フィクションインタビュー | 海老蔵世代の一市民による自由研究

海老蔵世代の一市民による自由研究

ジャンル問わず、バカバカしい事からシリアスな事まで、何でも自由研究課題にして考察していきます。
どうぞ宜しくお願いします。

「信長問答」

願いは時空を超えました。

どうしてもインタビューしたい人がいました。
謎を解明したいという願いが叶い、本能寺に来る事が出来ました。
本能寺の変の直前です。

本能寺は思っていた寺のイメージと随分違い、実戦用に造られているのか塀が高く分厚く、要塞の様な建物です。

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夜の寺の不気味さは、今と変わりません。

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遠くの方で犬が哭いていました。

失礼します。

広大な寺内には僅かな兵士しか居ませんでした。武装した兵士は百人程です。

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これ程警備が手薄だとは予想外でした。
もう天下に恐れる人はいないという事なのでしょうか。信長さんはイメージ通り非常に豪胆な人の様です。

深夜0時を回っていましたが、信長さんは起きていました。お坊さん同士の囲碁の対局を見ておられます。

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もう帰りましたが、つい先程迄、嫡子信忠が来寺し、一緒に酒を飲んでいたそうです。

歴史では、あと数時間後に明智光秀が攻めて来るはずです。
時間がありません。インタビューを始めます。いきなり本丸に行きます。


Q:歴史ではあと数時間後に明智軍がここにやって来ます。逃げますか?

→なぜ逃げる必要がある。ワシが光秀を呼んだのだ。光秀に、中国出陣前に京で馬揃えと閲兵式をして行けと言ってある。生真面目な金柑頭(光秀のアダ名)の事、遅れまいと坂本城を早く出たのであろう。

※実際に、本能寺の変の前年、光秀は京都御馬揃えの任務を与えられていました。
馬揃えの儀式をより豪華にする為、信長軍の中で尤も規律の取れた光秀軍に閲兵式も兼ねた演出をさせたかったのかも知れません。
信長の祭り好きは有名です。
若い頃、彼自身も女装して祭りに参加した事があったそうです。


Q:信長さんが祭り好きなのは知っています。しかし常に合理的思考をされるお方でもあられます。天下取りの為には、光秀を坂本城から直接中国に向かわせた方が効率が良いはずです。なぜ兵士達の食料や体力も奪わせてまで閲兵式如きの為にわざわざ遠回りになる京都に寄らせる必要があるのでしょうか?

→そちは聡(さと)い。
この事は光秀にしか言うておらん事だが、実は一両日中にもここで家康を討つ。
今、家康はワシの命で堺見物をしておるが、明日ワシに挨拶をしにここに戻る。
家康には京を発つ前、最後の饗応として京でワシの兵の閲兵式を見て行けと言っておいた。

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Q:なぜ今、家康を討つ必要があるのですか?此れ迄、家康はあなたがどんなに苦境の時も同盟を裏切らず、あなたに尽くして来たはずです。

→家康が本当にワシに忠誠を誓っていると思うか?
確かに、此れ迄家康はワシによく尽くしてくれた。しかし天下取りが六分目迄来た今、ワシにとって最大の敵は家康。
その事は家康も分かっているはずだ。
三年程前、家康に正室の築山御前と嫡子信康を殺せと命じた事がある。その時家康がワシとの同盟を反故にすればそれを口実に攻め滅ぼす事が出来たのだが、挑発に乗らず言う通りにした。ワシに怨みがあって然るべきだ。その後もワシの為と口実を付け兵を蓄えておる。
この機を逃し、家康を駿府に帰せば討つのに時間と手間がかかる。


Q:具体的にどの様にして家康を討つのですか?

→明日、家康が本能寺に来る。ワシが饗応する。
本能寺の兵を手薄にしたのも、僅かな供回りしか連れておらず慎重な家康を油断させる為だ。
坂本から来た光秀が閲兵式をすると見せかけて本能寺を囲み、火を放つ。ワシはその前に逃げる。幸いにもこの寺は織田軍の補給庫だ。地下には火薬を埋めてある。
火をかければよもや討ち漏らす事はあるまい。


Q:なぜ、あなたが直接殺さないのですか?

