仮面ライダーゴーストが9月18日放送の50話をもって、一応の終了ということになった。来週の放送分が本来の最終回ではあるが、これについては、『仮面ライダーゴースト』の最終回というより、『仮面ライダーエグゼイド』の第0話と考える方が妥当そうである。


演技はそれほど悪くなかった

今回のシリーズで主演を務めたのは西銘駿さん。まだ若干18歳だが、演技力という観点で言えば、おそらく例年程度まで上達したと思われる。と言うのも、仮面ライダーの一種の醍醐味は、前のライダーとの共演の映画から始まり、次のライダーとの共演の映画で終わる、という一年を超える長期間の中で見られる成長である。

前シリーズに当たる『仮面ライダードライブ』で主演と努めた竹内涼真さんなどは、最初期から演技は上手かったけれど、最終回に向かうにつれてますます上達が見られ、「夏映画」と呼ばれるそのシリーズだけがフィーチャーされた映画では、悲痛な叫びをあげるシーンが、あまりに辛そうなためにカットされたとの逸話も持つ。

『仮面ライダードライブ』という観点で言えば、2号ライダー・マッハを演じた稲葉友さんや、3号ライダー・チェイサーを演じた上遠野太洸さんも、かなりの演技力を発揮していた(この2人は仮面ライダー以前にドラマや舞台で活躍していたというのもある)。脇を固めるヒロイン・内田理央さんも、その他のメンバーも、近年稀に見るほどの高い演技力だったと思う。おそらく『仮面ライダードライブ』の最大の特徴は、ストーリー展開と各話のディティールや奥深さだろうと思うが、それに耐えうるだけの演技力だったということだ。

今回の『仮面ライダーゴースト』で言えば、あまりそういう演技派が出ていた印象はない。従っておそらく1話と50話を見比べてみると驚くに違いない。相当に演技も上達しているだろう。若さ故か。



ストーリー展開の必然性に目がつく

ストーリー展開については、近年稀に見るほどの不自然さであった。

挑戦的な試みとして、より多くの要素が加えられた作品であったと思う。つまり、「主人公が死ぬ」という衝撃的なところから始まり、「偉人」という要素が加えられた。それだけに飽き足らず、「親」という要素も加えられ、それで満腹だったのに「希望」だとか「愛」だとか、そういう部分が加えられる。

ストーリーの基本的構造は『仮面ライダードライブ』を踏襲したものになっているだろう。

基本的に1号ライダーに「戦う」使命が義務付けられる。2号ライダーはそれに後から、自らの意志を持って参加する。3号ライダーは元々敵方であったが、思うところがあって味方になる。

この構造であれば失敗するはずがないという、ある意味での信頼感があるからこそ冒険できたのかもしれないが、この冒険は失敗だったと言わざるを得ないだろう。

第1話で敵に殺された主人公である天空寺タケルだが、その天空寺タケルが、いやらしさを覚えるほどにセンチメンタルに浸る。その上で、教訓めいた説教臭い「真理」のようなものをモノローグで語る。その上、決め台詞が「命燃やすぜ」であり、「人はいつ死ぬかわからない」と物語を締めたというのは、とても笑える話ではない。

前作の『仮面ライダーゴースト』の力の源は科学技術であると比較的はっきりしていたのに対して、本作では力の源が、科学に偏ったものなのか、あるいは神秘的なものなのかが釈然としない。仮面ライダーの本質とも言える「敵と自分が同じ力を持つ」ということについてだが、この力の源がよくわからない以上、敵と自分が同じ力であるかどうかがはっきりとはしない。

眼魔という生き物?たちの世界があり、その世界の大帝はアドニスである。その次男であるアデルが父親に反旗を翻したのが物語の大きな骨格ではあるが、ではそもそもアドニスはどのように眼魔を作り出したのか。そこにいかにイージス長官が関与していて、なぜそこにタケルの父親である龍が関わっていたのかまったくわからない。

その上驚くべきことは、どうやらアドニスやアデルやアランは、原始時代の人物らしい。それでいて、この力の源が、あくまで「科学」であるかのような描かれ方をするのは不可解だ。

アデルは最後になって改心するわけだが(この基本構造も『ドライブ』に通じるものがある)、最終的にはその甲斐なく消滅してしまうことになる。つまり、やはり悪人は改心したところで助かる見込みはない、という勧善懲悪を体現した形だ。それなのにアランは最終回には満面の笑みをたたえる。いかにアデルが軽んじられているか推して知るべしというものだろうが、確かに彼に同情してしまう節もある。

『鎧武』や『ウィザード』、『オーズ』以前を見ていないので何も言えないが、最終回直前になって敵をすり替え、当初敵だったはずの相手と共闘するというのは『ドライブ』にも見られた構造だ。

おそらく1年間放送される中で敵にも情が移っているだろうとの制作側の同情だろうが、これには疑問を感じざるを得ない。つまり、そこに至るまでの戦いは、あくまで敵を倒すための戦いであった。それが最後になって取り替えられる違和感。仮面ライダーの原則に「力の源から力を受ける者が全て死ぬ」という終わりがある。自分自身すら否定しなくてはならない悲壮感があるわけだが、近年は「力の源そのものが肯定される」という終わりが好まれている様子だ。

1年間の長期間でストーリーが右往左往することは仕方ないが、今作は主題とも言える核の部分が変化してしまった気がしないでもない。それに悲しさを感じる。



ゴースト変身のディティールには感動

さて、今作の主人公は仮面ライダーゴーストである。

1号ライダーはいくつも変態を持つが、2号ライダーは1つだけ、3号ライダーは別のフォームは持たないというのも、『ゴースト』と『ドライブ』の共通点と言えるだろう。

1号ライダーのフォームチェンジには、近年稀に見る──おそらく仮面ライダー史上最大の伏線があったに違いない。

と言うのも、最初の変身体はオレ魂、次が闘魂ブースト魂、次がグレイトフル魂、最後がムゲン魂。これは天空寺タケル復活への道後が如実に表れているとの噂がある。

というのも、これを順番に並べる。

最初のオレ魂がこれ。噂ではこれは「お骨」あるいは「焼死体」を意味する(「命燃やすぜ」だけに)



次の闘魂ブースト魂。噂ではこれは焼かれている様子を表す。



次のグレイトフル魂は、霊柩車を意味する。



最後のムゲン魂は、白装束姿。



ここまで遡ってくれば、最後は生き返るだけだ。


ここに仕掛けられた伏線が本当のものであるとするならば、仮面ライダー史上類を見ないほどの「隠されたストーリー性を持つ」作品であったと言えるだろう。