野口英世の伝記や映画などみたけど、家族についての記載は少ない。野口英世には姉と弟はいるのですが、その記載が少ない。
今回は、野口清作の小学校当時の事を書きます。
野口清作は、猪苗代(いなわしろ)高等小学校四年のとき、作文で『ぼくの左手』という題名で書きました。野口清作は、
近所の子どもから、事あるごとに 「ヤーイ、貧乏、てんぼう。貧乏、てんぼう。」とからかわれたり、いじめられたりしていました。「貧乏」と“かたわ”の手を意味する「てんぼう」との、語呂(言葉の調子)がうまく合っていて面白いので、つい調子に乗ったまでのことかもしれません。でも野口清作はとても傷つき、作文「ぼくの左手」という形で、同級生や先生に、自身の悩みを告白したのです。
同級生は涙を流して、野口清作の苦しさや悲しみがわかり、野口清作の手の手術を受けさせるための費用を集めはじめ、先生や父母も協力して集めたのです。そして手の手術を受けることができました。
野口清作は、野口英世と名前を変えましたが、小学校の同級生は、医師になる野口英世を応援しました。アメリカにいき研究で成果を出し、15年後日本に帰国したとき、小学校の同級生が集まり野口英世を歓迎し、その場で「竹馬会」を結成し、野口英世に寄せ書き等を送り激励しました。野口英世は黄熱病に感染して亡くなるのですが、野口英世はアメリカでの研究している生活で夢の中で小学校の同級生との思い出や故郷福島の風景をよくみていたと話していたそうです。
私も小学生の頃、家が貧乏だったため、いつも同じ服をきていました。「貧乏」と言われていました。脚の障害のため、「びっこ」、「ちんば」と言われ、吃音もあったため、「どもり」とも言われていました。
とても傷つきました。なので野口清作の気持ちがよく理解できます。一部の同級生からは馬鹿にされ悪口はよく言われましたが、一緒によく遊んでくれた同級生も何人かいました。みんな今どうしているのかなあ。
参考資料
野口清作 「ぼくの左手」
ぼくの左手は、やけどでにぎりこぶしのままかたまっています。それは、ぼくが三歳のときでした。
ぼくは、いつも左手をふところに入れて、かくすようにしていましたが、見つけられて、「てんぼう」といわれ、いじめられました。
遊びのなかまにいれてもらえないし、悪口(わるぐち)をいわれ、からかわれるくやしさから、ぼくは、学校がいやになり、ずる休みをしたことがありました。これを知った母は、うす明(あ)かりのいろりのそばで「左手は不自由だけど、右手が使えるじゃないの、足があり歩くこともできるし、一番大切な頭があり、勉強ができるじゃないの、どんなに貧しくとも、学問で負けないようにしなければ。」と、目に涙(なみだ)をいっぱいためて、言われました。
自分の心の弱さに気づき、勉強だけは負けないぞとがんばりました。しかし小学校を卒業しても上の学校には行かれません。お金がないからです。家は貧しくて借金(しゃっきん)もある。左手が不自由だ。百姓(ひゃくしょう)の仕事はうまくできそうもない。考えれば考えるほど、不安になってくる。この左手の指さえ動けば、この左手の指さえ動けばとかたまった指を一本一本切りはなそうと思い、小刀(こがたな)を取り出し、指のつけ根をつきさそうとしましたが、それもできませんでした。
今では、「てんぼう」とは言われなくなりましたが、村人のぼくを見る眼は、かたわ者を見る冷(つめ)たいあわれみの眼です。この左手をどんなにかくしても、手首のかたまりは、なおりません。この左手があるがぎり、貧乏(びんぼう)とかたわの名は消えません。大人(おとな)になっても百姓(ひゃくしょう)はできず、また、ほかの仕事もできず、これから先、どうしたらよいか、考えると世の中がまっ暗になってしまいます。
<参照、会津若松市教育委員会の情報より>