人間には様々なタイプがある。性格的な意味で。
そのタイプは環境によるところもかなり大きいが、意外と生まれ持ったものに左右されるところも大きいんじゃないかと思う。
だからそのしがらみを超えて、自分の性格そのものを変えることはなかなか難しいことなんじゃないかと最近たまに思う。
性格と一口に言っても、その人のイメージを形作る要素は本当にいろいろある。
まずは根本的な"性格"
曲がったことが嫌いとか、ノリがいいとか、すぐに落ち込むとか
自分のあまのじゃくのような性質も、性格。

おこりやすい、打たれ弱い、神経質、面白さ、ストイック、空気が読めない、、、
本当に性格を表す形容詞は沢山ある

しかしその中でも、後天的に身につける要素とか、その人の"能力"と密接に関わっているものと、そうではなくて生まれ持ったものによるところが大きい、湧き上がってくる内なる感情、エネルギーによるところが大きいものとに分けられると思う。

後者は例えば
人を笑わせたいと思う気持ち、人とずっと話していたいと思う気持ち、とにかくイキってマウントを取りたくなる気持ち、とにかく誰かに構ってほしい気持ち
とかがあると思う。

こういったものは後天的に意識的に身につけるものじゃなくて、本当に先天的な、遺伝とかによるところが大きいと思う。
人とずっと話していたい、常に人と一緒にいないと寂しくて生きている実感が湧かない
そういう感覚が全然わからない。
基本的には特に人とずっと喋っていたいわけではないし、あまり自分から人と話す時間を作りたいと思うことはない。
こういう考え方もまた「内なる力」である気がする。
知識を共有したいとか、考え方を共有したいと思うことは大いにあるし、何度でも言いたくなる。だが日常のちょっとした面白かったこととか、適当なゴシップを共有したいという気持ちはあまり長く息が続かない。
こういう「湧き上がるエネルギーの差」は生まれつきのものなのだろうか。
しかし実生活で社会的に楽しく生きていくのに必要なのは後者のエネルギーの方。こちらが低くては中々社会的に普通に楽しいとされている生活には近づけない。
だからどうにかこれを後天的に身につけることができないかと考える毎日だ。
いや、どちらかというと
「後天的に身につけるものだ、ということを示すための理論の道筋を考える毎日」かもしれない
理論、悪い言い方をすると言い訳を探すことに常に頭を使うということは、今まであまり思ってこなかったが非生産的なことなのかもしれない。
ごちゃごちゃ言う前にやれ、案ずるより産むが易しという格言がここでも当てはまるかもしれない。

つくづく思う。
人生に悩みは絶えない。