「悩みのるつぼ」 朝日新聞 be 2026.6.14.
「何をしても空虚感がある」 男性 50代
政治学者 姜尚中さんの回答
「あなたの知らないあなたに出会っては」
相談内容:
子どもの頃、野球に打ち込む生活をしていた。ところが高校進学を境に辞めて以来、野球に代わるような、本気で向き合えるものを見つけられないまま、今日まで生きてきた。
野球が順調なら、それ以外のことは気にならず、執着もしないという感じだったと思う。
高校で野球をしなかった理由はなんとなくだったと思う。高校生の時に友達がゲームセンターで喜々として遊ぶ姿を見て、何がそんなに楽しいのかと違和感を持ったことを覚えている。
高校生の時は、友だちとバンドを組み、ベースを弾いたり、大学生の時は読書をよくした。どちらも楽しくはあった。
だが、野球そのものの真剣勝負を一度味わった身としては、何をしても空虚感を覚えてしまう。
もうすぐ59歳。いまだにそのような物足りなさを感じていることに恥ずかしさを覚えることがある。
いい年をして、いまだに心の整理をつけられないダメな自分を感じる。
これから生きていく先で解決できるのか自信がない。近頃はあきらめるほかないかと思っている。
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回答:「あなたの知らないあなたに出会っては」
断ち切れないもどかしさを抱えたあなたの姿は、かつての私とダブり身につまされる。
私は高校球児からプロ野球の選手になる夢を破れ、挫折を引きずった経験があるから。
就活も国籍の壁に阻まれ、仕方なく大学院に進学したが、野球に後ろ髪をひかれ、我が身を持て余したことがある。
ただ、あなたと違って私が野球に魅せられたのは、野球を「メシのタネ」にしてプロの選手で一旗揚げたいという不純な動機からだった。あなたには、ひたむきなほどにピュアな「信仰」に近いものがあったのだろう。
私の場合、「メシのタネ」にしようとしていたから、どこか「たかが野球ではないか」という、「宗教音痴」とも言える横着さがあったのだと思う。あなたからすれば、不届きな傲岸さに見えるかもしれない。しかし、そのおかげで、野球とは全く違うフィールドにそれなりの生甲斐を見いだし、ときには「三昧境」に浸ることもできるようになった。
ひたむきな純粋さと真剣な真面目さ――こうした価値が何よりも尊いというこだわりが、逆にあなたの中の潜在的な可能性を削ぎ落してきたと言えないだろうか。
「宗教」にもたとえられる野球にのめり込むには、全人格まるごとの「帰依」が要求されるし、実際あなたはそれを捧げきれなかったと悔やんでいると思う。
それによって自ら生きづらさ、窮屈な人生を課していることにならないか。
これ以上分割できない唯一本当の自分と、それに対応するピュアで真剣な体験。
こうした閂(かんぬき)のかかったような人生には、作家の平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」が入り込む余地はなさそうだ。 人間は複数の「分人」からなり立ち、それは二重人格でも不誠実でもなく、自分の中の「複数性」に目覚め、生きるのがずっと楽になる「生きるコツ」と言えないだろうか。
複数の「分人」を生きることに年齢制限はない。最後のこと切れるまで、私たちは、未知の「分人」と出会えるのだから。
これまであなたの知らなかったあなたに出会えるとしたら、どんなに楽しいだろう。
無聊(ぶりょう)をかこち、空虚感に浸っている暇はない。
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カウンセラーの回答:野球を美しい思い出のままにしない
ご相談を読んで、まず感じたのは、あなたが長いあいだ「野球を失った自分」を責めてこられたのだろう、ということです。
子どもの頃に本気で打ち込めるものがあった。
その時間は、きっと濃く、まぶしく、人生がシンプルに感じられたのでしょう。
野球をしているあいだは、余計なことを考えなくてよかった。
勝ちたい。うまくなりたい。練習する。試合に出る。
目標がはっきりしていて、自分の居場所もあった。
けれど、高校進学を境に、あなたは「なんとなく」野球をやめた。
ここが、いちばん大事なところだと思います。
大きなケガがあったわけではない。
挫折して逃げた、というはっきりした物語もない。
誰かに止められたわけでもない。
ただ、なんとなく離れてしまった。
だからこそ、心の中で整理がつきにくいのかもしれません。
もし大きな挫折があれば、「あの時、終わった」と言えたかもしれない。
もしケガがあれば、「仕方なかった」と思えたかもしれない。
でも、なんとなくやめたものは、心の中で終わりにしにくいのです。
