サンダーバード(THUNDERBIRDS 1965~66)
解説
最早説明の必要がないほどアンダーソン作品では最も有名な作品である。五台のスーパーメカ「サンダーバード」を駆使し科学時代が生んだ新たなる災害から人々を救助する国際救助隊の物語だ。ただそれだけに日本でも本放送(昭和41年)から長く愛されており数々のムック本や研究書の類が出ている。しかしこれも誤報も多くここでは最近判明した事実を書いていこうと思う。
まず、日本では初回の放映ではNHKで放映されたが例の有名な主題歌「サンダーバードの歌」は流れずに英国版オリジナルのバリー・グレイの「サンダーバード・マーチ」がそのまま流れた。因みに日本で作られた主題歌は民放での再放送(昭和42年TBS)の二回目から流された。(どうやら1回目の段階ではNHKの放送と同じだったようだ。)その証拠として放送直前にコロンビアレコードから英国版シングルと同じ内容のテーマソングレコードが発売されていた。(内容は後年バリー・グレイ音楽集「NO-STRINGS-ATTACHED」の1、8曲と同じ。日本では92年の再ブームで発売されたが現在は国内版は廃盤。輸入版で購入が可能)
(これがそのレコードである。タイトルロゴは初回の日本放映と同じものでありほとんと掲載されないため貴重である。後のビクターレコードのソノシート=日本版主題歌はわりと有名なのに・・・。このレコードのロゴこそ本当の日本版タイトルである。)
次にこの作品の制作費の話である。雑誌や研究書ではよく当時2000万円の制作費とか書かれているが実際は現在の日本円で2000万円であった。つまりは円谷プロの1000万円ドラマであった「マイテイージャック」よりも低予算だったわけだ。しかし、破格の制作費ということではあまり変りはなくこの作品が今までの作品より増額出来たのは前作の「ステイングレイ」の商品化権での売上が良かったから可能だったのだ。
更に話は続く。この作品は1965年に26本制作され好評だったことから1966年に6本(映画版と同時進行で)製作され英国での最終製作分は「GIVE or take a milllion(日本版タイトル「すばらしいクリスマスプレゼント」第31話)ということでよく英国での最終話と書かれている。しかしこの作品は最終話でない。この追加の6本で構成されている第二シーズンでは65年に製作された第1シーズンの再放送の中に混入されて放映されておりあくまで新規に制作されたエピソードの最後ということになる。(ちなみに最後に放映されたのは未だに不明なのだが「秘密作戦司令」らしい。この件に関しては目下調査中)
さて、本作の企画は1963年10月のある夜「ステイングレイ」のその日の撮影が終わったときアンダーソン(以後、ジェリーと書く)は深夜の仕事で疲れていたことから始まる。連日の残業で疲れている上に彼の耳に幻聴さえ聞こえ始めてきたのだ。そこでジェリーは気を紛らわせようとカーラジオをかけBBC4にチャンネルを合わせた。そこに流れていたニュースが彼の中でインスピレーションを起こしたのだ。そのニュースは西ドイツの鉱山で災害があり129人もの人が地下に閉じ込められているというものだった。更にこの前代未聞の事故は何とか79人は通気孔をつたって何とか逃げ出すことが出来たが残りの50人はそのまま閉じ込められたままで救助隊が懸命な活動の結果そのうち11人が救助させたが残りの29人は生き埋めとなって死亡した。そこでジェリーはあらゆる災害を迅速にして救助するというコンセプトを作りここに「国際救助隊」の企画が誕生したわけである。企画の概要は完成した作品とほぼ同じでジェフ・トレーシーが南の島を拠点として彼の5人の息子がスーパーメカを駆使し災害から救助するといったもので息子の名前も完成作品と同じである。(ちなみにネーミングはNASAの宇宙飛行士にちなんで附けられた)敢えて相違点を挙げるならタイトルはこの時点では「国際救助隊」であることと五台のメカの名前が「レスキュー1~5」というくらいか。又この時点では通常のシリーズと同様、30分シリーズでの製作だった。この時点でかなりの高予算になると懸念したジェリーだったが社長(総合プロデユーサーと書かれているが実際は社長)のルー・グレイトは彼のアイデアを非常に支持し本作の製作は決定された。そこでジェリーはシルヴィアと共に第1話の脚本を執筆した。そしてその後で二人はポルトガルのアルブフェリアという小村で最終的な本読みと脚本のチェックをしたのである。この内容はRMFのマンストン飛行場で目撃したという飛行機が着陸用の車輪なしで着陸した事件を基にしている。だがこの時ジェリーはシルヴィアの立ち振る舞いに悩まされたという。それが二人の別れの前兆になろうとは・・・。
閑話休題、この新しい企画を真っ先に知ったのは今までのスーパーマリオネ―ション作品の常連監督のアラン・パテイロであった。彼はジェリーの自宅に呼ばれこの新たなる企画の話を聞かされた。そして彼が第1話の「SOS原子旅客機 TRAPPED IN THE SKY」の監督に任命されいよいよ1964年の1月、正式に撮影された。