このブログに来てくれて
ありがとうございます





「私」はどんどん愛を求めます
そして、愛が手に入ったと思っても
また次の愛を求めます
求めるということは
愛に満足していないのです




でも「全の私」は
今の愛で満足しています
ですから、これで終わりなのです
「全の私」は、今の愛でいいと言っています




次の愛を求めることを来ません
求めませんから、これで終わりです
これが「全の私」です



でも「私」は愛を求めて、それが手に入っても
また次を求めようとしています
次から次と
幸せが来ても、また次の幸せを求めています





だけど「全の私」は、今の愛でいいと
ここで打ち止めにします
求めないのではなく
今の私で十分だと
ここで満足するのです



これが、ありがたいということが
わかっている人です




ありがたいということが
わかっていない人は
ちょっと、優しくしてあげると
もっともっとと来ます
すぐに次を欲求してきます




「私」の愛は、絶対に満足しません
ザルで水をすくう人です





「全ての私」は、もうこれでいいと
今の自分に満足しています




もう、この今でいい
なにもいらない
それが、そのままこのままです
何かが手に入ってからではなく
今この場で
私はもうこれでいいと言えるかです




今この愛、今この場所
今この幸せで私はいいと断言できるかです
断言できる人は、全の愛の人です




自分を個人だと思っておらず
みんなの幸せを考えている人は今です
今もうこれでいいと満足しています





満足というのは
実在するものの中にしかありません
ですから
その人は、
実在の場所に目を向けて忌ます
今の場所に、目を向けているから
今で満足なのです




実在の場所は、永遠に今ですから
外の動きは関係ありません




何か条件があって、それが手に入ったら
私は愛をつかまえたとか
幸せをつかまえたとかいうのではなく
今たったこの場で
今どこにいても
私は、これでいいと自覚できた人は
全の人です





この人から出る言葉は
必ず慈悲があります
慈悲があるということは
人を責めるのではなく
その人に気づいてもらいたい
自分の中で、自力で気づいてもらいたい
そういうエネルギーを与えます
同じ言葉でも全然違います






そのためにも
私たちが、今の愛で
満足しているかどうかですね
明日の愛ではありません
今です❗
この瞬間
瞬間の今の愛で満足している人は
今を見つめている人です




そして、今というのを
勘違いしている人がたくさんいます
みなさんは
この今を明日と勘違いしています
今だめでも、
明日があるじゃないかと
勘違いしています





明日はいつまでたっても来ませんよ
明日になれば、また明日です
その人は今を
いつまでたっても来ない明日と
勘違いしています





そうではなくて、すんだことはいい
今一生懸命やるということは
一期一会になるということです
すべてが一期一会
すべてが集中です



集中ということは
守らないということです
自分を守らないことが
一番の集中です
闘うから、ストレスが来ます
闘わなければいいのです





そして、自分を守らない
それがそのままこのままあるがままです





闘わない、守らない人の行為の中には
いつも心がこもっています
心がこもっていますから
心がこもった思い、言葉、行動が出てきます






愛さえあればいいのです
愛がすべてを、動かしています
動かしているその表現者に
意識を向けていたら
守る必要はありません





守るということは
まだ自分、個人に力があると思っています
自分が神になろうとしています
もっと、神を信じることです
もっと、自分を信じることです
愛というのは
私たちのこの頭では
想像できないものです





想像を越えた場所
想像を越えたものです
ですから、
愛を説明できるものではないし
また、個人意識が想像した愛は
愛ではありません





愛というのは
ほんとうに、私たちの域を
はるかに越えたもので
ただ、あるがままです



そのあるがままということは
ほんとうに全知全能
ほんとうに至福の世界であって
私たちが言葉でとらえる愛では
ありません





ほんとうの愛を自覚するためには
早く「私」から「全の私」に
そして、偶像崇拝はやめることです



自分が愛、自分自身が愛だとわかった人は
全部が愛だということがわかります




私が特別だとか、私が偉いとか
人を責めるとか
自分がせめるとかいうことが
いっさいなくなります





たいせつなことは
人も責めない
自分も責めないということです
責めるということは二元性ですから
人と自分が泣くなったら
責めるということもなくなります





責めるという言葉は
人と自分がいることで生まれています
では、相手もいない
自分もいなければ分離感がありません
そのときあるのは、愛だけです




愛の中に人を責めるということは
存在来ません
ですから、日常生活の中でも
人も責めない
自分も責めないということは
自分の中の愛を
どんどん出していくことです





「私」というものがいて
人や自分を作っていませんか
それをやっていれば
私はどんどんうぬぼれるだけです
そうではなく
人も責めない
自分も責めないということは
「私」がどんどん消えていきます






ずっと見ていますと
私は残しておきながら
私というのを投影させて
私と相手を作り出しています
それで、いくら人を責めない
自分も責めないとやっても
それでは、いつまでたっても
私は消えませんから
いつまでたっても想像の世界です





消えていないから
有事の時にポンと私が出ます

何かあったとき、慌てふためいて
自分のことしか考えません


ここのところを注意して

本気で人も責めない
私も責めない
そして、責める言葉
良い悪いという言葉を
全部消してください
そうしないと、心がこもりません





心がこもっていれば、絶対に
分離感はありません
距離がありません
距離がないということは
余計な事を考えません




時間があるから。分離感があります
分離感があるから。
人を責めて自分を責めます
そして、悩み、苦しみ、嫉妬します





そういうものは
全部個人意識が作り出したもので
実在する世界には
そういうものはないということです




作られたものを、変えていっても
きりありませんから
作り出している
個人意識を変えることです。





               「愛さえあれば」より抜粋











ここまで読んでくれて
ありがとうございます