そのために、野球はあなたの中で、現実のスポーツというより、少しずつ「美しい思い出」になっていったのではないでしょうか。
中学生の頃の初恋を、長く忘れられない人がいます。
実際には、その恋がその後の人生をすべて満たしてくれるものだったかどうかは、わかりません。
でも、手に入らなかったからこそ、美しいまま残ることがあります。
あなたにとっての野球も、少しそれに近いのかもしれません。
もし高校でも野球を続けていたら、どうだったでしょう。
レギュラーになれなかったかもしれない。
思うように勝てなかったかもしれない。
監督や先輩との関係に苦しんだかもしれない。
「野球が好き」という気持ちだけでは済まない現実にも出会ったかもしれない。
つまり、あなたが懐かしんでいるのは、野球そのものだけではなく、
「人生がまだシンプルだった頃」なのではないでしょうか。
何を大事にすればいいかが、はっきりしていた頃。
自分の時間を、ひとつのことに注げた頃。
結果よりも、打ち込んでいる感覚そのものが、自分を支えてくれた頃。
大人になると、人生はそんなにシンプルではなくなります。
仕事、家族、責任、人間関係、体力の変化。
好きなことだけに全力を注ぐ時間は取りにくくなる。
その中で、あなたは「野球ほど本気になれない」と感じてきた。
でも、それは他のものに価値がなかったからでしょうか。
高校時代のバンド。
大学時代の読書。
それらも「楽しかった」と書いておられます。
けれど、あなたはそれを、野球と同じ熱量ではなかったから、どこか低く見てきたのではありませんか。
ここに、少し完璧主義が見えます。
「本気で打ち込むなら、あの頃の野球くらいでなければならない」
「人生を満たすものなら、空虚感を完全に消してくれなければならない」
「中途半端な楽しみでは意味がない」
そう考えてしまうと、どんな体験も合格点に届きません。
でも、50代後半からの人生に必要なのは、10代の頃と同じ熱量ではないかもしれません。
むしろ、少しゆるく、少し不完全で、でも続けられる楽しみです。
もし野球への思いが本物なら、いまからでも野球に近づくことはできます。
草野球でもいい。
シニア野球でもいい。
観戦でもいい。
少年野球の手伝いでもいい。
キャッチボールからでもいい。
地域には、年齢を重ねてから野球を楽しんでいる人たちがいます。
試合の勝ち負けだけでなく、練習後に集まり、笑い、昔話をし、体を動かす。
若い頃とは違う形の野球です。
あなたが求めているのは、もしかすると「真剣勝負」だけではなく、
仲間と同じ時間を共有すること、体を動かすこと、ひとつのことに集中すること、
そして「自分はまだ生きている」と感じられる時間なのかもしれません。
もちろん、いきなりチームに入らなくてもいいのです。
まずは近くのシニア野球、草野球、ソフトボール、バッティングセンターを調べてみる。
一度、見学だけしてみる。
グローブを手に取ってみる。
それだけでも、心の中の野球は少し動き始めます。
大切なのは、「あの頃の野球」を取り戻すことではありません。
「あの頃とは違う野球」と出会い直すことです。
そしてもう一つ。
あなたは「いい年をして」とご自分を責めていますが、59歳で空虚感に気づいていることは、決して恥ずかしいことではありません。
ただし、その空虚感を、いつまでも過去の野球だけで説明し続けると、これからの時間まで止まってしまいます。
「あの時やめなければ」
「野球さえ続けていれば」
「自分にはもう何もない」
そう考えるたびに、過去はますます美しくなり、現在はますます色あせます。
少しきつい言い方になりますが、
「野球がなかったから空虚なのだ」と思い続けることは、
いまの自分が動かないための理由にもなってしまいます。
本当に野球が大切なら、もう一度、現実の野球に触れてみてください。
見るだけではなく、少しだけ体を動かしてみる。
うまくできなくてもいい。
昔のように走れなくてもいい。
格好悪くてもいい。
美しい思い出の中に置いておく野球ではなく、
汗をかき、息が上がり、思ったより体が動かず、でも少し笑える野球。
そこに触れた時、あなたは初めて、
「自分が本当に求めていたもの」がわかるのではないでしょうか。
それは野球そのものかもしれません。
あるいは、集中する時間かもしれません。
仲間かもしれません。
身体感覚かもしれません。
人生をシンプルに感じられる一瞬かもしれません。
空虚感は、過去をあきらめることで消えるとは限りません。
でも、過去を少し現実の場所に戻してみることで、形が変わることはあります。
「もう遅い」と決める前に、
まず一度、あなたの近くで野球の場を探してみてください。
あなたの人生に必要なのは、
10代の野球を取り戻すことではなく、
59歳のあなたに合う野球を見つけることかもしれません。