「悩みのるつぼ」
朝日新聞be 2026.3.21.

 

「知らない人に声をかける小6の娘」
 女性 50代

文筆業 清田隆之さんの回答
「娘さんと思いを送り合いましょう」


相談内容:
小6の次女は、天真らんまん、友だちも多く、しっかりしている。

先日の夕食の時、「バス停でおばあさんに『こんにちは』と挨拶したら、
『あら~ご挨拶してくれるの?いい子ね~』と言われた」と嬉しそうに話してくれた。バス停は、我が家の横にあり、小学校の帰宅時に前を通る。
その際に、高齢の方に挨拶していることは以前から知っていた。

 

バス停を使うのはご近所の方が多いし、何より、かわいい娘がご高齢の方に挨拶をして少しでも元気になってもらえるのなら、私もうれしい。

 

でも、知らない人に挨拶する娘が何か事件に巻き込まれないか心配。

かといって「知らない人には挨拶してはいけない」などと注意するのも寂しい気がする。
挨拶する相手は高齢の女性だけで、男性にはしないようだが、今日挨拶した方は、息子さんと一緒だったようだ。今後もこのままで良いのだろうか?

娘に何と言ったら、よいのか、アドバイスお願いします。

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回答:「娘さんと思いを送り合いましょう」

今回の相談文には、一見ネガティブなところがない。

親としても、基本的には今のまますくすく育ってほしいようだ。

できることなら、無用な警戒心や猜疑心も植え付けたくない。

私も6歳の女子を育てる身として完全に同感......

だが、悲しいかな、<娘が何か事件に巻き込まれないか心配です>という言葉が
リアルなものとして理解できる、この社会の体感治安が悪化しているのも事実。

本来なら、誰とでも気軽に挨拶できる社会であってほしい。
でも知らない人、とりわけ「男性」に対する警戒心を抱いてしまうのは、
ある意味で仕方ないこと。
メディアには性犯罪のニュースがあふれ、例えば自治体のLINE公式アカウントに登録すると、不審者情報が日常茶飯事のように流れてくる。
 

こういう環境にあっては、様々な不安に駆られるのも無理はない。
何かあってからでは遅い。それならいっそ、目をつけられないよう、接点を持たないよう、娘に挨拶を控えさせ方がいいか――。

相談者さんは、いまそういう葛藤の中にいると想像する。

ではどうするか。安心安全を保障できるようなアイデアはないが、娘さんには娘さんなりの考えや感覚があるはず。まずはそこに耳を傾けていくのは、いかが?
そして相談者さんの不安も素直に伝えていく。

 

親には親の責任と葛藤があり、子どもには子どもなりの自由や判断力がある。
もちろん対話だけで解決できる問題ではないので、ある種の強制力が必要な場面もときにはあるかもしれないが、「あなたのことは信頼している」「でも親としてはこれが心配」というメッセージを送る。そうして共有情報を増やしていったり、ルールや対応策を構築したりできれば、少しずつ不安材料は減らしていけると思う。

 

子どもたちの安全を守りながら、その自由と能力を育んでいく。

同時に社会的な体感治安の向上にも関わっていく。これこそが大人の責務だと、ご相談を読みながら改めて考えさせられた。

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カウンセラーの回答:「知らない人に声をかける娘さんへ、親は何を伝えるか

― 挨拶・境界線・承認欲求の育ち方」

この相談を読んで、娘さんの明るさや人懐っこさが、とても自然に見えるということです。知らない高齢の方に「こんにちは」と声をかける。
そして相手から「いい子ね」と返ってくる。

娘さんにとってそれは、きっと嬉しい体験なのでしょう。


挨拶する

相手が笑顔になる

褒められる

また挨拶する

こうした流れは、とても自然です。
子どもは相手の反応を通して、「自分はこれでいいんだ」と学んでいきます。
ですから、ここには承認欲求の芽も見えます。

承認欲求というと、悪いもののように受け取られがちですが、本来はそうではありません。
人に喜ばれたい、認められたい、笑顔を向けられたい。
そうした気持ちは、人間関係を学ぶ上で自然なものです。

ただし「相手に喜ばれること」と「自分の境界線を守ること」は別の話です。

 

