」とつっこみの毎日です。

話は変わりますが、現代の世の中は、成り上がり的な存在を『成功者』と信じるような状態になっている気がします。
「素晴らしい人格者もいる」とは思いますが、人格面に多少問題があったとしても、『経済的な力を持つ人』に憧れる傾向が強いと思います。

収入が多ければ、日常生活が豊かになり、お金の力を使うことによって活動の選択肢も増えると思います。
つまり単純にいえば「人生を楽しく過ごせる可能性が増える」と思います。
ですから『経済的な力』を得ようとするのは現代において当然のことなのかもしれません。

ちなみにお子様のいる人は受験シーズンの到来だと思いますが、『入学する学校』が一番の目的ではなく、実際は「学校卒業後の向こう側にある高収入を願って」だと思います。
「良い学校に行けば卒業後は良い会社に入社できる可能性が増える」、もしくは「人生の選択肢が増える可能性がある」からこそだと思います。
子供がやりたいことを応援してあげるのが一番だと思いますが、親としては「夢を追いかけるよりも現実を重視した方が無難」と思ってしまうのかもしれません。

たとえば多額のお金を手に入れた時、何をするかといえば、おそらく『日常生活のグレードアップ』ではないかと思います。


やりたいことをやる、旅行に行く、事業などをしてさらに資金を増やす、ボランティアをするなど他にも様々なことが考えられます。
しかし一般的な人であれば「日常生活を重視している傾向が強い」と思いますので、住む場所、車、衣類、所持品などをグレードアップさせるのではないかと思います。

日常生活をグレードアップさせることが悪いわけではありませんし、僕も日常生活をグレードアップしたいと思います。
ただし問題は「虚栄を求めているだけではないだろうか?」と考えてみることかもしれません。

現代の人間社会は『物質重視』のようになっています。
物質重視だからこそ、『価値のある物質』が好まれる傾向が高いと思います。
たとえば『高価な物質』を入手すれば満足感を得られるでしょうし、他者に対する『優越感』なども得られるかもしれません。

しかし物質というのは全て『外部』に存在します。

人間は肉体を持って活動していますが、『本体』は肉体ではありません。

『人間の姿』をしていますが、本体は『肉体の内側』にいます。
 

つまり肉体を含め、肉体の外部にある物質は、実際は何一つ所有することができません。
肉体の死が訪れた時に必ず『全て手放す』ことになるからです。

 

そのため地球上で人間として活動している時に、一時的に『レンタル』しているだけのような状態だと思います。
肉体の活動が停止すれば、『肉体を含めた全ての物質』は地球上に強制的に返却することになります。


たとえばお店で『商品』を購入すれば、商品の『所有者』になれますが、ある意味人間社会での『所有者ごっこ』のようなものです。

また、『不動産屋』は土地を所有していますが、本来であれば誰のものでもない地球上の『土地の一部』を、「これは私の所有している土地」と自分勝手に思いこんでいるだけです。
人間社会では『商売』として許されていますが、人間同士で『不動産ごっこ』をしているような状態です。

何を伝えたいのかといいますと、現代の人間は物質重視となり、『外側』に意識をとらわれている傾向が強くなっています。

たとえば『太陽の光』と『蛍光灯の光』があるとします。

どちらも『光』ですが、『光の質』は違うと思います。
わかりやすく表現するならば『自然の光』と『不自然な光』です。

物質重視が駄目とはいいませんが、現代の人間社会は『不自然な光(虚栄)』を、『求めるべき光』と信じて群がる虫のような状態になっている気がします。

ただし、「これが求めるべき光」と信じて群がる虫に「それは偽りの光ですよ」と伝えても理解できないと思います。
なぜならば『目に見えるわかりやすい光』だからです。

目に見えるわかりやすい光のことを『外部の光』と表現します。

次に『内在する光』についてです。

ちなみに僕の昔のブログで『創造』という記事を書いたことがあります。

【創造】
私はリアルな人物画を趣味で描いたりするのだが、人間の顔は左右非対称のため、アンバランスな感覚を表現するのがとても難しく感じる。
左右非対称については子供のお絵描きから少し進歩すると、おそらく誰もが気づくことだろう。