→ワシが直接家康を殺したとあれば天下に聞こえが悪い。これ迄ワシに尤も尽くした家康でさえ殺されるのであれば、他の大名達も信長に従ってもいつかは同じ目に合うと思い、死にもの狂いで抗う事になろう。さすれば天下統一が遅れる事になる。不審火で焼死した事にすれば良い。


Q:家康謀殺に光秀は反対しませんでしたか?

いつもの如く、くどくどと理由を付けて刃向かっておった。将軍を退かせた時も比叡山や伊勢長島の時もそうだ。此度も家康との同盟やこれ迄の戦働きをくどくどと話しておったが、あの金柑頭はワシの考えがまだ分かっとらん様だ。打ち付けてやったわい。

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きゃつももう50半ばを過ぎた。
最近は痴呆もある様だ。戦働きはもう無理であろう。此度の事が過ぎたら息子に跡を継がせ、引退せよと言っておいた。
この事が終えたらきゃつには京で仕置きをさせ、ワシは中国の秀吉の元へ行く。

以上。

インタビューを終え、何かがおかしいと思いながら、早々に立ち去りました。


その頃、光秀は信長に言われた通り、本能寺に向かっていました。

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家康を葬った後、この京を治める布石なのでしょうか。
京に入る際、行軍の騒々しさで人々を起こして不安にさせぬ様、馬の蹄には藁を履かせ、厚めの枚(ばい)を噛ませています。兵士の具足の草摺りは荒縄で縛っています。深夜の洛中で光秀の静かな行軍に気付く人は誰もいませんでした。

また、京に入る前、光秀は京を見下ろす愛宕山に登り愛宕権現にお参りをしています。
京の人々の安寧と戦国の世が早く終わる事を祈願したのでしょうか。吉が出る迄、御神籤を三回も引いています。

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微に入り細に穿(うが)ち、優しい人の様です。
丹後平定後、民を慰撫する事に腐心し、民からは善政を敷く善き領主として評価されているのが分かります。


一方、
家康も堺を発ち枚方辺り迄来ていました。少し遅れましたが、明日の夜には本能寺に入ります。


信長との打合せ通り、明智軍が本能寺を囲みました。

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殿はもう逃げているハズです。

敵は本能寺にあり

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天正十年(1582年)六月二日 払暁(明け方頃)

本能寺に火を放ちました。

寺の暗闇から出て来た兵を家康の護衛だと思い、バサバサと斬って行きます。

寺からはまだ家康の首が上がっていません。
光秀自身が確かめに寺に入って行きます。

殿がいるではありませんか。

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光秀が初めてミスを冒してしまいました。
間違えて1日早く攻めてしまったのです。

信長が心配していた嫌な予感(光秀の痴呆)が当たってしまいました。

この時、光秀は信長に何かを言われました。
これまで我慢していた光秀が謀反を決意した瞬間でした。
今、京に居るのは光秀軍だけです。京の周りにはどの軍団も居ません。

光秀は信長に自刃を勧めました。

是非もない。

信長は何かを舞っていました。

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戦国最後の下剋上となったのでありました。

本能寺が凄く燃えていました。

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炎が京都の空を赤く焦がしています。

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急に気が変わって信長を討ったものの、天下取りの根回しを何もしていなかった光秀がその後どうなったかは、皆様のご存知の通りです。

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どうやら三者三様の間違いがあった様です。
学んだ歴史は、実際とは違っている事が多々ある事が分かりました。

しかし、家康は本当に本能寺に来るつもりだったのでしょうか。

本能寺の変の前、明智光秀の親友細川幽斎、明智光秀の家臣斎藤利三、家康の3人が会合している事実がありました。

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もしかしたら家康は何かを知ったのかも知れません。
後に、斎藤利三の娘 福(後の春日局)を自身の孫 竹千代(後の徳川家光)の乳母にしています。

何かの恩があったのでしょうか。


※昨年に引き続き、GW用に歴史物投稿をしてみました。今年は趣向を変え、フィクションインタビューにしてみました。

お粗末でございました。