● 挨拶はよいこと。でも、誰にでも近づいてよいわけではない

この相談者さんは、娘さんのよさを消したくないのだと思います。
警戒心ばかり植えつけるのも寂しい。
その気持ちは、とてもよくわかります。
 

ただ、親としてはやはり、
知らない相手との距離感は教えていく必要があります。


「知らない人に挨拶してはいけない」
ではなく、
“親切”と“無防備”は違うということ。


挨拶をするのはよい。でも、

  • 立ち止まって長く話し込まない

  • 近づきすぎない

  • 名前や学校名を言わない

  • 一人でついて行かない

  • 嫌な感じがしたら、すぐ離れる

こうした境界線は必要です。

つまり、娘さんに必要なのは、
人に優しくすることをやめることではなく、
自分を守る線を覚えること

 

●「いい子ね」は、子どもを外に向かわせることがある

もう一つ気になるのは、娘さんが
「いい子ね」と褒められることに喜びを感じている点。
 

これはごく自然なことです。
ただ、ここには親として少し気をつけたい面もあります。


子どもによっては、「褒められると嬉しい」
が強くなりすぎる。
だんだん
“相手に喜ばれる自分”を演じる方向に行くことがあります。


つまり、

  • 挨拶すると褒められる

  • 褒められると嬉しい

  • もっと相手に好かれたい

  • 相手の期待に応えたくなる

という流れです。

 

ここで境界線が弱いと、
本当は少し嫌だ、怖い、違和感がある、という感覚よりも
相手にいい顔をしたい気持ちが前に出てしまうことがあります。
 

特に、もともとサービス精神が強い子、空気を読む子、しっかりした子ほど、
「相手が喜ぶなら」と無理をしやすい面があります。


ですから、今回の相談は
「挨拶を続けていいかどうか」だけでなく、
“人に喜ばれるうれしさ”と、どう付き合うかを教える機会でもあると思います。
 

● 挨拶のうまさと、境界線のうまさは同じではない

これまでの人生で、感じのよい挨拶をする人に好印象を持ったことは何度もありました。挨拶ができる人は、それだけで素敵に見えるものです。
 

けれど、挨拶が上手なことと、その人の対人関係が安定していることは、
必ずしも同じではない、と感じたこともあります。


人に好かれるふるまいができることと、
自分の境界線を大切にできることは、別
です。

 

挨拶は、人とのよい関係の入口になります。
ただ一方で、相手に好かれることや、感じのよい子だと思われることが
強い支えになると、承認を求める力も育っていきます。


だからこそ、礼儀や愛想のよさだけではなく、
「どこまで近づくか」「どこで離れるか」
という感覚も一緒に育てていく必要があるのでしょう。

 

● 母親が見ているのは「事件」だけではない

小学校からの帰宅時間にバス停で会ってしまうのなら、
中学校に入って帰宅時間がずれれば、自然と会わなくなる人もいるでしょう。

そういう意味では、この“挨拶の問題”自体は、時期がくればいったん薄れていく可能性もあります。


でも、それで終わりではありません。
バス停でのやりとりがなくなっても、
人に喜ばれることの嬉しさや、
褒められることで育つ承認欲求は、その後も育っていきます。


だからこそ、親がいま見ているのは、単に
「事件に巻き込まれるかどうか」
だけではないのだと思います。


論理的に危険が証明できるわけではない。
でも、なんとなく気になる。
少しひっかかる。
この感覚は、とても大事です。


親の不安を全部子どもに伝える必要はありませんが、
親が感じる小さな違和感まで無視しなくていいのです。

境界線というのは、頭で学ぶだけではなく、
「なんとなく変」「少し嫌」という感覚も含めて育てていくものだからです。

娘さんにも、
「知らない人と話していて、少しでも変な感じがしたら、その感じを大事にしていいんだよ」と伝えてよいと思います。
 

● 親が伝えたいのは、「優しさ」より「線の引き方」

娘さんには、こんなふうに伝えるのがよいのではないでしょうか。

「挨拶できるのは素敵なことだね」
「おばあさんが嬉しそうだったのも、あなたのよさだと思う」
「でもね、どんなに感じのよさそうな人でも、近づきすぎないことは大事なんだよ」