たとえば自分の顔を鏡で見たり、写真を見たりしていれば、「自分の好きな角度」みたいなものは誰しもあるのではないだろうか?
私は「自分が大好き」みたいな人を羨ましく思うのだが、自分の顔を鏡で見た時に、「素敵」と感じるよりも「不細工」と感じることの方が多い。
各パーツのデザインの問題は別として、左右非対称というアンバランスな状態に強い違和感を感じるのだ。
ちなみに厳密にいえば、顔だけでなく、全身全て左右非対称となっている。

私は男性なので女性を眺めると「美しい」や「可愛い」など様々な感覚を受ける。
男性を眺めて「素敵」と感じることもあるのだが、誤解を受けると困るので「生物的には女性の方が好ましい」とだけ付け加えておこう。
視覚的に好みの女性と出会っても、デザイン的に左右非対称なのは女性も変わらない。

つまりデザイン的にはアンバランスな状態のため「不細工」と感じる方が「むしろ冷静な判断」なのかもしれないが、そのことを忘れてしまうほど「美」を強く感じるのだ。

ちなみに好みのルックスについては人それぞれに必ずあると思う。
説明が難しいが、各人間には「美」を感じる部分が潜在的に用意されているらしく、その部分を刺激された場合に「美しい」という感覚に捉われるそうだ。
それならば「全て美しい」と感じるようにしておけば何も問題が起きない気がするが、それはそれで「別の問題が起こらないための解決策」だろう。

人間に限らず「生物」は全て左右非対称になっているそうだ。
もちろん全ての生物を確かめたわけではないので確証はない。

ちなみに「葉が生い茂る木」を調べた場合、無数の葉がある中で同じデザインの葉は一枚も存在しないそうだ。
そう考えると「カテゴリー的」にデザインが似たような生物がいても、生物としては「唯一無二のデザイン」しかこの世には存在しないとも考えられる。

クローン技術が発達すればどうなるかはわからない。
しかし生物は唯一無二のデザインしか存在とすれば「生命の神秘」かもしれない。

さて、人間は様々なものを創造する。
目に見えるもの、つまり「物質」に関して考えると、イメージを現実化するために必ずデザインというものが必要になってくる。

日常生活において目にするのは「人間が作ったデザインの物質」がほとんどになるわけだが、おそらく「左右対称のデザイン」が圧倒的に多いだろう。
左右対称に限らず、基本的には「整っているデザイン」が好まれる。
デザイナーが意図的にアンバランスなデザインにしないかぎり、整っていないデザインというものは「何らかの違和感」しか感じられないだろう。
実際のところ商業的なデザインは大量生産などの問題もあり、左右対称など整ったデザインになるのは仕方ないかもしれない。

ちなみにオリジナルの「一点もの」の作品があるとする。
意図的に作者がデザイン性を完全に壊した作品を完成させた場合、それを見た人は「美」を感じるより「個性的な味」を感じる可能性の方が高いと思うのだ。

私が思うに人間が創造するものは、ある種の整ったデザインでないと「美」を生み出せない。
しかし生物は存在そのものに、ある種の「美」が存在する。

たとえば「一本の巨木」を眺める。
左右非対称、むしろデザイン的には完全に崩壊しているともいえる姿に「美」や何らかの感動を感じる。
ただ無造作に立っているだけなのに、人間がどれだけデザイン性を追求してもたどり着けないほどの圧倒的な何か違いがある。
果たしてその違いは何だろうか?

内在する「光」だ。

花を見て「美しい」と素直に感じられたら、その人は神の愛を知っているらしい。
地球は様々な生物に溢れている。
時に心を痛めることあるかもしれない。
しかし様々な光に囲まれていると知れば、自分の内側にある光も輝くかもしれない。

【ここまで】 

当時の文章の書き方は現在のブログと違いますので、好き嫌いがあると思いますが、このような内容を書いていました。
また、絵に関しては10~15年以上全く描いていませんし、誰かに習ったわけでもないため、あくまでも素人のお絵描きのような状態です。

とりあえず記事の中で僕が伝えようとしていることは『人間の創造物』と『自然の創造物』の違いについて語っています。

要約しますと、人間の手掛ける創造物は『計算されたバランスのあるデザイン』を求め、アンバランスなデザインに対して強い『違和感』を感じる。
しかし、人間を含めた、自然の創造物は『完全にアンバランスなデザイン』として存在するが、なぜか『美』を感じる。
「その違いは何か?」となると『内在する光』と伝えているわけです。

