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心がこもっていないと
どういうことが起きるかというと
かならず、過ぎます


思いも過ぎます
言葉も過ぎます
行動も過ぎます



なぜかというと
心がないものは
非実在だからです



過ぎないものは
実在していますが
過ぎるものは
全部自分の頭のなか
想像力ですから
そういう人が神を説いても
愛を説いても
神を表現しても
全部過ぎたものです





過ぎたものは幻ですから
これは、闇です
闇の中で問題、苦しみ
悲しみが作られます




闇の中で生老病死は作られます
個人意識であるかぎりは
闇の中にいます




個人意識であるかぎり
生老病死、問題を作っています




だけど私たちが
個の私から大きな私になったとき
心を込めるということは
光を込めています
愛と光は一緒です




では、光があるところに
闇は一緒に存在することはできません




心を込めていれば
それは光を込めるということです
光を込めたときは
そこに闇は存在できません




存在できないということは
いっさいの悩み苦しみは
なくなるということです




心を込めてないから
問題があります
個人意識であるかぎりは
心を込めようと思っても
心を込められません




そして心を込めたときに
私たちは「個の私」から「全の私」に
なります




恐怖を表現するものから
愛を表現するものに変わります


心があるものは
ほんとうの触れあう愛を表現し
愛を説いて回ります
それは事実です
光あるところは事実の世界です




では、その人は想像の世界でなく
事実を見るところにいます
事実のところに闇はありません





光の中に闇は誕生しないということは
すべての悩み、苦しみ
問題は、そこから
誕生することはないということです

そのとき私たちは大きな私に変わります



けれど自分が個人だと思っている人は
すぐに言葉にとらわれます
言葉にとらわれるということは
かならず過ぎます
そして、考え過ぎます




日常生活で言葉にすぐとらわれる人は
とらわれているものと
とらえているものは一緒
見るものと見られるとのは
一緒ですから
その人は形だということです
自分は形だといっています
自分は名前であると
自分で名乗っているのと一緒です




では名前、形は非実在ですね
その人は
自分で存在していないといっています
すぐ言葉にとらわれる人は
自分が言葉だからです




見るものと見られるものが
違うことはありません
形の世界でも
みんなひとつを演じています




大きな形、ほんとうの形の世界は
真我が映して
距離がないものを見ていますが
この形の世界は
距離がある私が映して
それをただ見ているだけです
ですから
見ているものと
見られるものは一緒です
違うものは
見ることも聞くこともできません
触れることもできません




ということは
日常生活で
自分が言葉にとらわれたり
怒られたり、バカにされたりすると
どうしても
その人に勝ちたいというのは
それは
自分が言葉だと言っています




言葉だと思っている人は自分も言葉です
その人は形であり、名前です
非実在の人です
非実在の人というのは心がありません
けれど本人は
心があると、思ってやっています
つもりですから
それは偽善です





私だと思っている人は
心がありません
自分があると思っても
形は実在していません
愛は実在しているものですから
自分が私だと思っている人は
日常生活で
自分を責めたり
人を責めたり
言葉に傷ついて
勝ち負けを考えたり
ジェラシーを抱いたりする人は
自分を言葉だと思っています





その人は私は愛ではない
神ではないと思っているのと一緒です
そういう人は
心がないから
心をこめることもできません





                              「愛さえあれば」より抜粋




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