つまり、最初に否定しないことです。
娘さんの善意や嬉しさを受け止めたうえで、
そのあとで“だからこそ、自分を守ることも大事”と教える。
 

たとえば、

  • 挨拶はしても、その場で立ち止まらない

  • 話しかけられても、距離を取る

  • 何か聞かれても、家のことや学校のことは言わない

  • 変だなと思ったら、すぐ家で話してね

こういう具体的な約束のほうが、子どもには伝わりやすいでしょう。
 

回答者の清田さんは、娘さんと相談者さんが
思いを送り合うことの大切さを書いておられました。
その通りだと思います。

ただ、カウンセラーの視点から一つ足すなら、
これは自由か制限かの二択ではなく、境界線を教える機会ということです。


子どものよさを消さない。
でも、無防備にはさせない。
人を怖がる子にするのではなく、
人との距離を測れる子に育てる。

 

そのためには、
「挨拶してはいけない」でも
「好きにしなさい」でもなく、

“優しさは持っていていい。でも、自分の線は越えさせない”


この感覚を、日常の中で少しずつ教えていくことが大事なのだと思います。

 

NHKの朝ドラ「ばけばけ」
司之介のセリフが、
心に残りました。

「よかったな、昔のわし」

 

ヘブンが、大学での職を失い、
それを家族に言えずに、
仕事に行っているふりをしていました。


ヘブンを尾行して、司之介は
ヘブンがクビになったことを

打ち明けられました。


武士の時代が終わり、
どう生きていけばいいかわからず、
立ち尽くしていた時代。

「昔の自分と同じにおいがする。
昔のわしだ」と。
「昔のわし」と、ヘブンを重ね、

励ます司之介。
 


やがて、ヘブンは、おトキに失職を打ち明けます。

おトキは、
書く時間ができてよかった
いっぱい書けるね
私にも読めるものを書いてほしいと

書く人としてのヘブンを励まします。

「よかったな、昔のわし」は、
そんな流れの中で出てきた言葉。

 

ふと、そんなふうに言えることが
私にもあるだろうかと考えました。


悩んでいる人に寄り添えた時、
泣いていた人が最後は笑って電話を切った時、
自分のしんどかった体験が少しでも役立ったと思えた時。
「よかったな、昔のワタシ」と言えるのかなと思いました。

でも、こう書いてみて、
ちょっと違うかなと感じました。
 

「しんどいことはみんな
10代で終わってる」
 

占い師にそう言われた私。


振り返ってみると、

「昔のワタシ」に、
「よかったね」と言えたのは、
19歳で渡英した時、
40代で外国語大学に入学した時、
50代で本を出版した時。

「あきらめなくて、よかった」と
思えた時です。


あなたは、どうですか?

あなたが、「よかったな、昔のワタシ」と

思うのは、どんな時でしょう。


 

「毒親」という言葉で、
自分のしんどさを説明できることがあります。
それは、とても大切な視点。

「ああ、だから苦しかったんだ」

自分の体験に言葉が与えられ、
心の整理にとても役立ちます。

一方で、すべてを「毒親」という枠組みだけで

説明しようとすると、
少し息苦しくなることもあります。


■ 行動パターンとしての「しんどさ」

毒親育ちの方には、
•     「〜しなければならない」
•     「〜してはいけない」
という行動の方向を決める“心のクセ”が見られることがあります。

交流分析(TA)では、これを ドライバー(Driver) と呼びます。
子どもの頃に身につけた「無意識の行動指令」で、
大人になってからも自動的に働き続けるものです。

その影響で、
•     部活やPTAで役を引き受けやすい
•     頼まれると断れない
•     気づいたら抱えすぎている
といったことが起きやすくなります。
ここまでは、これまでもお伝えしてきた通りです。


■ それを全部「毒親のせい」にしてしまうと…

「毒親のせい」と説明できる部分は確かにあります。
ただ、その枠組みだけで自分を理解しようとすると、
見方がひとつに固定されてしまうことがあります。
そこで、少しだけ別の光を当ててみることもできます。

たとえば、
•     自分の特性や傾向を知る
•     コミュニケーションの癖を知る
•     周囲との関係性として見てみる
•     自分の強みを確認する

こうした視点を重ねることで、
「なぜこうしてしまうのか」を
「毒親育ち」という理由だけでなく、
いくつかの要素の重なりとして
見られるようになっていきます。


■ 子育ての場面で苦しくなるとき

「毒親育ちの私が、ちゃんと子育てできるのだろうか」
そう感じる方は少なくありません。

うまくいかないときに、
「やっぱり私は毒親育ちだから、”普通”がわからないんだ」
そう自分を責めてしまうこともあります。

そしてまた、
「私は子どものことがこんなにかわいいのに、
あの人はどうして私にあんな態度がとれたのだろう?」
と、母のことを思い浮かべて苦しくなることもあります。