ちなみに自然の創造物を再現したデザイン、また『絵』の表現などに関しては、アンバランスなデザインだとしても、『美』を感じることがあります。
そのため「一部には例外がある」とご理解いただければと思います。

さらに余談ですが、自然の創造物のデザインは『フィボナッチ数』に少なからず繋がりがある場合もあるようです。
完全にランダムではなく、『何らかの法則』があるようですが、僕も詳しいことはわかりませんので難しい話はやめておきます。
興味のある人は雑学として『フィボナッチ数列』の動画を視聴されてみてください。

ちなみに能力者であれば、自然の存在を眺めた際に『何らかの光』を視たり、感じることはできるかもしれません。
僕自身、視たり、感じたりは多少できます。
たとえば花や植物を眺める時は、花や植物のデザインを楽しみながらも、視覚とは『別な視点』から観察しています。

感覚的なことなので説明が難しいですが、『生命のある物質』と『無機質な物質』があった場合、どちらも『エネルギーの塊』だと思います。
しかし『生命のある物質』は、温度のようなものを感じるというか、無機質な物質と決定的な違いがあるように感じます。
そのため自然の創造物、つまり生命を持つ存在は、正に「生きている」ような状態です。

ちなみに無機質な物質だったとしても、表現者の思いが強く入った『芸術作品』などの物質に関しては、温もりや光を感じます。
おそらく厳密にいえば、全ての物質は何らかのエネルギーを持っていますが、『愛』が込められるほど温もりがあるような気がします。

しかし能力で視たり、感じたりに関しては「誰にでもできることではない」と思います。
そのため能力からの視点についての詳しい話はやめておきますが、一部の人は何となく理解していただけるかもしれません。

能力の視点からではなく、どのように『内在する光』のことを伝えればいいのか考えてみました。
現在はまだ説明が下手くそですが、今後改善するつもりですし、何となく『ニュアンス』を理解していただければと思います。

まず、『現在の世界』を好むのかは人それぞれだと思いますが、とりあえず『世界が最悪の状態』になる必要があるのだと思います。

現在の時点で最悪の状態なのか?
今後最悪な状態になるのか?
最悪な状態はすでに通り越しているのか?

現在は『どの段階』なのかはわかりません。
とりあえず様々な預言などで「世の終わりは世界が闇に包まれる」などと伝えられています。
『終末論』などと呼ばれますが、様々な宗教で伝えられています。

また、おそらく一度ぐらいは『ハルマゲドン』という言葉を耳にしたことがあるのではないかと思いますが、「世の終わりには最終戦争が起こる」という内容です。
ハルマゲドンに関してはキリスト教の聖書が元のようですが、『スーパーミステリーマガジン月刊ムー』などが好きな人であれば、大好物の話だと思います。

宗教の信者を増やすための方法として、終末論を利用している宗教団体も多いと思います。
たとえば「神を信じない者は最後の審判によって裁かれる」などです。

しかし、冷静な人であれば「馬鹿げた話」と思うでしょうし、宗教に全く興味がない人も多いと思います。
そもそも「神様の存在を信じていない」という人も多いと思います。

僕自身、日本各地の神社を巡っていますが、もともとは神様の存在を全く信じていなかったタイプです。
ですから「神様を信じるのも信じないのもその人の自由でいいのでは?」と思っています。

ただし、様々な宗教で、数千年前から世界の終末について預言されており、ある種の『警告』のような状態になっていると感じます。
全くのデタラメの可能性もありますが、わざわざ数千年前から伝承のように伝え続けられているのは「何か意味があるのでは?」と思うわけです。

最近になってその意味が何となくわかってきました。

まず、現代の人間社会は『物質重視』の状態になっていると思います。
『物質主義』と表現されることもあります。

だからこそ『精神世界系』や、『スピリチュアル系』に興味のある人は、『精神性』や『霊性』を大切にするようになっていると思います。
『精神主義』と表現されることもあります。

ただし、スピリチュアル系の人でも現在は『願望実現』を重視している傾向が強く、「豊かになりましょう」といって、何をしているのかといえば『自分の経済的な豊かさ』を求めているだけのような気がします。
一部の人は純粋に活動していると思います。

しかし一部の人は商売重視になっており、それが駄目とはいいませんが、個人的に「物質主義の状態と一体何が違うの?」と疑問を感じていました。

現在の日本は殺人、強盗、詐欺、暴力などの犯罪が年々増加していると思います。
いつからかはわかりませんが、僕の子供時代と比べると、あきらかに異常な状態になっており、数十年で激変している気がします。

犯罪が増えたことは、世の中の流れにすぎないだけかもしれませんが、『愛』や『心』を大切にしない人が増えた気がします。


ちなみに『恋愛』をしている人は多いと思いますが、「相手が嫌いになった」で終わるような関係も多いと思いますので、「愛は愛でもあくまでも恋愛にすぎない」かもしれません。

現代社会は日常生活に必死な人が増えていると思いますが、おそらく「愛や心では食べていけない」と感じている人も多いのではないかと思います。
稼ぐことに関しては『成果』を重視されます。

そのため、職人でもない限り『思い』や『感情』などは重視されない傾向が強く、「他者に勝つか負けるか」という状態となり、『売上重視』ともいえるでしょう。


昔の日本人は『義理人情』などを大切にしていたと思いますが、現代社会では淘汰される傾向が強いと感じます。
なぜならば『思いやり』などの不確かな気持ちよりも、数字として確実に証明できる『利益』を求められるからです。


たとえば現代の人間社会で「愛をとりもどせ!」などと叫んでも、「それは何かのギャグ?」と思われるのではないかと思います。
Youはshock。

「北斗の拳じゃねーか!」

全てとはいいませんが、『物質主義』になればなるほど、愛や心が見失われ、人間は『虚栄』を求めがちになるのだと思います。
そして虚栄を好む人にしてみれば、愛や心などの『目に見えないもの』は、無価値に感じるのかもしれません。
なぜならば、愛や心という見えないものは自分を豪華に着飾ったり、他者に見せびらかしたりできないからです。

少し話は変わりますが、『懐中電灯』というものをご存じだと思います。
防災の必需品ともいえますが、『携帯用照明器具』です。
基本的には夜間や、闇の中で使用します。

もし『明るい昼間』に懐中電灯を点灯させたらどうなるでしょう。
周囲の光と同化して、懐中電灯の光は見えないはずです。

しかし夜間であれば、闇の中で懐中電灯の光が輝いて見えます。


だからこそ「世界が闇に包まれる必要があった」のだと思います。

中途半端に明るい状態では『光』がわかりづらいです。
むしろ光が見えないかもしれません。
そのため闇が深ければ深いほど、光が輝いて見えるはずです。

ですから、世界に愛や心が失われるほど闇は深くなり、闇が深くなればなるほど『愛の光』が輝きます。

世界が退廃すればするほど「何か違う」と気づき始める人が増えると思います。
その時に本当に『大切にするべき光』に気づく人が増えるはずです。

ただし、懐中電灯の光ではなく、『愛』や『心』の大切さです。

世界を闇にするために、様々な『役者』が盛り上げ役に徹してくれたのだと思います。
『悪』という表現は適切ではありませんが、『悪人』も『悪の存在』も『闇の存在』も世界にとって『必要な存在』だったのだと思います。

ただし、「いままでは必要な存在だった」のかもしれませんが、世界が闇に包まれた後は、『光の世界』にシフトする流れになるのではないかと思います。


どの道を進むのかは『自由選択』だと思いますが、やはり『光の道』であり『愛の道』に方向転換した方がよいのではないかと思います。

ちなみに「光と闇の戦い」などと表現されることがありますが、勝ち負けではなく、むしろ「戦う必要が全くない」と思います。

なぜならば『他者』と戦うわけではなく、自分自身の中で「愛に寄りそう」か「愛から離れる」のどちらかだと思うからです。

表現が難しいですし、『現時点』での僕の見解にすぎませんが、全ての存在は『根源の愛』の一部であり、人間は『愛の子』だと思います。
愛は全てを『内服』し、永続的に『拡大』を続けますので、『無限』に膨張するのだと思います。