■ もうひとつの視点を重ねてみる
初めての出産や子育ては、
誰にとっても戸惑いや不安が大きいもの
です。

その大変さに、
「毒親育ちだから」という意味づけが加わると、
しんどさが二重に重なってしまうことがあります。

ひとつは、子育てそのものの大変さ。
もうひとつは、これまでの経験からくる不安。
このふたつを、少しだけ分けて見てみる。

そうすると、
いま感じている大変さと、
過去から続いている苦しさが、
別のものとして見えてくる
ことがあります。
それだけでも、
心が少し軽くなることがあります。

そう話すと、ホッとされる相談者さんも多いです。


■ 「毒親のせい」と少し離れる

それだけに頼るのではなく、
ひとつの視点として、横に置いてみる。

すると、「毒親のせい」というレッテルで
これまで見えなかったもの
に、
やわらかな光が当たってくるかもしれません。


 

 部活問題と母親の境界線
 “助け合い”の顔をした押しつけに苦しくなるとき

昨日の「あさイチ」で、4月から進む学校の部活動の地域移行について
取り上げていました。

地域でうまく回るケースもあれば、そうでないケースもある。
費用の問題、指導者の問題、保護者の負担の問題。
どれも簡単な話ではありません。


とくに気になったのは、
そのしわ寄せを母親たちが引き受けることになるのではないか
という点です。


試合の送迎。
集合場所の体育館までの送り迎え。
車出し。
ガソリン代。
下の子の予定との兼ね合い。
仕事との調整。

そして、ときには「みんなのため」にやることが当然のように扱われる空気。

子どもの数が減っている今、ひとりの親にかかる負担は、昔より重くなっています。
しかも今は、母親たち自身も働いている人が多い。
かつてのように、誰かがいつも動ける前提ではありません。


それでも現場では、まだ
「助け合いだから」
「子どものためだから」
という言葉で、多くのことが回されているのではないでしょうか。


でも、この「助け合い」という言葉。
ときどき、とてもきれいな顔をした押しつけになることがあります。

実際、春はとくに、こういう相談が増えます。

「何か変だ」と思っても、言えない

部活やPTAの話で、よくあるのがこれです。

本当は、何かおかしい。
負担が偏っている。
このやり方では、一部の人にしわ寄せが行く。
そう感じていても、異議を唱えにくい。


なぜなら、声を上げたことで
「あの家は協力的ではない」
と思われるかもしれないからです。

そして、もっとつらいのは、その先に
「子どもが試合に出づらくなるのではないか」
という不安があることです。
 

もちろん、表向きはそんなことはない、ということになっているでしょう。
けれど、親たちは敏感に空気を読みます。

あの家は文句が多い。
協力しない。
感じが悪い。
そんなふうに見られたら、子どもが居づらくなるかもしれない。
コーチや周囲の保護者との関係がぎくしゃくするかもしれない。


そう思うと、
「おかしい」と感じても飲み込んでしまう。
断りたいのに断れない。
無理をしてでも引き受けてしまう。
 

これは、単なる部活の話ではありません。
“声を上げにくい空気”の中で、誰かが黙って背負わされる構造の話です。

“助け合い”のように見えて、実は偏っている

たとえば、

「あなたのところの車のほうが大きいから」
「今回はお願いできる?」
「みんな助かるから」
「あなたがやるのがいちばん効率いいよね」

そんなふうに、もっともらしい理由をつけて、
仕事が特定の人に集まることがあります。

一見、合理的に見えます。
でも、同じ人ばかりが頼まれるなら、それはもう偶然ではありません。

  • 断らなさそうな人

  • ちゃんとやってくれそうな人

  • 波風を立てなさそうな人

  • 後で文句を言わなさそうな人

そういう人は、集団の中で見抜かれます。
そして、頼られているように見えて、
実は負担を押しつけられていることがあります。


さらに厄介なのは、
実際に動いた人ではない人が、
全体に向けて「うまく回りました」と自分の手柄のように

報告することもある、という事実。
 

やった人の疲労。
使った時間。
払ったガソリン代。
気を遣ったエネルギー。

そこは見えないまま、
表面だけが“助け合い美談”として処理される。


けれど、現実は美談では済みません。

ガソリン代も高くなった。
物価も上がっている。
仕事や介護、きょうだいの予定を抱えながら動いている家庭も多い。
「子どものためだから」で吸収できる範囲には、限界があります。

私自身の引き受けすぎた経験

実は、私自身にも似た経験があります。

幼稚園では会計、
小学校では広報委員。
同じ年に、二つの役を引き受けてしまったのです。
 

ほかのお母さんたちが、
「介護があるから無理」
と言うので、
それなら私が引き受けるしかないか、と思ってしまったのです。


けれど、その年に限って、
母や義父母が次々と入院。
私自身も病院通いで大変な年になりました。
あとになってわかったことですが、
「介護があるから」と言っていた人たちは、
実際はパートの仕事が忙しかったようでした。

介護の話がまったくの嘘だったとは言いません。

あのとき痛感したのは、
断る人の事情は尊重されやすいのに、
引き受ける人の事情は、知らん顔されやすいということ。

 

もちろん、そのとき関わったお母さんたち全員に、
いやな印象を持っているわけではありません。

 

複雑な事情を抱えながらも、
くじで当たった以上は当然のように委員長を引き受けた方がいました。
偶然にも誕生日が同じで、不思議と気が合い、
今も交流があります。
とても前向きな方で、話していて元気をもらえる人です。

だからこそ思うのです。


問題は、誰がいい人で、誰が悪い人か、という単純な話ではない。
断った人にも、断るだけの理由があり、引き受けた人にも、

引き受けた人なりの事情がある。


そんな中に、責任感の強い人、断れない人、共感しやすい人に
負担が偏りやすい構造
があるのだと思います。

なぜ、断れない母親に負担が集まりやすいのか

ここで見えてくるのが、
毒親育ちの人に多いドライバーです。

ドライバーというのは、
子どもの頃から心の中にしみ込んだ
「こうしなければならない」
という内なる命令のようなものです。

 

たとえば、

・迷惑をかけてはいけない

・期待に応えなければならない

・ちゃんとやらなければならない

・人をがっかりさせてはいけない

・波風を立ててはいけない
 

こういう思いが強い人は、
頼まれると、とても断りにくいのです。


本当は、体力的にも、時間的にも、経済的にもきつい。
でも、「ここで断ったら悪い」「私が我慢すれば済む」と思ってしまう。

しかも、周囲から
「助かる」
「いつもありがとう」
「さすがですね」などと言われると、
しんどさより先に責任感が動いてしまうこともあります。


これは、性格の問題だけではありません。
長いあいだ、親の顔色を見たり、
空気を読んで動いたり、
期待に応えてきた人ほど、
 

こういう場面で昔の癖が出やすいのです。

親の機嫌を損ねないようにしてきた人は、
今度はチームや保護者の空気を損ねないように動いてしまう。
そう考えると、PTAや部活の問題は、
ただの役員論や送迎論ではなく、
境界線の問題でもあるのです。

「子どものため」は、母親の自己犠牲を正当化しやすい

厄介なのは、こういう負担が
「子どものため」という大義名分で包まれやすいことです。

子どもが頑張っているから。
みんなで支えないと。
ここで親が協力しないのはどうなの。
子どもがかわいそう。
 

こうした言葉は、一見もっともです。
でも、その言葉によって、
無理をしている母親の疲弊や不公平感が見えなくなることがあります。

 

そして、毒親育ちの人ほど、
この「子どものため」という言葉に弱いことがあります。

自分が我慢すれば丸く収まる。
私が少し無理をすれば、あの子が嫌な思いをしなくてすむ。

そう思ってしまいやすいからです。

こうした場面では、“協力”を促す言葉そのものが、断りにくさを強めてしまうのです。

正論に聞こえる言葉ほど、断りにくさを強める

こういう場面で、よく聞く言葉があります。

「みんなで頑張りましょう」
「子どもたちのためですから」
「監督やコーチもボランティアでやってくださっているのだから、私たち親もできるだけのことはしないと」
「お互いさまですから」
「できる人ができることをすればいいので」


どれも、一見もっともに聞こえます。
誰かを責める言い方でもないし、表面上は前向きです。

でも、こういう言葉が並ぶときほど、
負担の偏りが見えにくくなることがあります。

 

「できる人」と、「いつもやっている人」は同じとは限りません。
「できる範囲で」と言いながら、断りにくい空気ができていることもある。
「みんなで」と言いながら、実際には一部の人に仕事が集中していることもある。