何を伝えようとしているのか理解が難しいかもしれませんが、言葉として表現するならば下記のような状態ではないかと思います。

『根源』に愛があり、全ては愛からの派生。
全ての現象は愛であり、愛の表現である。
あなたは常に愛されている。
愛の子となる人間は、根源からの愛を『主体』とし、地上の世界に愛を表現する。

いつかは『この意味』をわかりやすく説明できるようになりたいと思っています。

ブログでは長文を書くことが多いですが、実際に伝えたいことは『単純なこと』です。
単純なことを何とか説明しようとして、長文になっているような状態です。

とりあえず『全ての存在』は根源の愛に常に繋がっていると思いますが、人間は『進む方向性』を『自分の意思』で選択できると思います。

ちなみに予知などをしていると「全ては計画的に予定されており、人間は自分の意思で選択しているつもりでも、実は選択していないのではないだろうか?」という解明できない疑問があります。
『自我(顕在意識)』は、『潜在意識(無意識)』に従っているような状態だからこそですが、個人的には自分の意思で選択できると「信じたい」です。

『進む方向性』に関してですが、冒頭の『外部の光』と『内在する光』の話に戻します。

物質重視の物質主義の人は『わかりやすい光』に惹かれ、『外部の光(虚栄)』を求めがちだと思います。


しかし愛や心から離れる人が増え続け、世界が完全に闇に包まれた時、闇の中に輝く『内在する光(愛)』に気づくことができれば、『愛の道』に戻ることができるかもしれません。

ただし、世界が闇に包まれた時でも『内在する光(愛)』に気づくことができなかった場合、おそらく「もはや戻ってくることはできない」と思います。

なぜならば真っ暗な闇の中で『輝く光』すら見えないのは、完全に『盲目の状態』となっているからです。
つまり「これが求めるべき光」と信じて群がる虫に「それは偽りの光ですよ」と伝えても全く理解できない状態と同じです。

それを単純に分けるとすれば『愛を大切にする人』と『愛を大切にしない人』の二極だと思います。
これは『善と悪』や、『光と闇』という単純な二極ではありません。

『自然の創造物』つまり自然に存在する『生物』を眺めるとわかりますが、本来であれば『永続的に続くサイクル』になっているはずです。
お互いに何らの相互作用があり、お互いを活かしあっています。

 

ちなみに弱肉強食的なバランスはあるかもしれません。
たとえば植物は、草食動物に食べられ、草食動物は肉食動物に食べられて…などです。
しかしそのバランスは「他者のために存在が活かされて、今度は別の存在のために活かされる」という状態になっていると思います。
そして食べられるだけでなく、種の数が繁殖しますので、よほどバランスが崩壊しない限り、永続的に続くと思います。


現代においては絶滅危惧種も増えているようですが、『本来あるべき環境のバランス』が狂ってきているからこそかもしれません。
様々な要因があるとは思いますが、人間の活動が原因の部分もあるとは思います。

 

たとえば様々な『鉱物』は人間社会で使用するための『資源』として採掘され続けています。
しかし鉱物は人間に採掘されるために存在しているのではなく、あえて『その場所』に必要だからこそ存在しているはずです。

つまり「様々な鉱物は地球のバランスを保つために存在している可能性がある」わけですが、人間が勝手に採掘すればするほど、何らかのバランスが崩れるのは当然の流れなのかもしれません。

 

また、鉱物の問題だけでなく、土地、森林、海を含め、人間の活動は自然に対して様々な悪影響を与えていると思います。


僕が思うに愛は永続的なものだと思います。
たとえば共存共栄のような状態だと思いますが、愛を大切にすると、『永続的な流れの道』となるはずです。
 

「それは理想にすぎない」と思われるかもしれませんが、『自然』や『生命』、そして宇宙を含めた『全て』を眺めると『本来あるべき姿』がわかってくるのではないかと思います。

しかし愛から離れると、永続的に続くはずの流れが、『破滅の道』に変わっていきます。
たとえば「奪い続けるだけではいつか必ず尽きる時が訪れる」のは誰でも理解できると思います。