さらに厄介なのは、
こうした言葉が、協力しない人を責めるためではなくても、
結果として、断ることへの罪悪感を強めやすいことです。

 

とくに、
迷惑をかけてはいけない
人をがっかりさせてはいけない
期待に応えなければならない
という思いが強い人ほど、
こういう“正しい言葉”に強く縛られやすいのです。

 

感謝することと、無理をして背負うことは、本来別の話です。
監督やコーチにお世話になっていることと、
母親が自分の時間やお金や体力を削ってまで応え続けることは、同じではありません。

 

でも現場では、その線引きがあいまいなまま、
「協力しない親」
「空気を読めない親」
と思われたくない気持ちを刺激する言葉となるのです。
 

正論に聞こえる言葉ほど、
人を黙らせたり、無理を飲み込ませたりすることがある。
そこは、少し立ち止まって見ておきたいところです。
 

自己犠牲が積み重なった先に、本当に健全な支え合いがあるのか。
母親が黙って倒れそうになりながら支えている仕組みを、
「いい話」で終わらせてはいけないと思います。

うまくいっているところは、仕組みを変えている

もちろん、うまくいっている地域やチームもあります。

そういうところは、昔ながらの
「善意と我慢で回す」やり方ではなく、
みんなに負担が偏らないように、参加しやすいように、
最初から仕組みを工夫しているようです。
 

一部の保護者だけに車出しや雑務が集中しないようにする。
できる人だけが背負い込まないように役割を見直す。
コーチや監督に意見を言いにくい空気ではなく、
保護者も含めて、もう少しフラットに話せる関係を作ろうとしている。


つまり問題は、
母親たちがもっと頑張れば回る、ということではなく、
今の時代に合う仕組みに変えられるかどうかなのだと思います。

自分の子がそのチームにいる間に変わる保証はない。
それでも、こうした改革は必要です。

「子どものため」を、
誰か一人の我慢で支えるのではなく、
みんなで続けられる形にしていく。
その視点が、これからますます大事になるのではないでしょうか。

改革には時間がかかる

私が30代後半のころは、
学校でも地域でも、名簿が当たり前のようにありました。
個人情報は、今よりずっと無造作に公開されていた時代。


「名簿はおかしい」と声を上げた人がいました。
けれど当時は、ほとんどの人がその問題をよく理解できなかったように思います。

「何がいけないの?」
「昔からそうしているのに」
そんな空気がありました。

 

振り返れば、時代は確実に変わりました。
けれど、そこに至るまでには時間がかかりました。

部活やPTAのあり方も、きっと同じなのでしょう。
おかしいと感じる人がいても、すぐには変わらない。
自分の子がそのチームにいる間に改革が間に合う保証もない。

それでも、負担の偏りや、言いにくい空気や、
母親の自己犠牲を“当たり前”にしないための見直しは必要です。

改革には時間がかかる。
でも、だからこそ、違和感をなかったことにしないことが大事なのだと思います。

 

部活動の地域移行は、これからますます現実的なテーマになっていくのでしょう。
うまくいく地域もあれば、難しい地域もあると思います。

ただ、どんな制度であっても、
その陰で、また母親たちの無償労働や我慢で回るのだとしたら、
それは見直さなければならないはずです。

 

「子どものため」
「みんなのため」
「助け合いだから」

 

その言葉が、いつのまにか
断れない人への押しつけになっていないか。
境界線を越えていないか。

 

とくに、毒親育ちで、
昔から空気を読み、期待に応え、迷惑をかけないように生きてきた人ほど、
こういう場で無理をしやすいのです。

 

だからこそ、言いたいのです。

断ることは、冷たさではない。
違和感を言葉にすることは、悪いことではない。


子どものために頑張ることと、
自分をすり減らして差し出すことは、同じではありません。
同じ負担の偏りを繰り返さない。
善意と境界線を両立させる。
それが、次の世代の母親たちのためにも必要なことではないでしょうか。

 

次回は、
「毒親のせいにする」視点から少し離れてみるヒントについても、

書いてみたいと思います。
過去の影響を見つめることと、そこに縛られ続けることは、同じではない。
そのあたりも、少しずつ考えていけたらと思います。

 

「母のようにはなりたくない」
そう思って生きてきたのに、なぜこんなにも心が縛られるのだろう。
そんなふうに思う人は、少なくありません。

 

前回の記事では、
「私は善人の皮をかぶった偽善者ではないか」と

自分を責め続ける苦しさについて書きました。
今回は、その続きです。

 

私はあの記事を読みながら、
単なる後悔や罪悪感の話だけではなく、
“自分を許してはいけない”と思い込む心の構造が気になりました。
 

とくに気になったのは、

  • 偽善をひどく恐れていること

  • 「母のようにはなりたくない」という思いが、人生の軸になっているかもしれないこと

  • 苦しみ続けることを、誠実さの証明のように感じていること

今日は、そのあたりをもう少し掘り下げてみたいと思います。

聖書の言葉が投げかけているもの

回答者の姜尚中さんは、聖書の一節を引いておられました。

これは、ヨハネによる福音書8章にある有名な場面。

律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の罪を犯したとされる女性を
人前に連れて来て、イエスにこう迫ります。

「こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法には書かれている。あなたはどう言うのか」
 

つまりこれは、ただの問答ではありません。
群衆の前に一人の女性を引き出し、
裁き、さらし、石を投げるかどうかを問う場面です。


そのときイエスは、こう言います。

「あなたがたのうち、罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」

すると、人々は一人、また一人と立ち去り、
最後には誰も石を投げる者はいなくなります。
 

この場面が伝えているのは、
「何をしてもよい」ということではありません。

人は誰でも、誰かを断罪できるほど真っ白ではない。
完全に無垢な立場から、人を裁ける人などいない。
そのことを、静かに、しかし鋭く突いているのだと思います。


今は、人を責める言葉があふれやすい時代です。
正しさの側に立っているつもりで、
つい誰かに石を投げたくなることもあります。


この聖句は、
「あなたは本当に、石を投げられる側なのか」と
こちらにも問い返してきます。
 

それは他人に向けられた問いであると同時に、
自分自身を責め続けている人への問いでもあるように思います。

「偽善」がそんなに怖いのはなぜか

この相談で、私がいちばん引っかかった言葉は、やはり「偽善」です。

人は、そんなに単純ではありません。
 

誰かに親切にするとき、そこに混ざるものは一つではないでしょう。
罪悪感、同情、評価されたい気持ち、自己満足、過去を償いたい思い。
いろいろなものが混ざりながら、それでも人は行動します。