人間は進化し、様々な物を発明します。
「大切な存在を助けたい」など、愛を元にした思いからの『創造』であれば素晴らしいと思います。


しかし人間は「傷つけるため」や「破壊するため」を目的にしたものも『創造』できます。


その違いは創造の根底部分に『愛』があるかどうかです。

現代は『様々な兵器』や『自然を破壊する道具』が溢れています。
『物質』として人間が創造したわけですから『何かしらの目的』が必ずあるはずですが、おそらく『愛』からではないと思います。

ちなみに人間は知恵を持っていますので『便利』を求めるのは仕方ないかもしれません。
そのため便利になるための『道具』は常に創造されますが、愛の視点を大切にして創造すれば、『何か』が必ず変化するはずです。
 

たとえば『同じ道具』だとしても、自然環境への愛を考慮すれば、自然のことを少しでも考慮した『素材』を使用すると思います。

道具に限らず、日常生活の『言葉』や『行動』も愛を大切すると必ず変わります。
たとえば『言葉』というのは『内なる思い』の表現です。
内なる思いの根本部分に『愛』があれば、愛のある表現となり、『愛のある言葉』になるはずです。

とりあえず現状の人間社会を見ればわかりますが、様々な面で『進化』はしていると思います。
しかし世界各地に核兵器が大量に存在し、自然環境は荒れ地にされ続け、人間は自分たちの手で自分たちの居場所を壊しているような状態です。
それは「進化ではなく、ただの暴走」のような状態ですし、むしろ加速しています。
人間はブレーキを踏むべきですが、アクセルを踏み続けるわけです。
現在はまだ破滅はしていませんが、このままいけば「遅かれ早かれ破滅する」のではないかと思います。

だからこそ少しでも多くの人が原点となる『愛』に戻るべきですし、愛を大切にした活動をするべきだと思います。

『愛の王国』というとギャグのようですが、愛を持つものが集まるからこそ、愛のある世界が作られます。
「それでは愛の王国の王様は誰なのか?」となると、人間ではなく『愛そのもの』です。


そもそも『人間』が人間の上に立つ『王様』のようになろうとするから、他者を支配するような『独裁者』が増え続けるわけです。

つまり「人間の王様は不要」ということです。

しかし『愛』は人間ではありません。
支配されることもなく、束縛されることもありません。
愛を大切にして、愛にもとづいた活動を『自由』にすればいいだけで、自然と愛が世界に広がっていきます。
それが『救世』になると思います。

ちなみに「愛など不要」と感じる人は、自ら離れていくと思います。
誰からも止められることはないと思いますし、誰も止めることはできません。
本人の自由意志での『選択』だからです。

ですから『光と闇の戦い』があるとすれば、『本人』がどちらの道を選ぶかだけだと思いますし、戦いをする必要が無いと思います。

ただし現代の人間社会においては、人間社会全体として『偽りの光(闇)』に誘う誘惑が多いと思います。
正直なところ虚栄はとても気持ちよいものです。
僕自身、虚栄を求めていた側ですからよくわかります。

そして『内在する光(光)』に魅力を感じる人は、まだまだ少ない状態だと思います。

ですから『闇』と『光』でいえば、現在の時点では「圧倒的に闇が優位な状態」だと思います。

しかし「愛は負けない」と思います。
なぜならば愛が『中心(根源)』となり世界が創造されているわけですから、揺らぎようがありません。

揺らぎやすいのは人間の『信念』だけなのかもしれません。
現代は『偽りの光』の誘惑が多いですが、くれぐれも惑わされないようにご注意ください、
 

実際のところ現代の人間社会では「あなたの幸せを願ってるからこそ」などと、むしろ偽りの光に向かうことを推奨する人が多いと思います。

ただし、本人たちは「良かれ」と思っているからこそ、悪意は全くないはずです。

たとえば『宗教』に洗脳されると信者は盲目状態になります。

しかし宗教ではなく『現代の人間社会そのもの』に洗脳された信者が大半ですから、とても厄介な問題です。



裏話ですが、毎回ブログを書くたびに後悔しています。

なぜならば未完の部分も多く、説明が下手で、無駄に長文だからです。
また、現在は文章を書きながら、頭の中をまとめているような状態のため、1年後には伝えている内容も多少変わっているかもしれません。
ちなみに現在伝えているのは『各パーツ』です。
いつの日か各パーツをまとめ、『全体として完成された内容』を、わかりやすい説明でお伝えできればと思っています。