それが人間の現実です。
 

昔、読んだ物語に、こんな場面がありました。
孤児院に寄付をする大人たちを見て、
「あれは偽善ではないか」と疑う少女に、先生がこう言うのです。

「何もしない人より、偽善でも寄付してくれる人のほうがいい」


身もふたもない言い方に聞こえるかもしれません。
でも、この言葉には、人間というものの現実がよく表れている気がします。


完全に純粋な善意だけで動ける人は、そう多くない。
それでも、誰かを助ける行動には意味がある。
そこに救われる人がいるなら、なおさらです。

善意の中に少し打算が混ざっていたからといって、
すべてが嘘になるわけではありません。

毒親育ちが「偽善」を強く嫌う理由

毒親育ちの人は、表では立派なことを言いながら、
裏ではまったく違うことをする大人を見てきたことがあります。

「あなたのため」と言いながら支配する。
善意を語りながら傷つける。
正論を使って、相手を黙らせる。
 

そういう大人を見て育つと、子どもは心のどこかで思います。

「自分はあんなふうにはなりたくない」

この思いは、ごく自然なものです。

実際、その決意が支えになってきた人もいるでしょう。

乱暴にならないように。
人を見下さないように。
子どもに同じ苦しみを味わわせないように。

親とは違う生き方を選ぼうとしてきた人は、少なくありません。


けれども、この思いが強すぎると、
今度は自分の中に少しでも矛盾や打算を見つけたときに、

「私は結局、あの人たちと同じだ」

と、極端に自分を責めるようになることがあります。

ゼロか百か。
善か悪か。
本物か偽物か。

その中間がなくなってしまうのです。

「母のようにはなりたくない」が人生の軸になるとき

カウンセリングの場で、よく耳にする言葉があります。

「母のようにはなりたくない」

この言葉には、切実さがあります。
長いあいだ傷ついてきた人ほど、この思いは強いものです。


ただ、ここには落とし穴もあります。

「母のようになりたくない」という思いが強すぎると、
“母と逆であること”が、生き方の基準になってしまうことがあるのです。

自分が本当に望んでいるものではなく、
「母と同じか、違うか」で選んでしまう。

すると、一見自由に見えても、
実はまだ心の中心に母がいることになります。

自分の人生なのに、判断のものさしが、いつまでも母のまま。
これは苦しいことです。

思い出すなと言われるほど、浮かんでしまう

― シロクマ実験が教えてくれること

ここで思い出すのが、いわゆるシロクマ実験です。

アメリカの心理学者ダニエル・ウェグナーが行った研究で、
「考えないようにしようとするほど、かえってそのことが頭に浮かぶ」
という現象を示したものです。


参加者は、
「白いクマのことを考えないでください」
と指示されます。

ところが実際には、
考えまいとするほど、白いクマが頭に浮かんでしまう。


これは、思考を無理に抑え込もうとすると、
かえってその対象が意識にのぼりやすくなる、ということを示しています。


同じことが、心の中でも起こります。

「母のようになりたくない」
「絶対にああはなりたくない」

そう思えば思うほど、
その存在は心の中で大きくなり、
かえって影響力を持ち続けることがあります。


そして、ときには
「母と逆かどうか」が判断基準になって、
本当は自分に合っているか、自分が望んでいるか、という
もっと自然な選択が見えにくくなることもあります。

“あの人のようにはならない”ことに力を使いすぎると、
“私はどう生きたいのか”が後回しになる。
これは、少し皮肉なことです。

謝罪は、誰のためのものなのか

以前、こんな話を聞いたことがあります。
小学生の頃に意地悪をした相手に謝りたい。
そのために同窓会に行く、という人の話です。


謝りたい気持ちに嘘はないのでしょう。
でも、ちょっと考えてみましょう。

その謝罪は、誰のためのものなのか。
 

相手はそのことをほとんど覚えていないかもしれません。
あるいは、忘れたくてやっと手放した記憶かもしれません。
謝られることで、かえって古傷が痛むこともあります。
 

謝る側の心は少し軽くなるかもしれません。
けれど、それが相手にとってよいこととは限らない。

「ごめんなさい」と言えば済む。
そんな単純な話ではありません。
 

過去への償いは、直接謝ることだけではないと思います。
誰かに親切にすること。
困っている人を助けること。
別の場所で、別の善意を生み出していくこと。

そういう形のほうが、
ずっと誠実な償いになることもあります。

苦しみ続けることは、償いになるのか

相談者は、
「死ぬまで苦しみを抱くのが妥当だと思う」
と書いていました。

それだけ後悔している、ということなのでしょう。
でも、ここでもう一度、立ち止まりたくなります。

自分を罰し続けることは、本当に償いになるのでしょうか。

真面目で責任感の強い人ほど、
過去の自分を、今の価値観で厳しく裁いてしまうことがあります。

子どもだった頃の自分。
介護に疲れていた頃の自分。
孤独だった頃の自分。
限界だった頃の自分。

そうした事情を脇に置いて、
ただ「悪かった」とだけ断罪する。

そこには、反省を超えた自己処罰があります。

後悔

自己否定

自己処罰

また後悔

この循環に入ると、人は前に進みにくくなります。
 

しかも、苦しみ続けることが、
「私はまだ良心のある人間だ」という証明にもなってしまう
ことがある。
だからこそ、罪悪感を手放すのが怖くなるのです。
 

苦しみがなくなったら、自分は冷たい人間になるのではないか。
そんな無意識の不安が、心の底にあるのかもしれません。

でも、過去と向き合う方法は、
苦しみ続けることだけではありません。

後悔の中に閉じこもるのではなく、
後悔から何かを生み出していく道もあるはずです。

もう、自分に石を投げ続けなくていい

この相談は、表面的には
「過去の罪とどう向き合うか」という話に見えます。

けれど、その奥には、

  • 偽善者にはなりたくない

  • 母のようにはなりたくない

  • 自分を甘やかしてはいけない

という強い思いが垣間見えます。
それが、生き方を長く縛ってきたのかもしれません。
 

もしそうだとしたら、これは単なる反省の問題ではありません。
自分を罰することでしか、自分の誠実さを信じられない心の構造の問題です。


だからこそ思うのです。

もう、自分を石打ちの刑にしなくてもいい。
苦しみ続けることだけが、誠実さの証ではない。


これから先の時間とエネルギーを、
自分を責めるためにではなく、
もっと自分の人生を豊かにすることに

使いませんか?